大蛇の屋敷
玖澄に案内され、屋敷の中へと足を踏み入れて。
初穂は、やはり自分は既に浄土にあるのではないか、と目を見張った。
生まれてこの方、初穂は嘉川の屋敷の奥座敷で育った。
ほぼほぼ外出する事すら稀で、凡そ初穂にとって世界とはあの奥まった部屋だった。
一帯の地主としての面子がある故か、屋敷は寒村には不釣り合いな程贅を凝らした造りではあった。
父は帝都を嫌い、外界からの人の出入りを毛嫌いしていたが、それに反して美術品や工芸品を金にあかせて集めては屋敷中に飾っていた。
少し前から特にそれが顕著であり、屋敷にはきらきらしい品々が並んでいた。
ただ、初穂はどこかちぐはぐで、行き過ぎたものであるような気がしていた。
古い話のお城のようですと女中は言っていたが、初穂はいつも落ち着かなさを感じていたのだ。
玖澄の屋敷に足を踏み入れて、比べてみて気付く。
嘉川の屋敷があまりに華美であったように思い、また『俄作りの贅』だったと感じる。
この屋敷もまた、贅を尽くしたもの言える。
けれど、巡る梁一本、支える柱一本とっても。置かれている調度の一つにしても。
そこにあるのが自然に調和しあい、流れるような、ゆったりとした空気を醸し出している。確かに歴史を経た、時を積み重ね磨かれた贅だと感じる。
そう学があるわけでもなく、教養があるわけでもないから、どうこうと詳しく説明できるわけではない。
何となく肌で感じるだけではあるが、初穂はこの屋敷の一つ一つが織りなす空気を好ましいと思った。
ついつい見惚れたように周囲を見回してしまって、ふと気付く。
玖澄が足を止めてこちらを見ているではないか。
浮かれたようにあれこれ見ていた初穂へ優しい眼差しを向けたまま、少し離れた前方にて佇んでいる。
人様の住居を不躾に見ていただけではなく、先を行く相手の足まで止めさせてしまった事に初穂は慌てる。
謝罪を口にしながら、開いてしまった距離を縮めるべく一歩踏み出そうとした時。
初穂は、目を瞬いてもう一度周囲を見回す事になる。
何か聞こえた気がしたのだ。
気のせいかと思ってゆるゆると頭を振ってみたものの、やはり聞こえる。
『およめさま、およめさま』
小さな子供のような声が聞こえる。
どういう事だろう、と怪訝に思いながらもう一度周囲を見回してみて、見つける。
ふわふわと浮く幾つもの小さな影がある。
一つ一つの影が人に似た形をして、可愛らしい衣を纏って。まるで小さな人形が動いているようで。
歌うように囁きながら、小さな影は初穂の回りをくるくると踊っている。
子供がはしゃぐようであって、喜んでいる風にも見えるのだが……。
初穂が戸惑いながらも動く影を目で追っていると、玖澄のものより少しばかり高い声が聞こえてくる。
「この山の精霊たちです。
驚いて声のした方を見れば、そこには人影が一つ増えていた。
浮く影のようなふわりとしたものではなく、確かな人の形をしている。
着ている着物からすれば少年、であるのだろうが、線の細い少年のようにも少女のようにも見える。
性別が曖昧に見えることも相まって、尚更不思議な美しさを醸し出しているように思える。
白雪のような髪の少年は、笑みを浮かべながら口を開く。
「小霊たちは、単体ではあまりに儚い存在。力を持つあやかしの側にいる事で存在を安定させ、永らえるのです」
「
玖澄は少年に気付くと、表情を緩めた。
白妙と呼ばれた少年は、初穂の前に進み出ると恭しく礼をして見せる。
「ようこそいらっしゃいました、嫁御寮。わたくしは玖澄様にお仕えしております白妙と申します」
「瀬皓の長の娘の、初穂と申します……」
あまりに丁寧な物腰に、初穂は咄嗟に言葉を返す事が出来ずに戸惑ってしまう。
玖澄同様に、この白妙という少年もまた、初穂を捧げられた『贄』ではなく迎えるべき『花嫁』として扱っている。
嫁御寮、と呼ばれて裡の戸惑いは更に増し、心は揺れに揺れている。
それでも何もないのは失礼と思い直し、慌てたものの何とか名乗りと礼を返した。
「主に屋敷を仕切ってくれるのが、この白妙です。小霊達を取り纏めてくれています」
玖澄は白妙に視線を向けてから、穏やかに微笑みつつ口を開いた。
彼によると、屋敷には玖澄と白妙の他に住まう者は居らず、彼らは小霊たちの手を借りて暮らしているらしい。
「本来はもう一人居るのですが……。そちらの子は、主に外を飛び回ってくれているので、帰ってきた時にでも紹介します」
外、とは屋敷の外だろうか。
この美しい屋敷にさりげなく置かれた品々は、確かにどれ一つとっても名人の手によるもの。
屋敷にその造り手が居らぬというなら、当然それは外から手に入れたのだろう。
居ないもう一人、は屋敷と外の世界を繋ぐ役割をしているのではないか、と察した。
「それでは、屋敷の中を案内……」
「お待ちください、玖澄様」
楽しそうに言いながら、初穂を促して歩き始めようとした玖澄。
しかし、まるで釘を刺すように白妙が止める。
玖澄につられて白妙へ視線を向けると、彼は半眼の状態で玖澄を見据えていた。
「浮かれて屋敷中を案内して回るつもりだったでしょう。嬉しいのはわかりますが、嫁御寮のお身体をまず考えて下さい」
「はい……」
「慣れぬ場所に来たばかり。それで無理をすれば、祝言にもこの先の生活にも障りがでるでしょう。それに、あなたも準備が必要でしょうに」
「その通りです……」
腰に両手を当てながら、幼子に説教をするように滔々と語る白妙と、項垂れて大人しく聞いている玖澄。
先程の様子から、主は玖澄であるはずだが、これではどちらが主なのかわからない。
はしゃいでしまって恥ずかしい、とでも言うように身体を縮めている玖澄は、どう見ても恐ろしいあやかしとは思えない。
見た目の年齢相応の、気性の大人しい人の青年にしか見えない。
初穂は表に何とか溢れそうになる戸惑いと疑問を押さえていたものの、そろそろ限界である。
それを見て、初穂が疲れていると受け取ったのか玖澄は慌てたように言う。
「まず、お部屋にご案内します。まずはお休み頂いたほうがいいですよね……」
大丈夫ですか? それまで歩けますか? と狼狽えた風な玖澄を見て初穂の調子は更に狂う。
獰猛な蛇のあやかしと聞いていた。
怒り狂い人を喰らう、恐ろしい大蛇だと……。
目の前の青年は、確かに蛇のあやかしであると名乗った。美しい青年が示す特徴も、確かに蛇のものであるけれど。
(どうなっているの……? どういう、こと……?)
心配そうな玖澄に導かれ、屋敷の廊下を歩きながら初穂は裡に問い続ける。
山の大蛇が怒り、村に災いを齎した。故に、自分はその怒りを鎮める為に贄として捧げられた。
だが、実際に来てみればどうだろう。
玖澄は、花嫁を迎える事を喜び、初穂を丁重に迎え、更には初穂の様子一つに動揺し、狼狽えて見せる。
怒っているようにも見えないし、気分で他に災いを及ぼす風にも見えない。至って穏やかで優しい……むしろ、些か気の弱そうな青年にしか見えない。
二人に気遣われながら導かれ、屋敷の中を歩む。
花々が零れるように咲き乱れる月下の庭園を臨む渡り廊下の先、初穂に用意されたという部屋に辿り着く。
襖を開いて中に生じ入れられて中に広がる光景を目にした途端、初穂は完全に言葉を失ってしまった。
日々の暮らしに必要な品々が不足なく揃っているというだけではない。
その一つ一つが、あまりに美々しく優雅に整えられていたからだ。
襖には見事な物語絵が、あくまでうるさく主張しないように描かれている。
欄干の木彫り細工も緻密であり、床の間には花を活けた花器に、幽玄な風景の描かれた掛け軸が。
配置された調度類は、明かり一つとっても、設えと調和する意匠にて装飾施された逸品である。
目を向けた先に、鏡台があった。
流麗な蒔絵の施された鏡台に、側に置かれた化粧箱も、手鏡や櫛といった小物も同じ意匠で統一されていた。
用意されている紅などの化粧品も、何もかもが瀬皓では滅多にお目にかかる事のないもの。長の妻である初穂の母ですらとっておきの晴れの日に使うかどうか。
窓からは月の光のもと、四季の花に螢が行き交う美しい庭園を見渡す事ができる。窓を開けば、窓枠が額縁となって一枚の見事な絵のようだ。
あまりの流麗な美しさに、見事さに、圧倒されてしまって言葉にならない。
ましてや、ここで過ごす事になるなど、現実とは思えない。
「ここが、私の、お部屋……?」
「花嫁がいらっしゃると聞いて、玖澄様がそれはもう張り切って支度をされました」
呆然と掠れた声音で呟いた初穂に、笑顔の白妙が頷いて見せる。
その言葉に、初穂は弾かれたように玖澄を見てしまう。
つまり、この部屋を整えたのは他でもないこの屋敷の主である玖澄ということだ。
初穂の視線を向けて、玖澄は苦笑しながら申し訳なさげに口を開く。
「今時分、人の女性がどのようなものを好まれるか分からなくて。もし、気に入らないようなら遠慮なく言ってください」
「い、いえ! そんな、畏れ多い……!」
このような立派な支度を整えてもらった上で不満など、ある筈がない。初穂は慌てて首を左右に振って否定する。
そもそも、部屋を用意してもらえる事自体を予想していなかった。
初穂は、贄だ。贄とは喰らうもので、喰らわれれば当然そこで初穂の命は終わる。
すぐに潰える者の為に、居心地よく暮らせる部屋を、美しく整える筈がないのに。
玖澄や白妙からは、欠片の悪意も感じない。嘘や偽りも感じ取れない。
彼らは純粋に、花嫁として初穂を歓迎してくれている。それがわかるからこそ、初穂の戸惑いは増すばかりなのだ。
「今暫くしたら、呼びに参ります。それまでお寛ぎ下さいませ。何かご用事があれば、呼んで頂けましたら小霊達が控えておりますのでお申しつけ下さい」
「初穂さん……。いえ、それでは、また後で……」
名残惜しそうな様子を見せた玖澄の首根っこを捕まえる白妙。
そのまま、白妙に引きずられるようにしながら、玖澄は初穂を部屋に残して去っていく。
残されたのは、呆然とそれを見送った初穂だけ。
どこか現離れして美しい部屋に一人残された初穂は、糸が切れたようにその場に座り込んでしまう。
何が、どうなっているのか。
初穂の心を埋めつくすのは、その問いだけだった。
花嫁という名の贄として覚悟を決めて向かった祠に現れたのは、確かに蛇のあやかしと名乗る青年。
だが、あやかしであるという玖澄は、初穂をあくまで花嫁として喜んで屋敷に迎え入れた。
迎えた花嫁が不自由なく過ごせるように、自ら支度を整えて……。
頭がくらりとするほど想定していなかった事ずくめであり、理解がまだ追いついていない。
力が抜けてその場に倒れ伏しそうになった初穂だが、ふと表情を険しくする。
いけない、と自らを戒める。調子を整えようと、頭を激しく左右に振る。
何の為に贄となったのかを思い出せ、と自らを叱咤する。
何をする為にあの祠に身を置いたのか思い出せ、と。
初穂には、命に変えても果たさなければならない役目があるのだ。
それは身と引き換えにしなければならない、危険なものである。
だが元より、贄として捧げられた時に死んだと同じ事だ。この命の何を惜しむ事があるだろうか。
胸元から、あるものを取り出す。
それは、一振りの短刀だった。
簡素な装飾の刀は、長さこそ花嫁が護身の為に持つ懐剣と同じである。
だが、嫁入り道具の一つと称するにはあまりに質素で、そして何処か重々しい雰囲気を持つものだった。
忘れてはならない。
――初穂は、あの大蛇を討つ為に贄となったのだから。
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