第二十三話「白銀」

 祈って、縋って、救われる。それで幸せになれるでしょうか。

 

 ふわりと地面に降り立った女神は、白い長髪に銀の瞳、そして白いドレスを身に纏っている。薄く浮かべた笑みからは、感情が読み取れない。どれほど鮮やかな光を浴びようとも、女神の白は色づかなかった。一度角山と目が合うと、女神は粛々とした態度で角山たちの方へと歩み寄る。近くに居るだけでも、精神的な重圧を角山に与えた。

「嗚呼、なんて惨いのかしら」

 慈愛と憐憫。この一言にその全てが詰まっていた。女神は角山を見下ろしている。まるで、綾子や千崎などその場にいないかのように、角山だけを見つめている。

「貴方はこの世界を元に戻すために尽力し、精神をこんなにも狂わせてしまったのですね」

 見透かしたような目。憐れむようなことを言っているが、世の中がおかしくなってしまった要因には女神も含まれているはずだ。それを角山は分かっている。分かっているが、不思議と女神に抗弁してやろうという気持ちが湧かない。むしろ、その慈しみを拝受しようとしている自分がいた。

「ですが、もう苦しまなくて良いのですよ。わたくしは、貴方の願いを一つ、叶えて差し上げるために今ここにいるのですから」

 女神の声が、角山の心に絡みつく。

「願いを……」

 角山はその言葉に惹かれてしまった。願いなど一つしかない。この世の中を正常に戻すことだ。それを叶えてくれるなら、どんなにいいか。角山はこくりと喉を鳴らした。

「センセ!」

「朔壱朗さん!」

 千崎と綾子の呼びかけで、角山は正気を取り戻す。女神の言葉を振り払うように、首を振った。角山は騙されるな。と自分に言い聞かせる。しかし、同じ心の中では縋りつきたい。という思いがあった。精神にかかる重圧が増す。

「躊躇うことなどありません」

 女神が手を差し出す。すると、女神と角山を中心に、床に大きな魔法陣が現れた。それは光り輝き、小さな光の粒たちが昇っては消えている。彼女の手を取れば終わりがくる。そう察するのは簡単だった。角山は女神の白い手袋を凝視している。

「世界を正常にする。そう願い、私の手を取れば、貴方だけではなく、多くが救われます」

 女神の言葉はまるで呪文のようだ。紡げば紡ぐほど、心を惑わせて惹きつける。角山にはこれは誘惑であって、慈善ではないと理解していた。しかし、心はすでに手を取る寸前だ。

「祈って、縋って、救われましょう」

 角山が一歩下がれば、女神は一歩踏み出す。角山の精神を捩じ伏せようとするその姿は、女神というより捕食者だ。この世界の命運は角山に託されている。女神と握手をするか否かで最後が決まる。突き放せば何も変わらず、途方に暮れることになるかもしれない。角山は女神の顔を見た。微笑んでいる。

「本当に、叶えてくださるのですか」

「ええ、ええ、貴方が祈り願えばどんなことでも」

 角山は考える。願いの内容を。

「だ、駄目です!」

「外野は黙っていろ」

 割り込もうとした綾子を、岸島が咎める。その様子を見て、角山は世の中を元に戻すことより、最適な願いがあることを確信した。この世の中を理想だと言い、変えることをやめろと言っていた岸島が、目の前で行われようとしている改革を止めようとしないのだから。何か裏があるはずだ。角山の精神には女神からの重圧と責任、そして縋りつこうとする心を必死に抑えようとしていることで、多大な負荷がかかっている。それでも、考えることをやめようとはしなかった。千崎が幸福剤を与えてもらった結果、心を壊したように、願いに大きなデメリットが伴う可能性。そもそも、願いを叶えるというのが本当なのかも分からない。角山の呼吸が早くなる。何と願えば全てが丸く収まるのだろうか。世の中を元に戻すこと以外の願いも叶えてくれるのだろうか。何か別の方法は本当にないのか。角山は胸を押さえて背を曲げた。自分でないと駄目なのか。これで本当に終わりがくるのだろうか。この世の中を元に戻さなければ。こんな、こんなおかしな世の中、あってはならない。平等政策? 新興宗教、奇妙な病にまともじゃない人々。元に戻ったその後に、真の幸福はあるのだろうか。この世の中の元の姿の記憶もないのに! だったら——

 角山は女神の手を握った。

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