第二十二話「信仰」

 小さくとも喜びを与え続けてくれる相手こそ、信じるべきなのです。

 

 ステンドグラスから差し込む陽の光が、彼の黄髪をより一層鮮やかにしている。扉が開くにつれて音を立てると、彼は立ち上がり、角山たちの方へ振り向いた。

「センザキくん」

 角山は走った。そして、近くまで来て気づいた。千崎が泣いていることに。涙を流し続けている。しかし、笑っている。その異様な姿に、角山は目の前の現実を受け入れられないような、そんな気持ちになった。

「センザキくん……何があったんだ」

「俺、ここの信者に、なったんです。これの、ために」

 千崎が角山に差し出した手を開くと、そこには錠剤の入った小さく洒落た薬瓶があった。錠剤ひとつひとつが、様々な形と色をしていて、普通の薬ではないことが分かる。

「これ、まさか」

「幸福剤、もらった、んです」

 千崎の涙が一粒、薬瓶の上に落ちて流れた。

「もらった?」

「ずる、しちゃいました。だから、俺、こうなって……でも、」

 角山と目を合わせた千崎は笑顔を見せた。何ともぎこちない笑顔を。

「これで、センセ、幸せになれます」

 角山は悲しかった。


「センセ」

 千崎は差し出す。角山は手を出すことなく、その薬瓶を見つめる。また、薬瓶が一滴濡れた。

「センセ」

 千崎は一歩近づいて、角山の手を取った。幸福剤を持つ自分の手の上に重ねる。千崎の手は僅かに震えていた。瓶は冷たく、千崎の手はあたたかい。

「センセ」

「センザキくん」

 角山はそのまま千崎の大きな手を握ると、優しく押し下げた。下がっていく手とともに、千崎は笑顔でなくなっていった。

「ごめんね。受け取れない」

 角山がそう言うと、千崎は小さく呻いた。

「どうして、ですか」

「必要ないからだよ」

 角山は薬瓶を千崎の手の中から取り上げると、ベンチの上へ置いた。そして、差し出したまま動かない千崎の手を両手で包む。千崎はそれを見つめている。二人の手が、一滴、二滴と濡れた。

「センザキくん。僕はあの薬で得られる幸せよりも、センザキくんと一緒にいる時間から得られる幸せの方が大切だと思えるよ」

 千崎の手の震えが止まっていく。

「だから、あの薬は僕には必要ない」

 不必要な薬を飲めば、それは良い効果をもたらすどころか毒になる。あの幸福剤はまさに、二人にとっては毒物なのだ。千崎の涙が止まっていく。最後に右目から一粒こぼすと、千崎の瞳は泣くのをやめた。

「センセ」

 薬瓶にヒビが入る。

「俺、飲んでないけど分かります。今、感じてるこの幸せは、きっと薬じゃ手に入りませんね!」

 薬瓶が音を立てて割れた。中の錠剤が、砂のようになって溶けていく。後ろで一部始終を見ていた綾子は、口元に手を当てて、喜びで叫び出しそうなのを抑え込んだ。すっかりいつも通りになった千崎は、満面の笑みを浮かべている。角山も嬉しかった。しかし、感じているのは嬉しさだけではない。ここ、銀叶への怒りと疑念だ。関係者を問い詰めなければ。そう角山は決心した。

 突如、最奥の司教座のある方からコツコツと靴音がした。

「友愛、素晴らしいな」

 そこいたのは、岸島だ。司教座の横に立って、何とも愉快そうにしている。

「見世物としては十二分に面白かったぞ。笑えるくらいだ。ははっ」

 手を叩いて笑う真似をする岸島に、角山は冷たい視線を送った。

「僕も笑ってしまいそうですよ。自身を先導者だとか光だとか言っていた人物にしては、振る舞いがちょっぴり、いや、かなり残念な感じなので」

「小物ってやつですね!」

 早押しクイズが如く言ってのけた千崎。角山は「こらこら」と言いながら頷いた。綾子は今は黙っておこう。そう、思った。

「口の減らない奴め……まあ、いい。お仲間をたくさん引き連れなければここへ来られない、臆病者の言うことなどどうでもいい」

 そんなに大人数だろうか、と思った角山たちが入り口の方を見ると、胃炭たちは少し開けた扉から、仲良く串団子のようになって中を覗いていた。見られたからといって、隠れる素振りはない。呆れたような顔をする角山。すると、胃炭たちは何か口をパクパクと動かし始めた。距離的に小声は届かず、何を言っているのか分からないが、面倒なので角山は分かったようなふりをした。峽とハシロは聞こえていないことに気づいたが、胃炭と零次朗は何やら嬉しそうにしている。角山が苦笑していると、岸島は大きく咳払いをして、角山たちの視線を引き戻した。

「いいか、よく聴け。集中しろ。特にカドヤマ」

 岸島は角山を小突くように指差しながら言った。

「もう、手遅れなんだ。前にも言ったが、この世の中をどうにかしようなどということはやめろ。思いもするな。諦めろ」

「お断りします」

 角山の返答に迷いはなかった。もう、角山に諦めるという選択肢はない。後戻りをするつもりもない。もう、岸島の言葉で揺らぐような精神状態ではない。

「これ以上貴方に、この世の中を任せてはおけません」

 そう言い放つと、岸島は僅かに目を見開き、歯を食いしばった。額に指先を当て、大きく深呼吸をする。そして、さも気にしていないかのように笑ってみせた。

「お前は何も知らない。この世の中の素晴らしさを。可哀想になぁ」

 岸島は角山たちを煽るような目つきで眺めながら、司教座の肘掛けを撫でた。

「だが、安心しろ。お前も『女神』に会えば、その哀れな考えも変わるやもしれん」

「女神……?」

 角山は懐疑的だ。その女神とやらを、すでに詐欺師の類としか思えなかった。もし仮に本当に神のような存在だったとして、こんな世の中を司る神など信仰に値しない、とも思った。今の角山にはどんな相手が来ようとも、自分を保つ決意がある。しかし、綾子と千崎は不安を顔に出していた。

「気をつけてください。俺に本当の幸せを分からなくさせたの、その女神なんです」

 千崎が角山に顔を寄せて小声で伝える。千崎に薬を与え、おかしくした謎の力を持つ女神。それが、人智を超えた存在であるかもしれないということは、角山にも分かり始めていた。

「さあ、遭逢の時だ」

 司教座から離れる岸島。その場を照らすステンドグラス越しの光が、一層強まったように見えた。まるで、スポットライトのように。

 一筋の白い光が、糸のように垂れてくる。それが床にぶつかると、その光が渦を巻き始めた。目の前で起こる超常現象に、角山はまるで夢を見ているかのような気分だ。そして、高さを増していく渦が、中央に寄ったかと思えば、突如それは周囲に弾けた。キラキラと舞い散る光の中から現れたのは、白い、女神のように美しい女性だった。

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