第二十話「再起」

 自分が掛け替えのない存在だと気づけた時、人はより一層強くなれます。

 

 完全回復、とまではいかないものの、昨日と比べて調子を取り戻してきた角山は、今日も診察をしていた。患者の話を聴いて共感し、言葉をかけて、必要であれば薬を出す。その繰り返し。よく分からない病名や症状に、いちいち敵意を抱くのをやめた角山は、機械的に患者を診ていた。それは、普通ならば良くないことだ。しかし、この世の中にその普通は当てはまらない。だから、これで正解なのだと、角山は思っている。何も問題はないのだ。

 内線電話の音が鳴る。

「はい、第二診察室、角山です」

「新患の方がお見えになりました。準備をよろしくお願いします」

「分かりました」

 通話が切れる。角山はそこでまだ問診票等が届いていないことに気がついた。これでは準備のしようがない。しまったと思いつつ、受け取りに行こうとしたところで、扉を叩く音がした。患者が来てしまったようだ。

「どうぞ」

 閉め出すわけにもいかない。中で待ってもらって、自分は連絡通路側の扉から資料を取りに行こうと立ち上がった角山だったが、開かれた扉から現れた人物を見て、その動きを止めた。そこにいたのは、ひとりの修道女だった。

 くせ毛の黒い髪に短めのベールをかぶり、黒い修道服を着た女性。目元にはクマがある。年齢が読み取れない容姿だが、若いのは確かだ。

「朔壱朗さん」

 そう、名前を呼ばれれば、

「綾子、さん」

 角山は彼女の名前を呼び返すことしかできなかった。

「お願いがあって来ました」

 綾子は強い意志を持っているような態度で立っているが、手は不安で震えている。角山の向かい側まで来ると、ソファには座らずそのまま話し始めた。

「どうかもう一度、この世界と向き合ってください。朔壱朗さんの力が必要なんです。わたしは、この世界をこのままにしておきたくないんです」

 角山は綾子から目を逸らした。自信がないのだ。

「そう言われましても、僕にできることなんてもう——」

「あります!」

 綾子はスカートを握って、震える手を抑え込む。

「朔壱朗さんにできること、あります。それどころか、朔壱朗さんにしかできないんです。この世界を、いい方向へ導くことは」

 角山にしかできない。そう訴えられても角山本人には当然その実感がなく、綾子以前に自分のことも信じられない心境だ。しかし、これほどまでに力強く自分の意見を言う綾子を見て、角山の諦めで満ちていた心は、葛藤をし始めていた。

「お願いします」

 綾子のその言葉の後は、長い沈黙が訪れた。綾子は待った。静けさが数十秒経過したとて、急かすようなことは言わなかった。角山は依然として口を閉ざしたまま俯いている。よく考える必要があった。角山の心はすでに一度、限界を迎えている。それがもう一度あろうものなら、その時にまた心が形を保ったままでいられるとは限らない。半端な覚悟で承諾するわけにはいかないのだ。そんな角山は、いったいどんな答えを出すのだろうか。もうしばらく経った頃、角山は綾子と目を合わせた。

 そして、

「分かった。今度は僕が君の味方になる番だ」

 角山は綾子の手を取ることにした。

 

 綾子は緊張状態から解放された安堵で、思わず涙をこぼした。角山がティッシュを差し出すと、綾子はお礼を告げて目元を拭う。

「よかったです……本当、どうなることかと……」

 角山は苦笑しながら、濡れたティッシュを受け取った。

「随分と仰々しい頼み方で、まるで主人公になった気分だったよ」

「仰々しくなんてありません。朔壱朗さんが主人公でないといけないんです。この世界は」

 綾子も冗談じみたことを言うのかと、角山は物珍しさを感じつつ、とあることを思い出した。スラックスのポケットから何かを取り出す。少しよれてしまったそれの形を整えると、綾子に差し出した。

「全て解決した後ではないけれど、顔を合わせられたことだし返しておこうか」

 それは約束の証である、白紙のメモ用紙だった。

「持っててくださったんですね……! ありがとうございます」

 綾子の笑顔は何ともぎこちないが、喜びの感情はよく伝わる。両手でそのメモ用紙を受け取ると、綾子はスカートのポケットへしまった。

 再び世の中に干渉することを決めた二人は、まずは作戦を立てるべきだと判断した。診察室内、まずは今まで分かったことをノートに書き込みながらまとめ始めた。

 まず、このおかしな世の中になる前の、正常な世の中がおそらく存在すること。変化の境目は角山が思うに、平等政策の始まりである。次に、正常な世の中の時の記憶がないこと。そもそも、周囲の人間の話や角山は自分の記憶を思い返す限り、記憶そのものの信憑性は薄いようだ。そして、この「世の中」の範囲は咲ヶ原市内に限定されること。咲ヶ原市の外に関する記憶や記録が消えたり、ネットやメディアの情報が、咲ヶ原市内のことのみになっていた。最後に、自身を先導者と宣う、岸島貴之という人物。

「岸島さんは、市長を務めていらっしゃるんですよね」

「そう。この世の中のことを理想だと言っていたし、おそらく平等政策や、綾子さんの教会がなくなるような政策を主だって進めているのも彼だと思うよ」

「なるほどぉ……」

 頷く綾子を見て、角山はふと疑問に思った。

「綾子さんは、この世の中のことはすでに色々知っているんじゃないんですか?」

「え、いや、ここは一緒に考える感じの方がいいかと……どうせ、知っていることは掟で教えられないので……」

 綾子は指先をいじりながら、申し訳なさそうにした。

「顔を見せてはいけない掟は破ったのに、ですか」

「それは、主が見逃してくださったと言いますか何と言いますか……そ、それより、考察と、タメ口を再開してください」

「そう言われるとやりにくい、よ」

 二人は文字で埋まりつつあるノートの一ページに向き直った。角山は岸島の名前に色ペンで丸をつける。

「ひとまず、彼の目的を明らかにした方が良さそうだね」

 それから、根本である平等政策と、現在行おうとしている特定の宗教の後押しという部分に下線を引いた。そして今は、新興宗教が乱立する世の中。そもそも、宗教の乱立は平等政策があってこそのものだ。

「宗教活動の活性化……?」

 角山がそう呟くと、綾子が素早く顔を上げて反応した。どうやら正解らしい。

「となると、後押ししようとしている宗教にはより何か特別な事情がありそうだ」

 綾子の表情が一段と明るくなる。分かりやすい人で良かった。角山はそう思った。そして次は、その後押ししようとしている宗教の特定だ。

「前に綾子さんは、勢いの少ない宗教は排除されると言っていたよね」

 綾子は期待に満ちた目をして「はい」と言って頷く。

「それならその逆の勢いが強い、信者の多い宗教を探せばいいんじゃないかな」

「……っ!」

 何も言えない綾子は、拍手をしかけてそれを堪えた。角山は掟のアウト判定はよく分からないが、これもまた正解だということだけは分かった。信者の多い、つまり人気な宗教。角山はスマホを取り出す。不慣れな手つきで検索バーに「宗教 人気」と入力して検索をかけた。一番上に表示された宗教、それは「銀叶ぎんきょう」という名前の団体だった。スクロールしても、ほとんどこの名前が画面を占拠している。角山は、綾子の反応を見た。

「こんなに簡単に出ちゃうんですね……」

 角山に見られていることにも気が付かず、検索結果に夢中で心の声が出てしまっている。これもどうやら正解のようだ。

「ここへ行こう」

 角山は名札を外し、白衣を脱いだ。

「え、今から行くんですか⁈ お、お仕事は」

「この世の中をどうにかするのが最優先だ。それに、センザキくんのことも何か分かるかもしれない」

 角山はスマホの画面に表示されたままの、銀叶の外観画像を見た。そこには、鐘のついた大聖堂が映っている。角山は千崎との最後の電話で、鐘の音を聞いたのを覚えていた。必要最低限のものだけ持って、支度を済ませた角山は、綾子に再度「行こう」と声をかけた。

「は、はいっ。行きましょう」

 綾子は角山の後をついていく。診察室を出て、迷いなく病院も出て行ってしまう角山に、綾子は戸惑いつつも心強さを感じていた。

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