第十九話「諦念」

 諦めを口にした時、それが本当の終わりの時です。

 

 懺悔室の扉に鍵はかかっていなかった。中へ入ると、いつもと同じように影があった。カーテンの向こうに、綾子がいる。

「ようこそ……」

 角山が椅子に座ると、綾子は控えめに歓迎した。怒っているのか、悲しみの中にいるのか、それを角山に推し測ることはできない。顔が見えないから。

「綾子さん」

「はい」

「先日は綾子さんの都合を無視し、感情に任せた行動をしてしまい、申し訳ありませんでした」

 角山は、机に額がつきそうなくらいに深々と頭を下げた。心が死にかけているものの、申し訳なく思う気持ちは残っていた。

「顔を上げてください」

 綾子に言われ、体を起こす。

「あの日の出来事を、わたしは仕方のないことだったと思っています。起こるべくして起きたことだと。だから、わたしは朔壱朗さんが悪いとは、初めから思っていません」

 気遣いや取り繕った優しさではなく、本心からの言葉。綾子はそれが伝わるようにと、今回は気丈に振る舞った。

「なので、あの出来事について、もう申し訳なさを感じることはしなくて良いんです。それよりも今わたし達は、前に進むべきですから」

 何があっても綾子は角山の味方なのだと、そう思えるような言葉だ。しかし、綾子の晴れやかな物言いに、角山が感じたのは大きな罪悪感だった。

「すみません」

「あ、ですから、謝らなくても……」

 綾子は言いかけてやめた。ひりつくような嫌な感覚が、胸のあたりに込み上げる。角山がどのことについて今謝ったのか、綾子は察したくなかった。しかし、角山はここで言うのを止めるわけにはいかない。

「僕はもう、諦めることにしたんです」

「ど、どうして」

 慌てる綾子とは裏腹に、角山は諦めを口にしたことによる開放感を感じていた。もう、世の中のおかしな部分を見て考えて不快感を得ることも、自分は少しでも正気でいなければと気を張ることも、世の中に馴染みたくないと足掻くことも、全てやめられる。特異な存在でいるよりも、適応していく方が遥かに楽だ。角山はそう思うと、ほんの少し笑うことができた。

「こんなにも無意味で呆れてばかりの日々を送ることが嫌になってしまいました。耐えられない。疲れたんです。すでに正気でないならば、正気ぶるのもやめにしたい。それに、」

 角山から笑顔が消えた。

「今はセンザキくんを探さないと」

 ごく小さい声で呟くと、角山は椅子から立ち上がってしまった。もう、帰ってしまうつもりのようだ。

「ま、待ってください! 本気なんですか」

「本気です」

 角山は振り返ることなく答えた。綾子は必死にかける言葉を探す。しかし、見つかるより先に角山は扉を開けてしまった。

「これからは、楽しい話をしていけたら、いいですね」

 そして、そう言い残して出て行った。

 

 扉の閉まる音を聞いていた綾子は、座って机の木目を見つめることしかできないでいた。角山は諦めてしまった。こうなってしまってはこの先、角山と楽しい話など永遠にできない。綾子はそう感じていた。なぜなら、綾子は絶対に諦めたくなかったからだ。諦めるわけにはいかないからだ。

「わたしが、やるべきこと」

 綾子は席を立った。懺悔室の扉を開け放ち、祭壇の方へ目を向ける。そこにあったはずの黒い花は、姿を消していた。教会の出口の前まで来ると、綾子は迷うことなく扉に手をかける。そして、綾子は教会から出て行った。

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