第十八話「失望」

 心の拠り所を失うというのは、ひどくつらいものです。その要因が自分であった場合、後悔だけでは済まないでしょう。

 

 角山は複数の負の感情に押し潰されていた。心はとうに折れている。感情を抑えきれず、カーテンを開けてしまった。あれから、数日経つが、教会には行っていない。綾子に会えないかもしれないと思うと、怖くてあの大きな扉を開けられないのだ。

 昼休憩、食事も取らずに角山が診察室内で机に突っ伏していると、出入り口をノックする音が聞こえた。体を起こしている間に、扉が開かれる。そこから現れたのは、胃炭と峽だった。

「失礼しますわ」

「大丈夫っすか」

 二人とも角山を気にかけて来てくれたようだ。ここ最近の角山の不調は酷かった。仕事に支障をきたしているのはもちろんのこと、会話もどこか噛み合わないくらいだ。中には診察中に、患者が医者である角山の心配をし始めることもあった。一度は胃炭も理由を聞こうとしたのだが、角山は今は難しいと言って断っている。しかし、一向に良くなるどころか悪化の一途を辿る角山を見ていられなくなり、こうして峽も連れてやって来たというわけだ。

「センセイ。わたくし達に、どうかその苦しみを分けてくださいな」

「そうですよ。なんかもう、ずっとひどい顔してて、白衣着た患者にしか見えないんすよ」

「ちょっと、センセイはいつだって素敵なお顔をされているでしょう!」

 胃炭が峽を小突く。そこで、また小競り合いが始まるかと思いきや、峽が軽くジェスチャーで宥めると、胃炭は大人しく怒りを収めた。角山は死に切った目で二人を見ている。胃炭が患者用のソファに座ると、峽はそばに立った。

「理由でなくても構いません。おつらいこと、気になっていること、今のお気持ち、なんでも良いんです。センセイの心を教えてください」

 角山は黙っている。手元を僅かに動かしながら。静かな間、胃炭たちは待った。仕事柄、相手の言葉を待つのには慣れている。そうしていると、角山はやっと「実は」と口を開いた。

「数日前、僕はとある人を信じられなかったんです。疑って、やってはいけないことをしてしまいました」

 角山の供述のような発言に、二人は青ざめた。取り返しのつかないことをしたのかと。

「約束を、破ったんです」

 それが勘違いだと分かると、二人は内心ほっとした。

「それで、僕はそれ以来、彼女の元へ行くのを避けているんです。心の拠り所にしていた分、拒絶されるのが怖くて」

 目を伏せる角山。胃炭は込み上げた「彼女」に対する嫉妬心を抑え込んだ。

「センセイ。そのお相手の方に、謝罪はされたんですか」

「いえ、できていません」

 角山が小さく首を横に振ると、胃炭が言葉を発する前に峽が身を乗り出した。

「なら、まずは謝りに行きましょう。心の拠り所だったんなら尚更そうするべきです。角山サンも、そのこと自分で分かってるから余計につらいんじゃないんすか」

 峽の言う通りだった。角山も謝罪をするべきだと思っているし、謝罪をすることで、たとえ許されなくても心が今より楽になることは分かっていた。それでも、会いに行こうとできなかったのは、カーテンを開けた途端に綾子が姿を消したあの光景が、トラウマのようになっていたからだ。

「会ってくれるかどうか……」

 こぼすように呟いた角山の言葉に、胃炭はまた「センセイ」と呼びかけた。

「センセイの心の拠り所であったそのお相手の方は、センセイが約束を破ったことについて、どうでもいいと思うような方だったのですか」

 角山は「いいえ」と答える。

「それならば、お相手の方はむしろ待っていらっしゃるかもしれませんわ。センセイが謝罪なさるのを。センセイならご存じのはずです。心からの謝罪の言葉が軽くするのは、謝った側の心だけではないことを」

 角山は大切なことを失念していた。拒絶されることに怯えてばかりで、綾子が今、どんな気持ちで過ごしているのかを考えていなかった。気弱でいつもおどおどとしていたが、優しく、角山の味方でいようとした綾子。そんな彼女が角山に裏切られ、きっと傷心の最中にいる。それなのに、角山が謝ることもせずこのまま関係が絶たれれば、きっと綾子はより深い悲しみを感じるだろう。角山は僅かに視界が開けたような感覚を得ていた。

「お二人とも、ありがとうございます。どうやら僕は、自分のことばかり考えていたようです。お二人のおかげで、それに気づくことができました。近いうちに、今日にでも謝りに行きます」

「それがいいですよ」

 頷く胃炭と峽。角山は不安ながらも、少しずつ問題を解決していこうと思った。

 昼休憩の時間も、気づけば残り少ない。そこで角山は、今日はまだ千崎と顔を合わせていないことに気づいた。昨日は休むという連絡が病院に入っていたらしいが、今日はどうなのだろうか。連絡通路側の扉を見るが、開かれる気配はない。

「そういえば、センザキくんは今日もお休みなのでしょうか」

 胃炭と峽の表情が陰る。

「実は、そのこともお話ししようと思って来たんです」

「今日、無断欠勤なんすよ。あの子」

 聞けば、こちらからの連絡も繋がらず、音信不通だと言う。角山は嫌な予感がした。鞄からスマホを取り出し、千崎の連絡先を表示させる。

「少し、出てきます」

 二人に見送られながら診察室を出た角山は、足取りを早めて病院の外へ出た。

 発信を押して、千崎に電話をかける。呼び出し音が繰り返される度に、先ほどまで抱えていた不安とは別の不安感が募っていく。気温も相まって、角山はすでに額に汗をかいていた。一旦かけ直そうかと思ったその時、電話が繋がった。

「もしもし、センザキくん」

 呼びかけるが、返事がない。妙な音が受話口から聞こえるのみだ。そこで、もう一度角山が「センザキくん?」と声をかけると、向こうから「ぁ」と返ってきた。

「センセ、俺、センセ、俺」

 抑揚の少ない声だが、焦りが見える。言葉がうまく出てこない。そんな感じだ。

「落ち着くんだ。何かあったのかい?」

 千崎は呻いた。それは先ほど聞こえていた妙な音に似ていた。電話の向こう、千崎の近くで鳴り始めた鐘の音がうるさい。

「センセを、幸せにできる、ために、でも、」

 一言一言がつらそうだ。泣いている。角山がそう感じ取った直後、

「ちょっと失敗したかも」

 電話が切れた。もう繋がっていないというのに、角山は送話口に向かって「センザキくん」と名前を呼んだ。すぐにかけ直すも、千崎は出ず、呼び出し音がしばらく鳴って切れるだけだった。

 角山を幸せにするために、千崎は何か行動を起こし、失敗をした。そして、震えて湿った声を聞く限り、千崎の精神面が危険な状態である可能性が高い。いつでも明るく元気で笑顔の千崎と接してきた分、角山の精神的なダメージは大きかった。約束を破って綾子を傷つけ、千崎は角山を幸せにするために行動した結果、何か良くない状態になった。どれもこれも、自分に原因がある。と、角山は思わざるを得なかった。相手の優しさに甘えたから。弱いところばかり見せたから。自分の心に余裕がなかったから。そもそも、世の中のおかしさをどうにかしようなどと思ってしまったから。自分に何かできるわけでもないのに。角山にはもう、真実を追いかける気力は残っていなかった。

 院内に戻ると、待っていたのか、胃炭がいた。振り出しに戻ったような精神状態なのが見て取れる角山に、胃炭は歩み寄る。千崎のことを聞こうとしたが、胃炭は角山の様子を見て口を噤んだ。するとそこへ、ゆっくりと歩いてきた人物がいた。

「角山君」

 窓岐院長だ。気遣わしげな眼差しで、角山を見ている。

「今日はもう、休んじゃおう」

 そして、あっさりとした言葉つきでそう言った。

「この後の患者さんのことは、ぼくらに任せてさ。ね?」

 それから、窓岐は角山の手にチョコを握らせて、にっこりと笑った。角山は何の感情も湧いていないような、そんな顔をして手の中で光を反射するチョコの包みを見ている。

「そうしましょう? センセイ」

 胃炭にそう促されると、角山はわずかに顔を上げた。

「では、今日はそうさせていただきます。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

「いいんだよ。気をつけて帰ってね」

 そうして、角山は荷物を持って病院を後にした。

 

 角山はこのまま自宅へ帰るつもりはなかった。向かった先はあの教会。今の角山には、会えないかもしれないという恐怖さえ無くなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る