第十七話「改革」

 人々を巻き込む変化というのは、誰かを満たす一方で、誰かを蔑ろにすることがあります。全員を平等に幸福にするというのは、どだい無理な話なのです。

 

「ようこそ」

 翌日、馴染みの教会。綾子が普段通りに角山を迎え入れたが、角山は聞こえるか怪しい声量で返事をするだけだった。

「あ、あの、実はお話を聴く前に、お伝えしなければならないことがあります……」

「なんでしょう」

 綾子の口振りから、吉報ではないことは確かだ。それでも、気分の沈み切った角山は、並大抵の悲報では動じないつもりでいた。綾子は言うのを渋っている。それを待つ間、角山はぼうっと間接照明の灯りを眺めていた。

「その……この教会が、じきになくなります」

 角山は「えっ」と思わず声を出して、カーテンの向こうを見つめた。

「理由は?」

 問い詰めるような勢いで問うと、綾子は辿々しく説明をし始めた。

「宗教関係の政策に変化と言いますか、その、簡潔に説明しますと、勢いの少ないここみたいな宗教を排除して、特定の宗教の活動を後押しすることになった、みたいなんです」

 角山は唖然とした。世の中に満ち溢れる平等という言葉は、政策の理念だ。それが、こうもよく分からないことで覆されたことに。遅れてこの教会がなくなることへの焦りが湧いてきた。角山にとって、この懺悔室という安らぎの場がなくなることは、死活問題であった。教会がなくなった後、未だに顔を合わせたことがない綾子と話すことはできるのだろうか。カーテンの右端、角山はそこに視線が向いていた。

「朔壱朗さん、大丈夫ですか……?」

 角山は咄嗟に声が出なかった。

「今日は何だか、いつもよりお疲れのように感じます。何かあったのなら聴かせてほしいですし、体調がすぐれないのでしたら日を改めて……あ、できれば近日中でお願いするようになりますけど……」

 いつもと同じように、綾子は優しい言葉で角山を慰める。ただ、今日いつもと違ったのは、角山の精神状態だった。綾子は自分の味方。それを一瞬忘れてしまった角山は、つい暗い感情のままに言ってしまった。

「僕には、綾子さんが僕より正気に思えるんです」

 綾子は何も言わない。戸惑っているのだろうか。

「それは、喜ばしいことのはずなのに、僕の心にあるのは悲しみと行き場のない憎悪なんです」

 溢れたその本心を、角山は自分の耳でも聞いて、自責の念を抱いた。自分の醜さを露呈しただけの発言を今しても、相手を困らせるだけだ。

「すみません。良くないことを言ってしまいました」

 角山は失言を省みた。少し綾子に精神的に甘えすぎていたかもしれない、とも思った。綾子は首を横に振る。

「いえ、気にしないでください。わたしは朔壱朗さんのお話を聴くためにここにいるんです。なんでも話してください。大丈夫ですから」

 角山は「ありがとうございます」としか言えなかった。心の中には、やはり綾子への疑念がある。それは邪魔なものだと思いつつも、どうしても拭えないのだ。綾子は優しい。角山を受け入れ、肯定し、支えてくれる。しかし、どこか不自然なのだ。角山が方々に感じてきた違和感。それは、綾子に対してもあった。

「そ、そういえば、何かあれから分かったこととか、ありますか?」

 初めは角山の愚痴の吐口であったこの場所も、今ではこの世の中に対する考察場だ。影を見るに、今回も綾子はペンを持っていて、話をまとめる準備は万端なようだった。

「ええ、あります。今まで僕は、世の中という括りの大きさを測りかねていました。しかしながら、調べていくうちに分かったんです」

 思い出すのは、咲ヶ原市内の情報しか得られないネットやテレビの報道。消える記憶や記録。

「僕たちの認識している世の中とは、咲ヶ原市内のことのみなんです。今まで気づかなかったことがおかしいくらい、メディアから咲ヶ原市の外の情報が得られなくなっていますし、自分の中からも外の記憶が消えているんです」

 このことが事実だと知れば、大抵の人間は驚き、気持ちの悪い感覚を得るだろう。不可思議な状況に置かれていると知れば、恐怖も抱くかもしれない。しかし、綾子はそうではなかった。

「そうなんですね……」

 それだけだ。ペンが紙の上を走る音が聞こえる。果たして、綾子は手帳に書き込むことに夢中になっているだけなのだろうか。

「随分と冷静ですね。閉じ込められているのかもしれないんですよ」

 事の重大さがうまく伝わっていないのかもしれないと思った角山は、少し語気を強めて言い加えた。綾子はぴくりと体を起こして、ペンを置く。

「そ、そうですよね。びっくり、しますよね……」

 不器用に笑いながら言う綾子。「びっくりしますよね[#「よね」に傍点]」。綾子がそう返した途端、角山の中にある綾子に対する疑念と違和感は抑えきれなくなった。綾子は、間違えたのだ。

「知っていたんですか」

「えっ、いや、そんな」

 綾子は分かりやすく動揺した。影はゆらめく。

「どうして黙っていたんです」

 悲しそうな声だ。角山は怒るべきではないと判断していた。今、二人に必要なのは嘘偽りのない話し合いだ。だからこそ、角山は感情を抑制している。綾子の事情を聴かせてもらえれば、それで十分だった。しかし、綾子は何も言わない。少し待つと、か細い声で「すみません」と言うだけだった。

「事情が話せないのなら、せめて今知っていることを全て話してください。無ければ無いと言っていただければ、それ以上問い詰めたりしませんので」

 角山は優しい声色を心がけた。許す気があると、伝わるように。綾子は息を何度か吸っては、躊躇うように黙った。角山は待つ。綾子のタイミングで話してもらうことが、今は大切だからだ。カーテンの向こうの影が、正面を向いた。

「それは……できません」

 完全な拒否。

「なぜ」

「わたしの知っていることは、人に話してはならないという掟があるんです」

 角山の中の疑問が、何一つとして解消されない返答だ。むしろ、その掟とは何か。という新たな疑問が生まれるだけだった。角山は肘をついて頭を抱える。感情にかけた錠前が、音を立てて今に外れそうだ。

「せめて、顔を合わせて話ができたら、僕は貴女をもう少し信用できるのかもしれません」

 顔も知らない相手を信用し切るというのは、角山にとっては難しいことだった。こんな状況ならば尚更である。

「すみません。それは、無理なんです」

 震える綾子の声を聞いても、角山はこの話し合いを切り上げる気にはならなかった。濁った感情が溢れかけている。

「カーテンを開ける。それだけのことなんですがね」

「だ、駄目です!」

「なぜ」

 角山の責め立てるような問いかけに、綾子は怯えた声で言った。

「人に、顔を見せてはならないという掟が」

 

 角山はカーテンを開けた。

 木の枠の向こうには誰もいなかった。確かにさっきまで影が動き、声が聞こえていたというのに。向こう側には、何も無い。角山は「ああ」と、すっかり落ち着いた声を出してその場にしゃがみ込んだ。

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