第十六話「乱心」

 受け入れ難い現実から目を背けても、それは常に背後から自分を見ています。その視線に耐えきれなくなった時、人は必ず心を痛めます。

 

 慌てた手つきで鍵を開けて、玄関に崩れ落ちる。靴を脱ぎ捨て、這いつくばるようになんとかリビングまで辿り着いた角山は、暴走する呼吸に苦しんでいた。少しでも楽にしようとネクタイを緩める。しかし、効果はない。頭痛と手足の痺れ、感情の波が激しさを増していく。窓から入り込む街明かりが、かろうじて室内が暗闇に包まれるのを防いでいた。

「また、僕は、」

 錯乱する。角山の身に今起きている不調は、全てその前兆だ。思考が言葉に埋め尽くされていく。怒りと絶望と泣きたくなるような無力さが湧いてくる。目に映るもの全てが疎ましく見えてくる。角山はこんな自分が何よりも嫌だった。心への負荷が高まると錯乱し、暴れる自分など、まともではない。

 床に拳を叩きつけ、咳をするように呼吸を荒く吐き出した。

「僕は、正気ではないんだ……! 会話ができる誰かよりも正気なだけであって、僕が正気だと言う確証はどこにもない!」

 認めたくなかった事実。それを口にしてしまうことで、角山は心の中で守ってきた自分が壊れていくのを感じている。

「巨悪だ。あの男は世紀の大悪党だ」

 思い出される岸島の見下すような視線に、角山は目を見開いて震えた。

「馬鹿馬鹿しい‼︎ 理想だと? 理解できない、いいや理解したくない! 同じ人間になってしまう。僕とあの男は別人だと言うのに、思想を理解した途端混じってしまう! それがどれほど恐ろしいか……」

 怒鳴ったかと思えば弱々しい声を出し、落ち着いたかと思えば、また握りしめた拳を床に打ち付け、怒りを露わにする。

「人間は変容する、染まってしまう、呑まれてしまう! 簡単に引き寄せられて、進むべき道を疑いもしない! 自分と同等の人間を、正しいと盲信するな‼︎」

 角山は目元を袖で擦った。霞む視界が鬱陶しい。

「あの男も、その他大勢も、皆正気でない! 僕が正気でないのに、正気なはずがない!」

 僅かに残った自尊心が言わせた言葉が、暗い部屋の中に溶けていく。座り込んだ角山は、顔を覆って唸った。こんな風に感情のままに喚いたとて、何も変わりはしない。それどころか、自分の精神を蝕むだけだ。

「僕が、どうにかできるのか。何ができる……?」

 自問する角山の中に、あの教会の修道女、綾子に対する罪悪感が湧いた。

「何もできない」

 掠れた声で呟いた角山の心が、軋む音を立てた。顔を覆っていた手を力無く下げる。その時だけ、角山の瞳は赤紫色に変色していた。

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