第十五話「対立」

 敵意を持った相手と、理解ある会話をするには、自分も相手の思想を多少認める必要があります。それができない場合、分かりあうことはできないでしょう。

 

 時刻は午後六時。今日の仕事を終えた角山は、帰り支度をしている最中であった。自分の記憶や思考が操作されているという可能性を知ってから、角山はいくつかのことを思い出そうとした。咲ヶ原市の外の景色、懐古恐怖症以前に診ていた病気について、それから手当たり次第に過去のことを。そして、ほとんどが思い出すことができずに終わった。自分の人生の記憶どれもに、もやがかかっているのだ。自分を苦しめているのは世の中や人々ではなく、もっと上位的で干渉のし得ないものではないだろうか。そう思うと、角山は胸の辺りに溜まった重みを、小さく吐き出すことしかできなかった。

 支度の済んだ角山が、今に帰ろうと診察室内の出入り口に目を向けた時、ノックの音が聞こえた。誰か用事だろうか。そう思ったのも束の間、角山の返事を待たずに扉が開かれ、無遠慮に見慣れない男が侵入してきた。パーマ頭のひょろりとした背の高い男。茶系の上質なスーツを着ている。伸びた背筋に、自信に満ちた表情。患者ではないことは確かだ。

「お前がカドヤマか」

 声のトーンと振る舞いから、角山は男に尊大な印象を受けた。一方的に名前を知られているというのも、あまり気分が良いものではない。

「そうですが、貴方はいったいどなたでしょう」

 訝ったような態度で角山が尋ねると、男は内ポケットから新聞の切り抜きを取り出し、見せつけた。

「私は岸島キシジマ貴之たかゆき。ここ、咲ヶ原市の市長だ」

 新聞にはそれを裏付ける文章と写真が載っている。しかし、角山には新聞に映る人物と目の前にいる岸島が、同一人物のようには思えなかった。以前、懐古恐怖症の撲滅後の表彰で、岸島とは一度会ったことがあるが、その時とは随分と感じる雰囲気が違うのだ。別人。角山はそんな風にも思ったが、確かな証拠を前に、感覚で指摘するようなことはしなかった。

「お前は以前、懐古恐怖症という病を咲ヶ原から消し去った」

 見るからに反応に迷っている角山を無視して、新聞を収めた岸島は話し始める。

「人々のために尽力する。良いことだ。しかしだな、この世の中に過度な変化を与えるというのは、良くないな」

 診察室内を闊歩する岸島は、机の向こう側へ回ると、角山の椅子に腰掛け、足を組んで角山を見据えた。

「単刀直入に言おう、でしゃばるな」

 険悪な空気が漂い始める。すでに相手を敵視しているのは、両者とも同じであった。

「この世の中にこそ理想がある。だから、この世の中をどうにかしようなどということは、やめるべきだ」

「理想?」

 角山は嘲るように言う。

「この破綻した世の中がですか」

「ああ。お前のような異物以外の人々にとってはな」

 岸島は立ち上がり、角山の前に立って見下ろした。下卑た笑顔を浮かべる岸島は、とても善人には見えない。

「平等で幸福な世界。そして、この私が先導者だ。一筋の進むべき方向を指し示す光となって人々を導く。なんと素晴らしいことか」

「それはそれは、厄介な誘蛾灯ですね」

 岸島の表情が引き攣る。眉間を押さえて、怒りを鎮めるためか大きく一呼吸した。

「まあ、良いだろう。どうせお前にできることなど何もない。無駄に足掻いて苦しむがいい」

 そう言って、岸島は角山の肩を軽く叩くと、診察室を後にしようとした。角山は振り向く。

「待ってください。貴方は何者で、この世の中をどうするつもりなんですか」

 岸島は愉快そうに口角を釣り上げた。

「言っただろう、私は先導者だ。この世の中を理想以上に理想通りにする。それだけだ」

 そして、角山の静止も聞かず、岸島は去っていった。結局、岸島の詳しい素性については分からず終いだ。それどころか、もっと話しをすれば得られたであろう様々な情報を逃したように思う。角山にはチャンスを無下にしたかのような、やりきれない気持ちが残った。

 角山はスマホを取り出し、岸島の名前を検索バーに打ち込んだ。ヒットした件数は、今までの調べ物で検索したものとは比べ物にならないほど多い。そして、その全てが政治関係であり、岸島の行った改革を褒め称えるものであった。SNS上で検索をしても、やはり賞賛されている。一切の排斥的な意見を見かけない。角山は思う。今までまともな人間は自分しかいないような気持ちだった。しかし、心の片隅では、探せば他にもまともな人間はいるだろうと思っていた。その考えは無意識のうちに心の支えとなっていた。だが、この無数の気の触れてしまった人間たちの声に、その支えはへし折られようとしている。岸島の言う通り、自分にできることなど何もないのかもしれない。角山は表情を歪めて前髪をむしるように引っ掴んだ。やはり、あの男は誘蛾灯だ。

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