第十三話「幻覚」
追え。
その時、角山は見た。見えた。見えてしまった。あの、記者の姿が。顔の見えない、男の姿が。異常だ。角山は今、錯乱などしていない。深く俯いて、カメラを撫でる記者。それを、角山は見ていた。
「センセ?」
角山は記者の方へと歩き出す。すると、記者は角山に背を向けて、どこかへと歩き出した。消える気配はない。
「センセ」
角山は記者から目が離せないようだ。ゆっくりとした歩みは、次第に速さを増していく。
「センセ!」
千崎は角山に駆け寄り腕を掴んだ。角山は我に帰ったような顔をしたが、掴まれた腕を振り払おうと力を込めた。
「離してくれ、センザキくん」
「でも」
「追わなければならないんだ」
角山が続けて「お願い、離して」と言えば、千崎は手の力を抜いて角山を解放した。
様子のおかしい角山が歩いていく後ろを、千崎も同じように歩いて追っている。角山には記者の背中が見えているが、千崎には見えていない。そのため、虚無を追いかけているように見える角山の後ろを、不安げな顔でついて行っていた。角山はというと、とにかく記者を追いかけなければならないということで頭がいっぱいだ。自分が先ほどまで何をしようとしていたのか、今、どこを歩いているのかもよく分かっていない。当然、すれ違う人間のことなど眼中になかった。
鐘の音が辺りに響く。それは、道沿いにある大聖堂の方から鳴っていた。
「ワッ」
千崎の前を大勢の人々が横切り始める。どうやら大聖堂に向かう信者たちのようだ。途切れない人の波に、千崎と角山は切り離されていく。このままでは、角山を見失う可能性があったが、今までの道順から、千崎は角山の向かう先に検討がついていた。
角山の息が切れてきた頃、記者はやっと歩くのをやめた。そして、徐に角山の方を振り返ったが、やはり顔は影に覆われていて見えない。角山は正気に戻りつつあった。そこで、ようやく自分の今いる場所が窓岐病院の前であることに気がつく。
「貴方は——」
角山は記者との会話を試みた。しかし、記者は突然カメラを構えると、フラッシュを焚いて角山の視界を奪った。角山は思わず目を瞑り、顔を背ける。眩しさがやんでもう一度前を見た時、そこにいたのは記者ではなかった。そこにいたのは、後ろに手を隠して、角山を見上げるききだった。理解できない状況に、角山は言葉が出ない。ききは笑っている。
「せんせい」
そして、小さな歩幅で角山に近寄った。
「ちゃんと本当だけを追わなくちゃだめだよ」
この時、角山はききの異質さを初めて感じ取っていた。思い出す今までききと接した記憶のどれもがおかしいことにも気づいた。依然、言葉は出ない。
「それから、これ。預かったから、わたしておくね」
ききは呆然とする角山の手を取ると、何かを握らせた。角山がその手を見つめながら開くと、そこには何もなかった。顔を上げる。そこにはもう誰もいなかった。
「センセ、大丈夫ですか?」
追いついた千崎が声をかけると、角山は現状に戸惑いながらも「ああ」と、返事をした。
「問題、ないよ」
「ほんとですか? で、結局センセは何を追いかけてたんですか?」
千崎は辺りを見渡しても、何もないことを不思議に思っているようだ。角山は、自分の意識をはっきりさせようと努めながら答えた。
「僕にもよく分からないのだけれど、ききさんが居たんだ。さっきまで、ここに。だけど、何というか……」
「センセ」
千崎はいつもの笑顔ではなかった。心配しきっている顔だ。困惑にも見える。
「ききさんって、誰ですか」
窓岐病院の入院患者。千崎も知っているはずの少女。角山は説明をしようとしてやめた。千崎の様子を見れば、ききに関する記憶が全くないであろうことが嫌でも察せられたからだ。
「何でもないよ。少し、疲れていたみたいだ。ごめんね。今日はもう」
角山は千崎の顔から目を逸らし、横を通った。
「帰ろう」
今はただ、早くひとりになりたかった。
翌日、ききがいたはずの病室には誰もおらず、角山が調べても、入院患者としての記録は一切見つからなかった。角山は恐怖した。世の中に対する漠然とした違和感ではなく、はっきりとした現実の異状に。誰でもいいから、自分の記憶を肯定してほしい。そう思った角山は、診察室の出入り口に手をかけた。手をかけて、やめた。角山は首を傾げる。
「僕は、何をしようと……?」
そう呟いて席に座り、次に来る患者の資料を開いた。そしてまた、いつも通りのよく分からない症状を見てため息をつく。まるで、何事もなかったかのように今日も仕事をするのだ。
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