第十二話「厳格」

 疑わしきは罰せず。そうは言いますが、疑われる時点で相手に何かしらの難点があることは確かです。

 

 静かになった。診察室内も、角山の頭の中も。床に散乱した資料を一枚、二枚と拾う角山の手は、弱々しく震えていた。また、錯乱したのだ。話の通じない患者未満の人間相手に心を擦り減らし、ひとりになった途端に暴れたのだ。角山は、このままでは身が持たないと思いながら、片付けを急いだ。

 コン、ガチャ。

 連絡通路側の扉から、お馴染みのノックをして現れた千崎は、草臥れた顔でしゃがみ込む角山を見るなり駆け寄った。

「センセっ! 体調悪いんですか?」

「ああ、いや……」

 言い淀む角山の背中をさすりながら、千崎は部屋を見渡した。そして、部屋の惨状を認識した千崎は、そばにあった資料を拾った。

「手伝います」

 それから、何も言わず、何も聞かず、二人は黙々と部屋を片付けた。その間、角山は千崎の顔を見ることができなかった。

 数分後、室内はすっかり元通りとなっていた。壊した物もなく、散らばった資料の一部に、少し折れ目がついた程度で済んだのは不幸中の幸いかもしれない。角山がそろりと千崎に視線を向けると、千崎は角山をガン見していた。

「センセ、お仕事終わったら、公園行きましょ!」

 そして、いつもと変わらない調子でいつも通りのことを言う。角山には、それが千崎の気遣いなのか天然なのか、分からなかった。

「ああ、分かった。行こう」

 角山がそう答えれば、千崎はまた歓声をあげるのだった。

 

 約束の終業後、薄暗い公園でブランコの揺れる音が響いていた。角山と千崎の二人を照らすのは、切れかけている街灯と千崎が持ってきた懐中電灯だけだ。角山は漕ぐのを端から諦めており、千崎との会話を楽しんでいる。角山が昼間の礼を言うと、千崎は片付けが楽しかったと言って笑った。主張の強い日差しのない夜。角山はこの時間にこうして過ごすのも悪くないな、と思った。そんな時だった。

「何をしている」

 聞き覚えのある威圧的な声が二人の空間に割り込んだ。暗がりから現れたのは、以前もこの公園で会話をした緑髪の警官だ。怒ったような声の調子と、ぼんやりと光に照らされている姿に、角山は前とは違う恐怖感を覚えた。

「こんばんは! ブランコ乗ってます!」

 千崎はそうではないらしい。意気揚々と臆することなく、見れば分かることを言った。警官の表情は険しくなる。

「はぁ、やはりお前らは要注意人物と見ていいようだな」

「僕たちは何も、後ろめたいことはしていませんが」

「これからするかもしれないだろう」

 警官は手帳とペンを取り出した。彼女にあるのは正義感ではない。深い疑心と、人間の在り方に対する覆し難い理想だ。それを何となく察してしまった角山は、彼女もまた「話の通じない」人物だ、と死んだような目で空を見た。

「名前と勤務先を教えろ」

 角山はあまり答えたくなかった。しかし、隣にいる正直者を止める術を持っていない。

「千崎日幸です! 窓岐病院で薬剤師してます!」

 あっさりと手帳に情報が書き込まれる。

「お前は?」

「……角山です。職場は彼と同じです」

 さらに情報が書き込まれた。警官がペンを動かしている間、角山は帰りたい気持ちでいっぱいであった。少しして聞いた内容を書き終えた警官は、満足したのか手帳を閉じた。もう少しこの息苦しい時間が長引くと思っていた角山は、意外な短さに安堵したが、それは勘違いであることをすぐに知る。

「窓岐病院に勤めているということは、お前ら『端城ハシロ二葉ふたば』という人物を知っているな」

「知ってます! 二葉さんがどうかしたんですか?」

「おい」

 千崎が疑問を返したのも束の間、警官はより怒りの感情を露にして、千崎に噛み付くようにがなった。

「気安く姉さんを名前で呼ぶな」

「姉さん……?」

 二人は驚く。千崎はこの警官が二葉の妹であった事実に。角山はこのせせこましい警官が、あの穏やかでおっとりとした二葉と姉妹であることに。警官、もといハシロは自分を落ち着けるかのように制帽を直した。

「で、一応聞くが、姉さんに迷惑等かけてはいないな?」

「もちろんです」

「あい! ふた……ア、端城さんには、いつも優しくしてもらってますし、感謝の気持ちで接してます!」

 二人とも自分の返答を百点だと思った。しかし、ハシロの採点はそう生やさしいものではない。

「『いつも優しく』だと? それはまさか、姉さんに余計な気を遣わせているんじゃないだろうな」

 角山は今すぐ大きなため息をついて頭を抱えたい気分だった。だが、それをすれば現状の厄介さが何倍にもなって襲いかかることが目に見えている。角山は耐えた。悪態をつくことも、本日二度目の錯乱をすることも。その間、千崎はハシロに弁明をしていたが、ハシロは剥き出した牙を収めようとはしない。

「ふん。そういえばお前らはこの間、薬物の話をしていたな」

 果てには今は関係のない過去の疑いを持ち出す始末だ。

「怪しいものを持っていないか、荷物検査をさせてもらおう」

 そう言って、ハシロは腰にかけていた懐中電灯を点灯させ、角山と千崎の鞄を順に照らした。

 大人しく荷物検査に応じることにした二人。まずは千崎がリュックの中身をベンチの上に並べていた。スマホ、財布、筆箱、ノート、充電器、仕事用のサンダル……試験管。ハシロはすぐさま試験管を手に取ったが、中身は空っぽだ。ハシロが試験管を眺めている間に、千崎は呑気にミントタブレットをポリポリと頬張っていた。

「おいしっ!」

「ポケットの中は?」

「なんもないです!」

 わざわざポケットの中身をひっくり返して見せる千崎を見て、ハシロの気は済んだらしい。出したものをしまうよう指示をして、次は角山に同じようにするよう促した。角山もブリーフケースの中身をベンチの上に並べていく。仕事に関するものと必要最低限の所持品。平凡な持ち物たち。無駄な時間を過ごしていることをハシロが自覚し始めた時だった。

「待て」

 ハシロは目を疑った。視線の先にあるのは、パステルカラーでハート型の防犯ブザーと桜餅のスクイーズだ。

「誘、拐……いや、窃盗……?」

「違います、これらには訳が」

「訳だと?」

 女児向けデザインの防犯ブザーと玩具。そして、その所有者は三十路の男。ミスマッチな情報にハシロはもはや困惑していた。

「何にどう使うんだ」

「桜餅はストレス発散用に握って使います。で、こちらのブザーは防犯用です」

 角山は千崎から受け取ったものだと言おうとしたが、いつの間にか千崎がそばにおらず、それを躊躇った。責任を知らぬ間に擦りつけるのは、気が引けたのだ。千崎はというと、暇つぶしに四葉を探していた。ハシロはスクイーズとブザーを手にして眺める。

「確かに、お前は自分で自分の身を守れるようには到底思えないが……防犯ブザーとは」

「そう思われていたんですね。大声くらいは出せますよ」

「残念だが、その発言では何一つとして印象は覆らないぞ」

 この静かな言い争いは、泥沼化する気配を醸し出している。

「だいたい、大声が出せるならブザーは必要ないんじゃないか?」

「いえ、いつでも声が出せるとは限りませんし、そのブザーには大きな音を出す以外にも機能がありまして——」

 角山は恥も外聞も捨て去る覚悟があった。ブザーを鳴らせば千崎のスマホへ通知が行く。その情報を伝えれば、ブザーの有用性を伝えられる。しかし、それを知ったハシロの反応は想像に難くない。意を決した角山が、今に続きを言おうとした。が、それは「ア!」という、明るい声に遮られた。

「それ、俺があげたやつです! 両方とも!」

 手にはやはり四葉の小さなブーケがある。

「センセが安全にお仕事できますようにーって!」

 千崎の笑顔は薄闇の中でも眩しかった。ハシロは手に持っていた二つの疑いを、ベンチの上へそっと戻す。

「それならそうと、早く言え」

「すみません」

 それから、荷物検査の結果は異常なしと、作業的に手帳へ書き込んだ。徒労感を感じているのは角山だけではないようで、今のハシロは二人に声をかけた時と比べて、やや拍子抜けしたように見える。

「次は何事も怪しまれんよう努めるんだな」

 そして、そう捨て台詞を残すと、さっさと歩いて行ってしまった。少し先で小さな光が点灯し、自転車を漕ぐ音と共に遠ざかる。それを見て、やっと角山の心は落ち着いてきたが、同時に振り回されたような感覚で小さく苛立った。

 出した持ち物をしまい終わると、待っていた千崎が駆け寄り、何かを角山に差し出した。二本の四葉だ。

「どぞ!」

 角山は一瞬よぎった使い道に対する悩みを無視して、それを受け取る。

「ありがとう」

「いーえっ」

 それから、千崎が持っていた四葉を入れようと、リュックを下ろしかけた時、何かが千崎のポケットから地面にぽてりと落ちた。千崎がその方向へ振り向くと同時に、懐中電灯でそれが照らされる。それは、錠剤が入った薬瓶だった。

「え」

 さっと拾い上げてポケットに押し込む千崎。ハシロにポケットの中身を問われた時、確かに千崎は何もないと言った。しかし、実際はそうではなかった。つまり、千崎はあの時、嘘をついていたのだ。

「へへっ」

 千崎は角山の方を向いて、そう誤魔化すように笑った。角山はもらった四葉を少し強く握った。千崎も、保身のために嘘をつくことがある。その事実を受け、角山は千崎に対して今までとは違う感情も抱き始めた。失望。ではなく、親近感だ。何を考えているのか、何も考えていないのか、何も内面を理解させてくれない千崎に感じた人間味。角山は嬉しかった。

「ねえ、センザキくん」

 さらにその内面を知りたい。角山が他人にそんなことを思うのは初めてだ。それは本人も分かっていた。分かっていたからこそ、舞い上がっていた。このまま食事にでも誘おう。そう思い、角山は千崎に一歩近づく。その時だった。

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