第十一話「躊躇」
躊躇うことで、傷つくことを逃れられることもあります。躊躇うことで、後に誰かを傷つけることもあります。
診察室を出た角山に聞こえてきたのは、刺々しい声色で言い合う二人の声だった。何事かと声のする方へ向かった先には、険しい表情でやはり口論をしている胃炭と峽がいた。
「それに、最近の胃炭サンは角山サンへの絡み方が不健全なんすよ。良くないです」
「まあ! わたくし達のことを何も知らないくせに、非難しないでもらえるかしら」
「『わたくし達のこと』って、どういう関係にもなってないでしょう。ねえ、角山サン」
同時に自分へ視線を向けられた角山は、厄介なことになった、と思った。とりあえず、峽の言葉を頷いて肯定する。胃炭は下唇を噛み締め、悲しみの表情を見せたが、すぐに峽へ向き直った。
「そもそも峽センセイは、健全に拘りすぎだと思いますわ。逆に不健全なくらい」
「逆にってなんすか。健全なものを尊んで何が悪いんですか」
「では、お聞きしますわ。峽センセイが思う尊い健全なものとは何ですか?」
胃炭の質問に峽は力強く答えた。
「そりゃ、幼い子どもでしょう!」
「やっぱりなんか不健全ですわ!」
胃炭と峽、対極の性質を持っているように感じられるが、どこか同じようにも見える。自分にはどうにもできないことを悟った角山は、そっとその場を離れようとした。したのだが、
「センセイ」
「角山サン」
二人は巻き込む気でいた。呼びかけられれば「はい」と返事をするほかない。角山は気が重くなってきた。この言い争いに無益さを感じ、胃炭と峽どちらかを庇おうという気持ちもないからだ。詰まるところ、面倒でしかない。どう逃げようか考え始めたところで、角山は二人が自分の後ろを見ていることに気がついた。
「こんちゃ!」
「わっ」
突然の背後からの元気すぎる挨拶に、角山はびくりと体を跳ねさせた。振り返れば、大きな箱を持った千崎が立っている。190cmはある大きな体で、三人を見下ろしていた。
「イスミセンセもハザマセンセも、喧嘩はダメですよ!」
そしてそう注意されれば、胃炭も峽も若干の冷静さを取り戻してきたようで、口を閉じ、きまりが悪そうな仕草を見せた。
「ありがとう、センザキくん。助かったよ」
「え! センセなんか困ってたんですか⁈」
いつも通りの千崎に角山は安らぎを感じつつ、思わず表情を綻ばせる。よく分かっていない千崎も、にこりと笑った。二人の間にある友情は、この短期間で周囲の想像以上に深まっているように思える。それを見て、胃炭は露骨に悔しそうにした。
「くっ……この泥棒犬ッ!」
そして、千崎を睨んでそう吐き捨てたが、千崎は首を傾げている。
「俺はイスミセンセから何も盗んでませんよ?」
「そうよね……センセイはまだわたくしのものではありませんもの……」
落ち込む胃炭。感情の忙しい人だと角山は思った。気づけば院内も足音や物音、話し声が行き交い始めている。
「じゃあ、俺、荷物持ってかなきゃなんで、もう行きますね!」
千崎はそう言うと、大きな箱を抱えなおして行ってしまった。
「俺も、入院患者の子たちの様子見てくるんで、じゃ」
峽も持っていたカルテを小さく掲げて、病棟の方へと歩いて行った。角山は二人きりになったことで、胃炭に何か反応に困ることを言われるのではないかと身構える。しかし、胃炭は角山の方を見たり手元をいじったりと、落ち着かない様子でまごついている。こういう場面でいつもの胃炭ならば角山に迫り、困らせていたというのに。
「センセイ、わたくし、」
すると、いつにも増して言いづらそうに、しかし、誠意のある声色で話し始めた。
「色々とご迷惑をおかけしていますが、センセイの支えになりたい気持ちは本物ですのよ」
急な真面目な物言いに、角山は戸惑った。確かに胃炭は、今までの角山の質問や話を真剣に聴き、言葉を返している。日頃の行いのせいで見落としがちだが、そのことは、角山にも分かっていた。
「それで……その、相談したいときは言ってくださいね。いつでも、お待ちしておりますので」
珍しく照れながら言う胃炭から、普段の見え透いた欲望は感じられない。角山は怪訝に思ったが、それよりも今の慎ましい胃炭に妙な感覚を得ていた。まるで、この胃炭の方がずっと自然なような——そう思った瞬間、角山の思考に何かがフラッシュバックした。そこで思い出したのは、赤色の眼鏡だ。しかし、それがどこで見たものなのか、いつ見たものなのかを思い出せない。もどかしい感覚に、角山は顔を顰めて俯いた。すると、胃炭は気まずそうに「突然こんな……すみません」と苦笑した。角山の反応を見て、変なことを言ってしまったと思ったのだろう。角山はハッとして「いえ」と否定した。
「ありがたいです。そう、思ってくださったり、気を懸けてくださって」
「そう思っていただけて、良かったです」
お互いに心地の悪い間が流れる。突然、胃炭はどうしたというのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、角山には次の診察が控えており、別れの挨拶を簡潔に済ませて診察室へ戻ることにした。
ひとり残された胃炭は、手の中で縮こまった花形のメモ用紙を広げた。そこには、電話番号が書かれている。胃炭は重たく息を吐いて、それをポケットへしまった。
日が暮れた頃、仕事を終えた角山は教会の懺悔室にいた。そこで、この世の中がいつからか変わってしまって今に至ること、そのいつからかが分からないこと、前のことが思い出せないことを話し終えたところであった。
「政策が変わったことも何か関係があるのではないかと思っています。記憶にある限り最も大きな変化ですし、ちょうどその辺りとそれ以前の記憶が曖昧ですからね」
角山は着実に真実へのカケラを集めている。それが嬉しいのか、カーテンの向こうの綾子はいつもより大きな動きで相槌を打っていた。
「きっと、合っていると思います……! すごいですね。着々と情報が、集まってます」
しかし、角山はというと、そんな綾子の態度をあまり穏やかではない目つきで見ていた。
「朔壱朗さん?」
不安を感じていることがよく分かる声だ。角山は前髪を撫でた。
「たまに、貴女のことを疑ってしまうんです」
そして、また黙った。理由まで言うつもりはないらしい。
「え、あ、すみません……」
「謝らないでください」
角山のその言葉は決して優しさからの言葉ではなかった。自分の疑いを、綾子が受け入れたかのようになるのが嫌だったのだ。
「でも、わたしが朔壱朗さんの味方だということは、信じてください。お願いします」
言葉を重ねれば重ねるほど、綾子への不信感が強まるのを角山は感じていた。だが、敵意や悪意は感じていない。角山はカーテンに映る影をじっと見つめた。
「こういう時に、顔を合わせることができれば、良いのですがね」
「すみません……それは、難しいことなんです」
二人を隔てる枠の中のカーテン。その奥のシルエットだけが、彼女が存在している証である。それだけでは心許ないと、角山は感じていた。カーテンをめくってしまえば、その先が見える。そんな考えが湧いたが、角山は躊躇った。きっと、後悔する。なんの確証もないが、角山にはそう感じられた。
「い、いつか、全て解決したら会う……というのはどうでしょうか」
「名案ですね。今の僕たちには、約束の指切りさえできませんが」
「で、では、こうしましょう」
カーテンの向こうで綾子が何かめくる音がする。少し待つと、カーテンの下の隙間から、一枚のメモ用紙が角山に渡された。受け取って表裏を返して見るが、白紙だ。真っ白な、正方形のメモ用紙。
「それが、約束の証です。いつか会った時に、それをわたしに返していただくんです」
綾子の言葉で、途端にメモ用紙の重みが変わったかのような感覚を角山は得た。それはつまり、角山の中で、そのメモ用紙が約束の証に足り得たということだった。今この瞬間から、なんの変哲もない白紙のメモ用紙は、二人にとって特別なものになったのだ。
「分かりました。では、いつか必ず」
角山はメモ用紙を大切にしまった。自分の心の移り変わりが、いとも簡単に起きるものだと思い知らされながら。
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