第九話「方針」

 進むべき方向を選ぶということは、その先の選択肢までをも決めるということです。安易に決めてはいけません。間違えたなら、要らぬ苦労がつきまといます。

 

 季節柄、すっかり明るい早朝。いつもよりずっと早くに家を出た角山は、職場へ向かう道の途中、例の教会へ寄っていた。綾子から、いつでも話して良いといったようなことを言われてはいるが、それにしても早い時間だ。角山が扉に手をかけると、鍵は開いているようだった。遠慮がちに中を覗き込めば、やはり人気はなく、陽の光を浴びて輝く装飾品が目についた。正面を見れば、以前と同じように、懺悔室までの案内の看板が置かれている。角山は改めて道順を見てから、部屋の前まで来ると、やはり控えめに扉を叩いた。

「あ……どうぞ」

 返事が来たことに安心しつつ、角山は部屋に入った。間接照明の優しい明るさが角山を迎える。

「ようこそ」

「おはようございます。早朝にすみません」

「い、いえ、お気になさらず」

 今日も綾子の声は弱々しい。

「何か、分かったんですか?」

 しかし、前回よりも幾らか明るい声だ。角山が再びここへ訪れてくれたことが嬉しいのだろう。角山も綾子が自分の話に興味を示してくれたことを嬉しく思った。

「ええ、ほんの少しですが」

 角山が椅子に腰掛けると、綾子も姿勢を正した。それから、角山はまず、周囲の人間はこの世の中に違和感を感じていなかったことを話した。

「僕から質問を投げかけるまで考えたこともなかった様子でした」

 そして次に、公園の発券機がいつから置かれているのかの記憶の時系列が合わない話をした。

「ネットで調べても詳しい情報は得られず、先ほどの質問で世の中に違和感を感じていないと回答した人達も、それなりの不気味さを感じているようでした」

 一通り話し終えた角山は、鞄から水筒を取り出し、一口飲んだ。相槌を打っていた綾子は、一言「そうなんですね」と答えて黙る。どうやら、頭の中で角山の話の内容を整理しているようだ。それを感じ取った角山だったが、待ちきれない様子で口を開いた。

「改めてお聞きするのですが、綾子さんは現時点で、この世の中がおかしいとは思いませんか?」

 数秒の間、それすら角山にはもどかしかった。

「確かに」

 綾子はいたって落ち着いた声色で言う。

「おかしいのかも、しれませんね」

 曖昧な返事だ。しかし、角山にとって、以前の「分からない」という返答に比べれば随分と前進したものだと感じられた。世の中の違和感を共有するということは、それに伴う不快感も共有するということ。そのことを忘れてはいない角山だったが、すでに綾子を頼らない選択肢は自分の中になかった。

「より前に進むには、もっと情報が必要なようですね」

 角山がそう呟くと、綾子は何か思いついたような声を出した。

「SNSを利用して情報収集をするのはどうですか? たくさんの人の声が聞けそうだと思うのですが……」

 角山は一瞬、名案だと思った。だが、本当にそれは一瞬だけであった。角山は、机の上で指組みをしてため息をこぼす。

「あまり気乗りはしませんね。あの空間は、小さな憂鬱に名前をつけて事を大きくすることにだけは長けている人間ばかりです。しかも、それは拡大する。少々話し上手なだけの一般人がインフルエンサーとなり、個人的な感情の伝播に成功していくんです」

「み、みなさん、不安でいっぱいなんでしょうね……」

 綾子は濁した。今はそれが最も正しい返答だった。

 情報の共有が済めば、次は考察の時間だ。綾子はカーテンの向こうで、角山の話の内容を手帳に書きまとめていた。その間、角山はペンを走らせる音を聞きながら、考え込んでいる。角山の出勤の時間が迫るが、二人に焦りの感情はなかった。

「発券機が設置された時の記憶が合わない……」

 綾子がそうぽつりとこぼすと、角山は口元に当てていた手を離した。

「そうだ」

「何か分かったんですか?」

「ええ。あの発券機の設置されたタイミングの記憶はみなさんバラバラでした。しかしながら、共通している部分があるんです」

 綾子は黙ってその続きの言葉を待つ。二人とも、冷静でいながらも心臓は高鳴っていた。

「それは、発券機が後から設置されたものだという認識です」

「ええっと、つまり……?」

「発券機が置かれるような世の中になる前が存在するということです。つまり、世の中がおかしいのは元からではない。今の世の中になるきっかけや、境目があるはずなんです。……まあ、僕のこの世の中がおかしいという主観が主だった推測ではありますが」

 角山は一つの道が開けたような気分だった。やるべきことも分かったような気がしている。綾子は手帳に何か書き留めると、深く一度頷いた。

「朔壱朗さんの考え、わたしは間違っていないと思います」

 角山にとってこんなにも心強い言葉はなかった。不安定な環境と精神の中、肯定されることの喜びは一入だ。

「主観が多くてもいいんです。今は朔壱朗さんの感覚や正しさを信じましょう」

「ありがとうございます」

 綾子のまっすぐな言葉に、角山は柔く微笑んだ。たとえ表情が見えなくても、綾子にはそれが分かった。

「では、次はいつからこの世の中になったのかを調べてみます」

「分かりました。うまくいくよう、祈っていますね」

 腕時計に目を向けた角山は、思っていたより時間が進んでいたことに焦りつつ、鞄を持って立ち上がる。別れの挨拶をと思った矢先、綾子が前回同様「あの」と声をあげて引き止めた。

「一つ、お聞きしたいのですが、朔壱朗さんはこの世界に馴染みたいとは思わないのですか?」

 角山はその質問を不思議に思ったが、平然として言葉を返す。

「思いませんね。僕は正気でいたいので」

「そうですか……」

 映る綾子の影が小さく震えている。どういう感情なのか、角山には分からなかった。

 改めて、感謝と別れの挨拶を済ませた角山は、懺悔室を後にし、教会を出る。自然光を直に浴びた角山は、その眩しさを煩わしく思いつつ、早足でいつもの道を急いだ。

 

 角山と別れ、一人になった綾子。扉の軋む音を最小限にとどめつつ、懺悔室から出る。そして、教会の最奥にある祭壇の前まで行くと、その上に置かれた一輪の黒い花を見つめながら指組みをした。

「主よ、どうか……」

 懇願するような声で、綾子は祈っていた。それが誰のためなのか。それは、綾子にしか分からない。黒い花は綾子の声を聴きながら、ステンドグラスの光を浴びてもなお、色づかなかった。

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