第八話「問題点」
点と点がつながって、新たな情報を掴んだならば、次はまた別の点探しが始まります。それを繰り返すことで、やっと見えてくるものがあるでしょう。
角山と対面して座る男は、脚をさすりながら話す。自身を苦しめる病について。「情報依存症」。それが彼が患っていると主張する病だ。情報依存症とは、周囲のことに関する情報を得続けなければ不安になるというものである。
「知らないことがあると落ち着かないんです。この前も恋人に質問をはぐらかされた時、夜はなかなか寝つけませんでした」
彼が恋人の話を持ち出すのは、この診察が始まってから実に六回目だ。一つ苦しみを吐き出す度に、エピソードの登場人物として出てくる。これは情報という概念への依存ではない。角山の中で、それは確信へと近づいていた。
「寝つけない間、どんなことを考えていたか、教えていただけますか」
「あんまり覚えてはいませんが」
脚をさする手が止まり、彼は斜め上を見る。一呼吸おいて再び脚をさすり出すと同時に、彼は話し始めた。
「彼女に隠し事をされてるんじゃないか、とか、もっと話し合うべきだ、とかですかね。近くにいてもらわないと落ち着きませんし」
彼にとって自分は被害者であり、恋人は無意識の加害者。話す口ぶりには、苛立ちさえ感じられた。カルテに短い文言が書き加えられる。そして、角山はペンを置いた。
「端的に申し上げます」
間違いを正す瞬間。この時が、角山に送る日々の中で最も生きた心地を感じさせ、気分を高揚させた。正と負の感情が入り乱れ、軽い錯乱状態と言っていい。しかしながら、そうであっても、頭の中で言うべき言葉はまとまっていた。
「貴方が依存しているのは、情報そのものではありません。貴方の恋人その人です」
「まさか」
彼は不愉快そうに眉を顰めた。腿の上で拳を握りしめ、反論の材料を探している。しかし、見つからない。当然である。角山の言ったことに間違いがないからだ。
「何を根拠に」
「先ほどまで聞かせていただいたお話は、どれも恋人に対する不安が根本にある内容ばかりでした。目の届く範囲からいなくなることも恐れているようですし、それに——」
そこで、患者は突然立ち上がった。呼吸を荒げて、興奮している。それでも、怒鳴ったりせず、黙って角山を睨むことしかできないのは、まさにぐうの音も出ないからだ。言葉を遮り、怒りを露わにしてみたところで、角山には少しの動揺をさせることすらできていない。角山が座るように言うと、彼は体を縮こませるように一人がけのソファに体を収めた。
「た、確かに恋人にも依存の傾向があるのかもしれません。けど、自分は他の情報源にも依存していてですね」
「例えば何でしょうか」
彼は斜め下に顔を背けながら吃った。
「SNS、とか」
「主に見ているアカウントに貴方の恋人のものが含まれていないならば、新たな判断材料になりますが」
角山は皆まで言うのを控えた。患者は完全に萎縮している。それは、彼が間違いを認めたことを表していた。
「責めているわけではないんです」
こうなれば次の段階、慰めに入る。患者の心に寄り添い、問題点を共に探って解決の糸口を見つけていくのだ。
「正しく心の治療をしていくためには、正しい原因を知る必要がありますから」
「先生……」
それから、なぜ彼は恋人に依存してしまっているのかを知るために、二人は話し合った。言葉を重ねて、記憶と感情を共有していく。角山は直向きに話を聴き続けた。そうして分かったことは、彼には気付かぬ間にトラウマになっていたとある出来事があること。それは、恋人のことを理解してあげられず喧嘩になり、そのまま別れそうになったことだった。
「自分は、思えばその時からずっと不安でいっぱいな日々を送っていたように思います。彼女のことを理解しなければと、焦ってばかりで……」
涙ぐむ患者に、角山はティッシュを差し出した。一枚手にした彼は、目元と鼻を拭うと、大きく呼吸をして心を落ち着かせようと努めている。角山はその隙にカルテを書き込んだ。
「まずは、心の余裕を作っていくことが必要かと思います。恋人以外の人間関係で、心の拠り所をつくってみたりしてもいいかもしれません」
患者は思い当たる人物がいるようで、表情を和らげて「そうですね」と小さな声を出した。
「相手の情報を知っていくことも大切だとは思いますが、焦らず会話をして、相手の気持ちを知ることも、良い関係を続けるには重要だと思いますよ」
患者はまた目元を潤ませながら頷く。人は不安や焦りで簡単に視野が狭まるものだ。今回の診察を通して、それに気づいたのは患者だけではなかった。次回の診察の予定日を取り決め、診察も終わろうとしている時、患者は言った。
「情報を集めることに躍起になる前に、何が問題かを考えるべきでした」
角山はわずかに目を見開いた。
「そうですね。では、また次回に」
扉の向こうへ去っていく患者を見送る間も、角山の思考は別にあった。
終業間際。やっと多少の時間が取れた角山は今朝のように、とある質問をすべく、顔見知り探しを敢行していた。一日に二度も不審な質問をすることに抵抗がないわけではないが、先に進むためにはなりふり構ってはいられないようだ。
ひとまず、待合室に出ると、そこにはちょうど病棟から戻ってきた峽がいた。角山が小さく手を上げて呼びかけると、峽は小走りで近くまで来てくれた。
「何すか」
「質問をさせていただきたくて」
既視感のある申し出に、峽は僅かに困惑の色を見せたが、すぐに「どうぞ」と促した。
「峽さんは、公園の遊具のそばに置かれた発券機はご存知ですか」
「そりゃ、もちろん」
角山は自分が今、最も明確に違和感を感じているものについて調べることにしたのだ。しかし、それは発券機そのもののことを知るためではない。
「では、それがいつから置かれるようになったのか、覚えていますか」
角山は思い出していた。『いつからこの世界はおかしいんだろうね』という少女の言葉を。それを知るためにまず、異様な存在がその姿を表した時を知ろうと思ったのだ。峽は腕を組んで空を仰いだ。
「俺が、生まれた時にはあった気がしますね」
記憶に自信がないような言い方だ。だが、随分と前から置かれていることは確かなようだと角山は推測した。
「生まれた時ですか……峽さん、今おいくつでしたっけ」
「三十六ですね」
兄と同い年だ。と、逸れた思考を引き戻して角山は頭の中にメモをした。
「いやぁでも、俺、記憶に自信ないんで、カンニングしますわ」
そう言って、笑いながらスマホを取り出した峽は、どうやら検索してくれているようだ。角山は礼を言って、ふと辺りを見渡すと、こちらに歩いてくる胃炭と看護師の姉子がいた。角山が気づいたことが分かると、少しだけ歩く速さを増して合流した。
「峽先生にも質問してたんですか?」
仕事終わりでも姉子の声色には、疲労が見えない。ビタミンカラーの瞳を爛々とさせている。
「ああ、今朝とは違う内容なのだけれど——」
そして、角山は先ほど峽に訊いたように、公園の遊具の発券機がいつからあったか覚えているかを尋ねた。すると、胃炭は自信ありげに、姉子は少し遅れてこう答えた。
「わたくしが中学校に入学した年、ですわね」
「ここ数年だったはずです!」
胃炭と姉子は顔を見合わせた。思わず、峽も顔を上げて驚いている。角山はというと、世の中への違和感がいよいよ明確なものになってきたことに奮い立った。約三十年以上前という記憶と、おそらく十数年前という記憶、そして、数年前という記憶。同じ事柄に対してあまりにも差がある。これはおかしいことだ。そのおかしさを明らかにしてくれた発券機に、角山は好印象を抱かんばかりに感情を昂らせた。もう少し角山の精神が幼ければ、人の目も気にせず手を叩いて喜んでいただろう。それほどにだ。
「で、結局、いつからあるものなのかしら」
胃炭が峽に投げかけると、峽はスマホに目を向けることなく、頭を掻いた。
「それが、調べても全然出てこなくて」
角山の心はさらにはしゃぎだした。他の三人は気味悪そうにしているというのに。峽が検索画面を見せると、そこには平等政策についての説明記事がたっぷりと表示されているだけで、発券機について詳しく言及したものは見当たらない。
「なんか、怖くなってきちゃいました」
姉子がそう呟くと、そこでやっと角山の精神は落ち着きを取り戻してきた。自分が昂っている間に、周囲がどんよりとしている。
「すみません。僕が妙なことを尋ねたばかりに」
「いえ、構いませんわ」
瞬時にそう答えた胃炭に続いて、峽も姉子も角山に気にしないでいいと声をかけた。あたたかい言葉たちに感謝を感じつつも、角山の心中には迷いが生じていた。世の中に対する違和感を共有したい気持ちはあるが、それは自分と同じ苦しみも共有するということ。味方を増やしたいという目先の欲に捕らわれて、他人を思いやることを少し忘れていたと、角山は自分を省みた。
峽たちと別れた後、帰り支度を済ませた角山は、帰路ではなくいつもの公園に向かっていた。実際の発券機を今一度見ておこうと思ったのだ。街灯の少ない道を行き、暗い公園を覗く。すると、そこには一人分の人影があった。懐中電灯を持って地面を照らしている。探し物だろうか。角山は怪訝に思いながらも公園へと踏み入って気がついた。
「センザキくん?」
「ワッ! センセ!」
大きな体を起こした千崎の手には、小さな葉っぱのブーケができている。
「それは?」
「四葉です!」
懐中電灯で照らされたそれは、確かに四葉の集合体であった。常人には一日かけても集め切れないような量だ。
「センセも探し物ですか?」
「いや、僕はあれを見に来たんだよ」
角山が発券機を指さす。すると、千崎は発券機に駆け寄って灯りを当てた。
「どうぞ!」
どうやら、見えやすいように明るくしてくれたようだ。
「ありがとう。助かるよ」
ブランコの近く、発券機を観察する角山。いつからあるのかは定かではないが、平等政策が進んだ結果導入されたものだということは分かっている。見た感じ汚れてはいるが、古びているわけではなさそうだ。
「センザキくんは、これがいつからあるか覚えているかな?」
「二十年くらい前じゃないですか? 俺がちびっ子の時に置かれた記憶があるんで!」
やはり時系列が合わない。得体の知れない発券機。それを当然のように受け入れている人々。角山は不信感を持った。様々なことが信用できないのだ。それには、以前まで普通に過ごしていた自分自身も含まれていた。
「センセ、なんか困ってます?」
深刻そうな顔をしてしまっていたのだろうか。千崎はいつもと比べて静かな声で、角山にそう尋ねた。困っている。確かに角山は今、途方もない疑問に苛まれている。しかし、どう説明すればいいのか分からず、角山は言葉に詰まった。
「センセ、これあげます」
すると、千崎は鞄から何やらもちもちとしたものを取り出し、角山に握らせた。それは、桜餅の形を模したスクイーズだった。角山は呆然としながらそれを握り込む。心地よい手触りだ。柔らかで、やはりもちもちとしている。
「にぎにぎしたら、ストレス緩和効果発生するんで、きっとセンセを癒してくれますよ!」
角山は手の中の癒しを、揉むように握り続けた。安らぎを感じている。角山はそこで思った。スクイーズは確かに今、自分の心のつらさを和らげてくれているが、自分にとっての一番の癒しは千崎なのではないかと。思い出される千崎の無邪気な笑顔。と、同時に思い出した千崎の奇行、危うい発言、胃炭に迷わず突き刺した注射器。角山のスクイーズを握る手は忙しなくなっていた。
「ありがとう。センザキくん、気に入ったよ」
「よかったです!」
角山は明日からもこの世の中のことを知るために、尽力しようと心に決めた。自分が正気を保っているうちに。
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