第七話「疑問」

 抱くべき疑問を履き違えていては、いつまで経っても真相には辿り着けません。まずは、何を知るべきなのかをよく考えることが大切です。


 朝。清々しい青空、ぬるい空気、行き交う人々の雑音を遮断した窓岐マドキ病院内。勤務準備を早々に済ませ、せわしい靴音を鳴らす角山がいた。すでに受付のカウンターで、医療事務の端城ハシロ二葉ふたばという女性スタッフと、すれ違った顔見知りの看護師、嵯木サキ姉子あねこにとある同様の質問を投げかけた後である。

「この世の中に違和感を感じたことはありませんか」

 突然こんなことを訊かれては、大抵の人間が困惑し、相手の正気を疑うだろう。事実、二葉も姉子もいつもと調子の違う角山を訝しんだ。二人とも問いに対しては「特にない」といった旨の返答をしたため、角山にとって進展はない。そして今、角山は次なる問いを投げかけるのに相応しい人物を探している最中であった。

 もっと日頃から交友関係の幅を広げておけば良かった。などと思いながら、角山は目的の人物の元へと急ぐ。そこでふと、角山は自分の背後をつける甲高い足音があることに気がついた。立ち止まってみるも、足音は接近し続けている。距離が縮まり、そこでふわりと漂ってきたのは桃の香りだ。角山はすぐさま離れようとしたが、腕を掴まれ、動けなくなってしまった。

「つれないですね、センセイ」

 正面に回ってきた香りの主である胃炭は、不必要に角山に触れながら蠱惑的に微笑んだ。

「相談事でしたら、わたくしを頼ってくださればよろしいのに」

「ど——」

 どの口が言う。と、言いかけてやめた。角山は胃炭に、極力喧嘩を売るような言動はしたくなかったのだ。

「センセイのお困りごと、わたくしに共有してくださいな」

 角山にこの場から逃げ出す術はない。それならば、さっさと用件を済ませてしまおうと、角山は胃炭にも尋ねることを決めた。

「では、一つお聞きしたいのですが、」

「なんでも聞いてください。恋人はいません」

「聞いてません」

 ぽっと頬を染めて口走ったことを恥じらう胃炭。角山にはその羞恥心が本物なのかどうか疑わしく見えた。角山が「いいですか」と咎めるように投げかけると、胃炭は「どうぞ」と悪びれる様子もなく答える。

「胃炭さんは、この世の中に違和感を感じたことはありませんか」

 抽象的で突飛な質問。それでも、胃炭は先ほどまでとは違い、真剣にその問いに対して考えた。

「違和感……は、感じたことがありませんわ。今、センセイにその質問を投げかけられるまで、気にしたことがありませんでしたもの」

 角山は驚いた。胃炭が真面目に返答したことだけではなく、角山を不審がる素振りを見せなかったことに。胃炭は角山の質問を真摯に受け止め、考えたのだ。とはいえ、角山が胃炭に好印象を抱くまでには至らなかった。今も無遠慮に自分の手を握って嬉しそうにする胃炭を、冷めた視線で眺めている。

「そうですか。お答えいただきありがとうございます」

「いえ、いつでもなんでも聞いてください。お話しされたいことがあれば聞きますし。もちろん、二人きりで——」

「ありがとうございました」

 強引に手を振り解いた角山は、廊下を急いて歩いて行った。

 

 第四診察室。そう書かれた札を確認して、角山はノックをする。「どうぞー」と、返ってきてから入室すると、資料を片手に目を丸くする男性の医師がいた。

「角山サン? 珍しいっすね。どうかしたんですか」

 彼は、ハザマ 修一しゅういち。一つに束ねた長い銀髪が印象的な、児童思春期外来を担当する精神科医だ。緑色の三白眼で鋭い目つきをしているが、子ども達には好かれやすい。

「大したことではないのですが」

「はい」

 扉を閉めて中へと踏み入る角山に、峽は座るように促したが角山は遠慮した。

「一つ質問をさせていただきたくて」

「どうぞ」

 微妙な距離感による予期せぬ気まずさがそこにはあった。

「峽さんは、この世の中に違和感を感じたことはありませんか?」

 さらにそう尋ねれば、その気まずさは加速する。視線を泳がせて困惑する峽を見て、角山はすでに望ましい言葉が返ってこないことを察した。

「いや、特に、感じてないっすね」

 たっぷりの間の後に峽がそう言うと、角山は「そうですか。返答、ありがとうございます」といった定型文で返した。角山は、同じような言葉が返ってくることにも慣れてきたと思いつつ、やはり小さな悲しみも感じていた。

「あ、俺からも一個いいですか」

 すると、峽は軽く身を乗り出して人差し指を立てて言った。

「なんでしょう」

「角山サン、この後は岡品オカシナききちゃんの面談ですよね?」

 岡品きき。この病院の入院患者の一人だ。角山は彼女の担当医であり、峽の言う通り、この後病室へ行って面談をする予定である。

「そうですが、何か」

「それ、代わっていただけたりとかって、しないですかね」

 角山は峽の言葉を理解するのに手間取った。その間、峽は懇願するような目で角山を見つめている。

「急には難しいと思いますが、なぜ?」

「いや、深い理由はないんですけど、ききちゃんに会いたいっていうか、診てあげたいというか……」

 理由というより願望だ。緩く口角を上げる峽に、角山は心理的に距離を置いた。

「無理です」

「駄目っすか」

「駄目です」

 一旦、悔しそうな顔をして諦めたように見えた峽だったが、角山ともう一度目が合うと、また人差し指を立てて見つめた。角山は素早く首を横に振る。ワンチャンなんてありはしない。このままやんわりと駄々をこねられるのも嫌だと思った角山は、簡潔に挨拶をして見捨てるように退室した。

 第二診察室へ戻り、カルテを資料ラックから抜き出す。名前欄に書かれた文字が「岡品きき」であることを確かめた角山は、時計を見やった後、急ぎ足で病棟へと移動した。

 廊下を進み、目的の病室へ到着した角山は、若干乱れた呼吸を整えた。ノックは三回。笑顔で扉を開けば、その先には一人の少女がいた。おかっぱの黒髪に、黒いワンピースを着た小学校低学年くらいの女の子。ベッドに腰掛け、機嫌良さげに足を揺らしている。角山が後ろ手で扉を閉めると、鍵がかかる音がした。

「お話ししましょ。せんせい」

 やや舌足らずであどけない声色。

「ああ、お話ししよう」

 その声に引き寄せられるように、角山はベッドのそばの椅子に座った。

「せんせい、まだ分からないの?」

 揶揄うような笑顔で尋ねるききと、角山の目は合わない。閉まった窓のカーテンが、ふわりと広がった。

「分からないよ。まだ、何も。気づいただけだからね」

「気づけたなら今はじゅーぶん! まだ、序章なんだから」

 角山は下を向いたまま、安心したように笑う。ききは、角山に幼稚な褒め言葉をかけながら手を叩いた。角山はまだ何も知らない。ただ、この世の中に知るべきことがあることに気がついただけだ。疑問を抱くべきだということに気がついただけだ。それは、幸せなことではない。これから知るのは、苦痛を伴う真実だ。ききは、角山の頬をつついた。

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。順調だよ」

「僕が、やるべきこと」

「おうた歌ってあげる!」

 ベッドから飛び降りたききは、角山の周りをぐるぐると回りながら歌った。

「グッドモーニング、トゥーユー」

 スキップしながら歌うきき。

「グッドモーニング、トゥーユー」

 たまに角山の背中を軽く叩いた。

「グッドモーニング、ディア、せんせーい」

 両手を広げて笑うききを、角山が見上げることはない。

「グッドモーニング、トゥー、オール!」

 ききは、角山の両肩に小さい手を乗せて耳元に顔を寄せた。

「いつからこの世界はおかしいんだろうね」

 

 角山に、はっきりとした意識が戻ってきたのは、第二診察室へ戻って来てからだった。まるで、夢を見ていたかのような感覚に角山は気持ちの悪さを感じていた。胸の辺りから不快感が込み上げている。今日は初めの外来患者がくるまで時間があることに、角山は安堵した。こんな状態では、診察などままならない。机の上に伏せて疲れたような呼吸をしていると、睡魔が顔を出した。

 その時、コンと叩く音がして、直後に扉が開かれた。

「ア! センセ、しんどいんですか⁉︎」

「わぁっ」

 跳ねるように体を起こした角山を見て、現れた千崎は驚かせたことを申し訳なさそうにしている。途端にやかましくなった心臓の音を感じながら、角山は乱れた前髪を撫でた。

「無理しちゃダメですよ」

「心配、ないよ」

 そこで、角山は千崎には例の質問をしていないことを思い出す。どう答えるかは角山にとって想像に難くない。しかし、千崎にだけ聞かないというのも気が引けたので、角山は尋ねてみることにした。

「ねぇ、センザキくん。一つ質問をしてもいいかな?」

「いいですよ、秘密なこと以外ならなんでも答えます!」

 千崎は角山がどんな質問をするのか、興味津々な様子だ。

「センザキくんは、この世の中がおかしいと思ったことはないかい?」

「ないです! 毎日幸せハッピーです!」

 即答だった。内容が確かなものなのか、疑う余地がないように思えるくらいには早かった。

「そうか。答えてくれてありがとう」

「あい! じゃ、俺、仕事戻りますね」

 千崎が角山と会話をしたいがためだけにやってくることは、二人にとってはもう珍しいことではない。別れる時は、お互いが見えなくなるまで手を振り合う。これもすでに習慣となっていた。

 一人になった角山は、先ほどまで方々にしていた質問について改めて考えていた。取り留めのない質問内容だったが、今の角山にはあれが精一杯である。深く考えようとしても、思考に錠がかけられたかのような感覚がして、うまく考えられなくなるのだ。それがいずれ、自分をこの世の中に馴染ませてしまう。角山は恐れた。自分が正気のうちにできる限り多くのことを調べなければ。角山は焦りと決意を胸に、これからやってくる患者の備えを始めた。

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