第六話「兄弟」
家族は、最も身近で最も気軽な話し相手だと言う人も珍しくありません。しかし、話しやすいが故に、いつだって味方であると勘違いしやすい面もあるでしょう。
荷物を置きながら、角山はソファを占領する兄に、ため息混じりに言った。
「
兄の名前は、
「ごめんって」
「次はもう——」
「あああ、ほら、ピザ! ピザと
飛び起きた零次朗の指さすダイニングルームの机の上には、ピザとポテトの箱が置いてあった。角山はそれらに近寄り、まだ温かいポテトの箱を開ける。長細いが通常より太さのあるレギュラーカットのフライドポテトだ。角山は今すぐ手に取って食べてしまいたい衝動に駆られたが、まだ手を洗っていないがために、それを我慢した。
「手、洗ったら一緒に食べような。今日は祝いだ」
「祝い?」
「おう。この前、朔、表彰されてただろ。新聞で見た。それの祝いだよ」
新聞に載っていたことを初めて知った角山は、若干の気恥ずかしさを得た。
「俺ぁ、誇らしいよ」
続けて零次朗がそう言うので、角山は体温が上がるのを感じながら洗面所へと向かった。
ぱたり。と、半分に畳まれた一切れのピザをフォークが突き刺す。それを皿で受けつつ、口に運ぶ角山を、零次朗は満足げに見ていた。それから、自分もピザを一切れ手に取り頬張る。
「んー、俺の作ったピザ、うめっ!」
ピザは残り半分。そこそこに量があったポテトは、角山によってほとんど食べ尽くされていた。零次朗が来た日は、普段は観ないバラエティ番組を流しながら、こうしてピザとポテトを食べる。角山は家に無断で侵入される点以外は、零次朗と過ごすこの時間が好きだと改めて感じていた。
各々、最近あったことや気になっていること、仕事の調子などを話していくうちに、話題は互いの体調のことへと移った。
「俺は最近、手首をやった」
「大変じゃないか。商売道具なのに」
「でも、治ったからへーきへーき」
零次朗は見せつけるように両手首を振って笑った。
「調子に乗るんじゃない」
しかし、その行動が却って角山の不安を煽ってしまったようだ。やや厳しい声色でそう、注意された零次朗は「ごめん」と言って手を下げた。
「朔はどうなんだよ。健康か?」
尋ねられた角山は、問題ないと言おうとした。しかし、それを見越した零次朗が声を発する方が早かった。
「いや、健康じゃないね」
「どうして決めつけるんだ」
「心が疲れてる。そんな感じがするね」
角山は否定できなかった。言葉に詰まった角山を見て、零次朗は「やっぱりな」と言ってピザを齧った。角山は零次朗に嘘をつきたくはないが、心配もかけたくないと思っている。どう言ったものかと、頭を悩ませながらポテトを口に運んだ。咀嚼し、飲み込むまでの間、零次朗は待った。
「確かに、最近はストレスも多いし、疲れてはいるよ。でも、ずっとじゃない」
角山の言葉に零次朗は頷く。それは、まるで自分を納得させるためのようにも見えた。角山は続ける。
「今日は良いことがあったし、今は気分が良いよ」
角山は今日出会った修道女、綾子のことを思い出していた。
「良いことって、俺が来たことか?」
角山は視線が泳がないように気を張った。期待を込めたような瞳を向けられれば、肯定の言葉を口にせずにはいられない。
「ああ、まあ、それもある」
嬉しそうに笑う零次朗に、角山は内心申し訳なく思いつつ、笑顔を返した。
「でも、ストレスってのが多いのは良くないよな」
しかし、すぐに零次朗は心配そうな顔をした。
「やっぱり、仕事で無理してんじゃないか? 朔」
零次朗の表情から伺えるのは心配だけではない。罪悪感もだ。角山にはその罪悪感を払拭する義務があった。しかし、咄嗟に脳内に浮かぶ言葉のどれもがそれには至らないものばかり。角山は、水を一口飲んだ。
「どんな仕事でも、無理をすべき時はあるよ」
「辞めたくなったら辞めろよ」
間髪をいれず返ってきた言葉に角山は反論をしたくなった。だが、口からこぼれたのは短い賛同の言葉だけだった。
「全く、零には嘘がつけないな」
誤魔化すようにそう口にすれば、零次朗は察したように微笑んだ。
「当たり前だろ? 俺は三歳の頃から朔のお兄ちゃんやってんだぜ」
角山は胸の内に温かさを感じた。零次朗の察しの良さは、時に居心地の悪さを角山にもたらす。だが、今の角山にとってはその優しさが嬉しかった。
「ありがとう」
そして、口元に手を当てて堪えきれない様子でくすくすと笑った。
「ところで、僕達は四歳差だ」
すると、零次朗は「ぇあ」と間抜けな声を出した後、
「あれだ。朔が気づくかどうか、試したんだ」
などと、よく分からない言い訳をした。格好がつかなかったことがよっぽど恥ずかしかったのか、両手で頭を押さえて顔を赤らめている。その様子を見て、角山はまた笑い声を漏らしていた。
「まあ、でも、悩みとかあったらなんでも聞くからな。寂しくなったら、いつでも呼んでくれりゃいいし」
気を取り直して言う零次朗に角山は頷いて答える。なんでも聞く、そう言われると角山は零次朗にも例の話をしたくなった。しかし、どう言えば良いかを迷った。そうしていると、零次朗が自分の言葉を待っていることに気がつき、角山は話す決心をした。
「零は、この世の中がおかしいとは思わないかな」
零次朗には安心感を感じ、違和感も少ない。だからこそ、角山は望んでいる返答が来るのではないかと期待していた。欲しいのは共感。だったのだが、その身勝手な考えは零次朗の表情を見て一変した。
「俺は、そうは思わないな。それなりにいい世の中だと、思うけど……大丈夫か?」
零次朗の心配する気持ちは尤もだった。突然、世の中のおかしさを感じないかと尋ねたかと思えば、自分の返答であまりにも落ち込んでいる。黙って俯く角山に、零次朗は言葉に迷った。そうして、悩んだ末に零次朗は、角山の頭に手を乗せぎこちなく撫でた。
「大丈夫か?」
そして、もう一度そう尋ねると、角山は零次朗の手を退けて顔を上げた。
「うん、心配しなくていい。むしろ今、やる気が湧いているよ」
角山は
「そ、うか。まあ、無理するなよ」
一旦、角山の返事を受け入れた零次朗だったが、この後も再三角山を案ずる言葉をかけていた。
ピザもポテトも食べ終わり、片付けも済ませた頃。見ていた番組もとっくに終わりを迎え、零次朗も帰り支度をしていた。二人で忘れ物がないかしっかり確認した後、角山は零次朗を玄関まで見送った。
「じゃ、また来るぞということで」
派手なスニーカーの靴紐を固く結び直す。それから、零次朗は腕を軽く広げて立ち上がり、角山の方を向いた。
「ハグするか?」
「しない」
別れる時はいつもこのやりとりをしている。そのルーティンをいつもはやや面倒に感じる角山も、今回ばかりは安心感が勝った。もう一度「また来る」と言って出ていく零次朗に、角山が次こそは連絡をしてから来るように言うと、零次朗は手を振り返すだけだった。
部屋に戻った角山は、急に孤独を感じた。それは、零次朗が帰ってしまったことだけが要因ではない。零次朗はこの世の中をおかしいと思っていないどころか、良いとまで言った。それが、なかなかに角山の心に応えたのだ。同じ違和感を抱える味方に出会わなければ。角山はそう思い、ひとり静かに意気込んだ。
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