第五話「懺悔室」

 記憶から導き出される正夢は、時に自分を正しい方向へと向かわせるでしょう。しかし、その正しさは時に自分を苦しめます。

 

 角山は悪夢を見た。それは、他人からすれば悪夢と呼ぶに至らない内容だったが、角山にとっては、今日という休日を憂鬱で終わらせ兼ねないほどのものだった。悪夢の内容。それは、あの公園のブランコに整理券がないという夢。もちろん、発券機の存在はそこにない。そして、それを角山自身が当然のことだと思っている、そんな夢だった。それがなぜ悪夢なのか。それは、その夢での光景を当たり前だと思った感覚が、目を覚ました後も角山の中から消えなかったからだ。

 じんわりと響く頭痛に苛立ちながら、角山はリビングに移動してテレビをつけた。映し出されたニュース番組では、平等主義を掲げる政治を支持する内容が淡々と流れている。現代は平等政策が続々と進められており、公園の整理券制度もその一つだ。

 角山はテレビを消した。今、角山の心中を占領しているのはこの世の中に対する違和感だ。ニュースの内容は、まさにその違和感を助長させるものでしかなかった。コップに水を注いで飲み干す。それでも、胸の辺りに支える気持ちの悪さは、流れて去ってはくれなかった。

 

 身支度を済ませた角山は、気を紛らわすために散歩に出ることにした。ここ、咲ヶ原さきがはら市は都会と言って差し支えないくらいには発展しており、住みやすい場所だ。背の高い建物も多いが、自然豊かな公園もある。そして、今日は晴れ空と不快さを感じない気温。行き交う人々には、心なしか活気を感じられた。そんな空気感に当てられてか、角山にも多少元気が湧いてきたようだ。一人で静かな家にいた時よりは、ずっと良い表情をしている。

 人の声、足音、車の音……それらを聞いていると、角山はこの世の中が普通に思えてきた。なんの変哲もない、騒がしい街。

 政策を賛美する拡声器を通した音声、大きなモニターに映る新興宗教の布教広告……それらを認識すると、角山の気分は振り出しに戻った。平等政策と新興宗教の乱立、それがこの現代に蔓延っているトレンドなのだ。

 しばらく歩いていると、気づけば角山は通勤ルートを辿っていた。無意識のうちに歩きなれた道を選んでいたのだろう。そこでふと傍を見ると、そこには立派な真新しい教会があった。立て看板には「お話聴きます」と書かれている。角山は、この教会のことは通勤中に視界のはしで見ていたが、この看板は初めて見るものだった。

 角山は悩むふりをした。端から心は決まっていたのだが、悩むふりをすることで自分の中にある自分の体裁を守ったのだ。そうして無意味な時間を数十秒過ごした後に、角山は教会の扉を開けた。

 

 広々とした内部に人の気配はなく、閑散としている。正面を見ればまた立て看板があり、どうやら話を聞いてくれる場所への案内が書かれているようだ。角山は指示に従って進むと、扉がある場所の前まで来ることができた。控えめにノックをする。

「ど、どうぞ」

 少し遅れて声が聞こえると、角山は「失礼します」と言って中へと入っていった。

 こぢんまりとした空間だ。正面にある仕切りのような壁には、小さな肘置き程度の机と、向こう側の見えない小窓があった。小窓の目隠しにはカーテンが使われており、向こう側にいる人物の影を映している。置かれている木製の椅子は随分と年季が入っているようだ。

「い、いらしゃいませ……じゃなくて、ようこそ」

 女性の声だ。僅かに震えていて、緊張していることが伺える。

「どうも」

 椅子に腰掛けた角山は、少し待ってみた。沈黙が流れる。どうやら、向こうから話を進めてくれるわけではなさそうだ。

「初めまして」

「初めまして……」

 とりあえず挨拶を交わす二人。カーテンの向こうの影がゆらりと揺れた。

「お、お話しされたいこと、なんでも、話してくださいね」

 角山は考える。

「まずは、貴女について伺ってもよろしいでしょうか?」

「え、ああ、まあ、そうですよね……」

 女性は考えた。

「えっと、わたしはここの修道女です」

「ああ、そうなんですね。てっきりこういった話を聞くのは司祭の役割だと思っていました」

 カーテンの向こうで修道女は分かりやすく動揺した。その影を見て角山は、正直に言い過ぎたと申し訳なく思った。

「そのぉ」

 椅子の軋む音が鳴る。

「新興宗教なので……」

 また、沈黙が流れた。なんと言っていいのか分からないのは、二人とも同じであった。

「なんでも、話してくださいね」

 弱々しい声だ。すでに不審で頼りなげな印象を修道女に抱いた角山だが、立ち去ろうとはしなかった。

「今日、悪夢を見たんです」

 間を空けて話し始める角山。角山にとって、修道女の態度は話を聞いてくれる相手として許容範囲内だった。むしろ、控えめでちょうどいいとさえ感じていた。修道女は姿勢を正した。

「公園の遊具に、整理券の制度がなく、それを僕が当たり前だと感じている夢です」

「整理券がない……?」

「はい。それが当たり前なんです」

 角山は机の上で組んだ自分の指を見つめる。

「僕の中では、目が覚めた今でも」

「夢の中での感覚が消えない、ということですか?」

「はい。しかも、それだけではないんです」

 組んだ指に力がこもる。溢れ出す言葉を抑え切れない。

「僕は今日、その悪夢を見て、この世の中の違和感に気がついたんです。いや、気がついたというより、知らないふりに限界がきたんです。僕にとって、この世の中は違和感でできています。まるで、」

 角山は一瞬続きの言葉を躊躇った。しかし、ここで言うのをやめようとは微塵も思わなかった。

「まるで、僕だけがまともだと思えてしまうような、そんな世の中なんです」

 指にこめていた力を抜くと、角山の手の甲には爪の痕が残った。話すことにより思い出される苦痛を、角山は歯を食いしばって耐える。今の角山に、修道女からの返答などどうでもよかった。慰められようが、困惑されようが、否定されようが、言いたいことを吐き出せた満足感に勝る感情などないように思えた。

「それは、つらいですよね」

 ところが、その考えは一瞬で覆った。

「孤独な感じもしてしまいそうで……あなたはたくさん耐えて、たくさん頑張ってこられたんですね。すごいことです」

 角山は初めて知った。悩みを他人に相談することで得られる極度の満足感もだが、さらにその悩みを受け入れられ、寄り添いの言葉をかけられる嬉しさを。心のどこかでは、どうせ理解されないと斜に構えていた分、素直な修道女の言葉は響いた。

「貴女は、」

 そこで、角山はどうしても訊きたくなった。

「この世の中をどう思いますか? おかしいとは思いませんか?」

 角山には、この容姿も知らない修道女が誰よりもまともに思えていた。すでに同盟を組んだかのような気持ちにさえなっている。しかし、返答を心待ちにする角山に、修道女は少し黙った後、

「分かりません」

 と、答えた。途端に冷静さを取り戻していく角山に、修道女は迷ったような声色で続ける。

「今は、おかしいですとはっきり言えるくらいの心持ちではなくて、ですね……あ、でも、あなたのその感覚が全く分からないわけでもなくて、そのぉ……」

 曖昧な言葉に対して角山は、小さく落胆しつつ、当然だとも思った。

「困らせるような質問をしてしまい、すみません」

 修道女の影を見据えて視線を落とす。

「い、いえ!」

 慌てる修道女に、また角山の良心が痛んだ。

「わたしは、あなたの味方ですから。いつでもなんでもお話ししてください。この世界でおかしいと分かったこととか、これから、ぜひ教えていただきたいですし」

 早口に一生懸命に話す修道女。これっきりでなく、また、角山にここへ来て欲しいのだろう。

「ありがとうございます」

 角山は嬉しかった。修道女の言葉自体もそうだが、何より純粋な善意を持った良き話し相手が見つかったことが嬉しかった。

「また来ますね」

「はい! 本当、いつでもどうぞ」

 角山が立ち上がって会釈をすると、カーテンの向こうの影も小さく座ったまま会釈を返した。退室しようとドアノブに手をかけた角山だったが、背後から「あの」と声をかけられその手を止めた。

「あなたのお名前を訊いてもいいですか? わたしは、綾子あやこと申します」

 角山は「ああ」と言って振り返る。

「僕は、角山カドヤマ朔壱朗さくいちろうです」

「朔壱朗さん、ですね。引き止めてすみません。では、また」

 手を振る影に、角山はもう一度会釈をして部屋を出た。狭い部屋から出た開放感も相まって、角山の気分はここ最近で最も良い。

 帰り道では、拡声器の声も不愉快な広告も不思議なほど気にならなかった。

 

 日も暮れた頃、いい気分で自宅に到着した角山は、玄関でとある物に気がついて呆れたような顔をした。そこにあったのは、赤と黄色のカラーリングの派手なスニーカーだ。角山のものではない。耳をすませば、リビングの方からテレビの音がしている。

「ただいま」

 角山がリビングの扉を開けてそう言うと、

「おかえり、さく! お疲れぇ」

 ソファに寝転んでくつろぐ、角山の兄がいた。

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