第四話「潔白」
後ろめたいことをしたのならば、いずれ誰かに問い詰められるのが常です。但し、当人に罪の意識がなかった場合、その行動は意味を成さないこともあるでしょう。
面倒。難儀。苛立ち。それらを感じながら角山は今日も診察をしていた。今回の患者は大学三年生の女。「友人嫌悪症」を患っていると言う。鼻を啜りながら話す彼女は、長い横髪を指先でいじっていて、どうも落ち着かない様子だった。
「最近、友達といるのが苦痛で……すぐむかついてみんなに嫌なこと言っちゃうんです。前はこんなことなかったのに」
カルテの上をペンが走る。それを彼女は凝視した。文字が書き込まれていくのを、確かめるように。
「それはおつらいですね。原因に心当たりは?」
角山は優しく寄り添うような声色を心掛けた。しかし、目は口ほどに物を言う。彼女は角山の目つきに怯えた。
「そんな、原因だなんて」
そして、彼女は言い淀んだ。今まで饒舌に自身の苦しみを語り聞かせていたというのに、すっかり弱気に見える。彼女は次に嘘をつく。角山にはそれが分かった。
「昔、人間関係にトラウマ、が……」
「どのくらい昔ですか?」
「あー……五年前?」
自分のことだというのに、彼女は首を傾げて言った。角山が真似をして首を傾げると、彼女はヘラヘラと笑って誤魔化した。とても深刻なトラウマを抱えているようには見えない。それは、彼女にも分かったようで、視線を落としてまた鼻を啜った。複数人の学友がいる、五年前に人間関係にトラウマを抱えた大学三年生。その設定の不自然さに気づかないほど、彼女は愚かではなかった。彼女にとって、息苦しい沈黙が流れる。そして、彼女は何かを言おうとしてやめて、そしてまた短く息を吸った。
「ごめんなさい。原因、あたしにあって——」
「無理に話されなくて結構ですよ」
自分の覚悟をあっさりと切り捨てた目の前の医者に、彼女は口を開けたまま唖然とした。角山はペンを置き、カルテを閉じた。その音が彼女の心を焦らせる。
「その続きを聴くのは僕の仕事ではありませんので」
「なんで? 医者じゃん」
彼女は少し興奮してきたようだ。言葉に棘を持たせて、角山にぶつける。しかし、角山は机の上で緩く手を組んで彼女を見据えた。
「医者だからです。医者の僕は、患者さんの心の病気の診療を行うことが仕事です。人間関係のご相談は僕ではなく、カウンセラーへお願いいたします」
それから、カウンセリングの予約の取り方を淡々と説明し始めた。彼女は黙ってそれを聞く。今はそうする他ないからだ。彼女は急に恥ずかしくなった。自分は大きな勘違いをしていたことを、角山の態度から悟ったからだ。一通り説明が終わり、彼女も内容を理解した後、彼女はソファから立ち上がって角山に礼を告げた。そして、出入り口の扉に手をかけた時、彼女は振り返ってこう言った。
「先生。あたし、友人嫌悪症じゃないなら何なんですか。今、つらいのは本当なんです」
角山は答える。
「自分の心のつらさに、無理に名前をつける必要はないんですよ」
彼女は重たげに数回頷き、だるそうな足取りで診察室から出ていった。
患者の流れが途切れた頃、なんの前触れもなく連絡通路側の扉が開かれた。扉から現れたのは、青空色の瞳を輝かせる千崎だ。勢いよく入室し、角山と目が合うなり「センセ」と言ってじゃれつこうとしたが、そこでハッとしたような顔をした。くるりと回れ右をして、扉の向こうへ戻っていく。扉を閉めて姿を隠してしまうと、すぐにコン、と扉を叩く音がした。その直後、ガチャリと扉が開かれた。
「スミマセッ、ノック忘れてました!」
「律儀だね」
そこで、時刻を確認した角山は、千崎のここへ来た目的を察した。
「センセ、お昼食べたら公園行ってブランコ乗りましょ!」
子供のようにはしゃぎ、子供のようなことを言う千崎を、角山は柔く笑んで受け入れた。今までの交流から、返答に悩んだとて、最終的に自分が千崎の誘いを受けることが分かっているのだ。それに、角山にとって、自分の返答で喜ぶ千崎を見られるのは悪い気がしなかった。
「あ、そういえば」
ここで千崎はポケットに手を入れて何かを取り出した。
「これ、センセにあげます!」
角山の目の前に差し出されたそれは、どうやら防犯ブザーのようだ。
「センセにはいつでもどこでも無事でいて欲しいんで!」
先日の胃炭の件もあり、千崎のまっすぐな気持ちは、角山に突き刺さらんばかりに伝わっている。しかし、角山は受け取ることを躊躇った。パステルパープルのそれは、見るからに女児向けのデザインなのだ。本体はハート型、ひもの先にはリボン型の小さなチャームがついている。防犯ブザー、千崎、防犯ブザーの順に視線を向けた角山は、慎重に言葉を選びながらやっとそれを手に取った。
「ありがとう、センザキくん。ところで、このデザインを選んだ理由ってあったりするのかな」
「なんとなく、センセっぽかったんで。色とか!」
色だけだろうな。と、角山は思った。色だけであってほしいな。とも、思った。千崎はなぜか得意げだ。
「あとそれ、スマホを接続することができて、接続すると鳴らした時にそのスマホに通知がいくんですよ!」
そう言って千崎は、わざわざ自分のスマホを取り出して見せると、なにやら操作をしてあっという間に防犯ブザーと接続した。ブザーから接続完了を知らせるマジカルな効果音が鳴る。
「もうできたんだね。解除はどうするんだい?」
「それも簡単にできますよ!」
次はどんな操作をするのか、角山は千崎の手元に注目した。しかし、千崎は動こうとしないし、手順の説明をしようともしない。
「解除しないのかい?」
「しません! これで準備花まるオッケーなんで」
このままではブザーを鳴らした時には、千崎へ通知が行ってしまう。思わず角山は、それは友人として過保護ではないかと言いかけたが、やはり先日の胃炭の件のこともあり、助けてもらった身としてうまく拒絶できなかった。
「じゃ、また後で!」
それから、千崎は大きく手を振って扉の向こうへ戻って行った。千崎の姿が見えなくなるまで小さく手を振り返していた角山はその後、握っていた防犯ブザーを鞄のポケットへ、やけに慎重にしまった。
規則的に響く、錆びついた金属の擦れる甲高い音。と、もう一つ不規則に鳴る同様の音があった。ブランコの上に立ち、風を浴びてはしゃぐ千崎の隣で、角山は砂を蹴散らしながらジタバタしている。
「センセ、壊滅的ですね!」
「何がとは訊かないでおくよ」
漕いでいるつもりをやめた角山は、砂埃に塗れた自分の靴を見て、小さく後悔をした。そこでふと、角山は近頃抱えていた疑問を思い出した。
「そういえば、センザキくんはあの時どうして鎮静剤なんてものを都合よく持っていたんだい?」
「あのとき……ああ」
千崎は漕ぐのをやめて地面へ足を下ろすと、揺れるブランコを止めて角山の方を見やった。
「幸福剤のためです!」
「幸福剤……? それってもしかして、前にセンザキくんが作っていると言っていたお薬のことかい?」
千崎は元気に頷く。
「名前、変えたんだね」
「はい! こっちの方がハッピー感強めですし、何より、抗うつ剤[#「抗うつ剤」に傍点]と響きが似てていい感じなんで変えました!」
角山は千崎の理由を完全には理解し切れなかったが、前の名前である『魔薬』のような危うい印象のない点においては概ね肯定的に思った。千崎は続ける。
「で、鎮静剤は院長の許可を得てもらったやつですね。おかげで幸福剤製作順調に進んでます!」
明るい表情をする千崎に、角山はうまく笑えなかった。心に引っかかる感覚が拭えないのだ。
「違法性はないのかい?」
堪らずそう訊けば、千崎は表情を変えることなく答える。
「分かりません!」
角山の心がもう一段階追い詰められた。
「でも、センセ以外には内緒ですね!」
さらに角山の心は縮み上がった。これ以上の会話を恐れるほどに。だが、ここで知るのをやめられるほど、角山の中にある疑問の存在感は希薄ではなかった。
「その作ってるお薬は、危なくはないのかな?」
「試作品は今のところ、中毒性が問題ですね!」
「それってやっぱり麻薬——」
言いかけた角山の言葉は、突如感じた気配に遮られた。
「白昼堂々、薬物の話とは遺憾だな」
そこに居たのは、ひとりの警官だった。制帽から覗く紺色の瞳は、角山と千崎を鋭く睨みつけている。
「こんちゃ!」
「黙れ」
千崎はゆっくりと口を閉じた。高い身長と放つ威圧感から分かりにくいが、声から女性だと分かる。後ろに一つに束ねられた短い緑髪は、トゲトゲしくはねていた。
暖かな日差しに当てられているというのに、角山は震えてしまいそうだった。警官に気圧されているというのもあるが、何よりも今まさに自分にとってまずいレッテルが貼られようとしていることを恐れたのだ。
「薬物の話ではありましたが、」
そこで角山は、弁明の一歩を踏み出した。警官は角山に視線という名のナイフを一点集中で向ける。
「違法だと確定しているものの話はしていません」
角山は強気に振る舞った。警官に対し、貴方の疑いは間違いだと知らしめるかのような口ぶりだ。
「麻薬という単語をはっきりと聞いたのだが?」
しかし、警官は一切動じることはない。それは、角山も同じであった。
「確かに言いました。ですが、それは『彼の話を聞く限り麻薬のように思えてしまう』という意味で言いかけた推測の言葉であって、実際に麻薬のような違法薬物であることの裏付けとなる発言ではありませんよ」
警官は顔を顰めた。千崎は数回頷いた。睨み合いのような時間がしばし流れた後、警官は舌打ちをした。
「まあいい。疑わしきは罰せずだ。だが、人がいないとはいえ、公共の場で昼間からあまり健全でない発言をしたことは反省しろ。深く。心からだ。いいな」
多少厳しすぎる態度をとる警官だが、節度はそれなりに持ち合わせているらしい。角山の返事は千崎の大きな「あい!」という返事にかき消された。
「それとだ、お前ら、そのブランコに乗るための整理券はきちんと——」
その時、愉快なアラーム音が発券機から流れた。続いて「一番ト、二番ノ、コハ、ブランコヲオリテ、交代シテアゲテネ!」と、切って貼ったような発音の音声を発した。
「取っているようだな」
制帽を直しながら言う警官は、どことなくつまらなそうだ。千崎は警官の前を横切り、発券機の返却口に整理券を二枚返した。遅れて角山も立ち上がり、その場を離れる。職場に戻る頃合いだ。角山は警官にどう別れを告げようか迷っていると、警官は角山を見据えて言った。
「今は平等の世の中だ」
角山は知っていると思うと同時に、新しい言葉を聞いたかのような感覚も得た。
「遊具を使用することに関して咎めはしないが、優先順位は弁えろよ」
「もちろん。子どもを押し退けてまで陣取るような真似はしませんよ」
それから、警官は止めていた自転車に跨がり、角山と千崎を一瞥してから走り去った。
第二診察室。角山は書類のまとめ作業に取り掛かっていた。傍らには千崎もいる。昼休憩が終わるまで後少しだ。紙の音と、少しの話し声。千崎は作業の邪魔をしないように、会話を控えめにしていた。
「これは、純粋な疑問なんだけど」
角山は書類のファイリングをしながら言う。
「センザキくんは、どうしてそんなに僕を構うんだい?」
角山は思い返していた。千崎は角山と院内で会えば必ず短くとも会話をするし、朝はわざわざ会いに来て挨拶をする。昼休憩になれば公園に誘うことも最近はもう珍しくない。そもそも、友人関係になったのも千崎から話しかけられたことがきっかけである。角山は、元よりこちらから千崎と関わったことがほとんどない自分に、ここまで千崎が構うことを不思議に感じていたのだ。
千崎は角山の疑問に口を閉じて「んー」と声を出して考えている。そして、何やら思いついたような顔をした。
「幸せにしたいからです」
「幸せに? 僕を?」
予想外の答えに角山は思わず手を止めた。
「はい」
千崎はどこか嬉しそうで、楽しそうで、まるで宝を見つけた子供のような表情だ。
「俺、薬に漬けてでも、センセを幸せにします!」
いつも通りの突飛な発言。しかし、角山に湧いた感情は、驚きでも呆れでもなかった。
「それは随分……頼もしいものだね」
そう角山が言うと、千崎は満面の笑みで返した。
「千崎……ッ」
その場を覗く女が一人。胃炭だ。
「ほんっと、お邪魔ですわね」
などと、恨みや妬みをぶつぶつと口にしている。親しげに話す二人。胃炭は見つめる。愛しい角山と妬ましい千崎。そして、その二人を陰から見ては心に黒い感情を積もらせる自分。
「こうしていると、どうして懐かしい気持ちになるのかしら」
胃炭はそう呟いたことに、自分でも気づかなかった。
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