第三話「色欲」

 抑えきれないのは愛ではなく、欲望でした。一度解放したならば、こんなに大きな欲を今までどうやって抑えていたのか分からなくなるものです。

 

 病院へ戻ってから千崎センザキと別れた角山カドヤマは、待合室の隅っこで花形のメモを見返していた。書かれている時間まで後少しある。いい頃合いになるまで診察室で資料の整理でもしようか。そんなことを考えていると、角山はふと、甘い香りを感じた。

「角山センセイ」

 直後、声をかけられ角山は顔を上げる。すると、すぐ目の前に一人の女が立っていた。角山はその近さに思わず後ずさりをする。ピンクブロンドのショートボブに桃色の瞳をした美人。かけている名札には「胃炭」と書かれている。イスミ。彼女が角山と話がしたいと申し出たカウンセラーのようだ。

「驚かせてしまってごめんなさい。ちょうどお見かけしたもので、つい」

 申し訳なさそうに言う胃炭。未だびっくりの最中にいた角山は「ああ、いえ、」と言葉をつかえさせた。

「お気になさらず」

 それから、あまり深く考えずにそう言うと、胃炭は安心したように表情を和らげた。慇懃で品のある女性。角山は胃炭の振る舞いからそういった印象を受けた。こうして対面していても、角山の彼女に対する記憶にかかったもやは晴れていない。今まで会話をしたことがあったのか、なかったのかさえよく分からないが、胃炭の方は角山のことを多少知っているかのような態度だった。

「カウンセリング、急なお誘いにもかかわらず、受けることにしてくださってありがとうございます。勝手ながら、センセイの様子が気になっていて……」

 胃炭は角山を物思わしげに見つめる。彼女とは初対面のような気分の角山は、曖昧な反応を返すことしかできなかった。

「部屋の準備はできていますし、もしよろしければ、今からお話ししませんか? 少し早いですが、その分ゆっくりできるでしょうし」

 断る理由が特に思い浮かばなかった角山は、是非お願いしたいと頷いた。その返答を聞き届けた胃炭は角山の隣へまわる。そこで角山はまた甘い香りを感じた。確かに嗅ぎ覚えのある香り。しかし、何の香りなのかを思い出せない。記憶の棚を探りかけたその時、胃炭は部屋まで案内すると言って角山の腕を引いた。それほど身長差のない二人は、歩幅に気を遣うことなく歩いていく。角山は背後から胃炭を見ていて、先ほどまでの彼女と今の彼女とはどこか纏う空気が違って見えた。今は強引で急いているような、そんな雰囲気だ。カウンセリングルームの前まで来ると、胃炭は扉を開けて、角山に入るよう促した。角山は胃炭に会釈をして中へと足を踏み入れる。机、椅子、ソファ。最低限の家具と広すぎず、決して窮屈ではないくらいの空間。全体的に質素で落ち着きのある室内を見渡した角山の背後で、突如ガチャリと音がした。

 不審に思った角山が振り向くと、出入り口の方を向いていた胃炭もゆっくりと振り向いた。扉をよく見ると、どうやら内鍵を閉めたようだ。何のために? 訝しむ角山だが、胃炭の意図が一向に分からず、居心地の悪さを感じるばかり。胃炭はというと、何もおかしなことはなかったかのように微笑んでいる。

「胃炭さん……?」

 異様さを感じ取った角山が呼びかけても、胃炭は機嫌良さげにしているだけ。何か他のことで頭がいっぱいになっているような、そんな様子だ。

「なんでしょう」

 かと思いきや、遅れて返事をした。

「鍵はいつも閉められるのですか」

 極力、不快感を与えないよう努めながら角山は尋ねる。

「いいえ、今回だけです」

「なぜ」

 角山の声はもう不信感を隠せていない。しかし、胃炭は不快になるどころか、昂った様子で答えた。

「邪魔が入ってはいけませんので」

 そして、胃炭は歩き出した。規則的なリズムで迫り来る足音。角山は逃げるように後ろ歩きで距離をとる。途中、ソファにぶつかって尻餅をついたが、体は柔らかな素材に受け止められた。立ち上がる間も無く、ヒールの音が止む。見上げた角山の視界には、満ち足りた表情の胃炭がいた。何か言おう。そう思う角山だが、うまく言葉がまとまらず、口からこぼせたのは「あの」という何でもない言葉だけ。対する胃炭は、荒くなりかけている呼吸を落ち着かせながら角山の肩に手をかけた。

「え」

 そのままソファに角山の上体を沈めながら、胃炭は角山を跨ぐようにしてソファの上に膝立ちで乗る。角山は慌てて体を起こそうとするが、胃炭はそれを許さない。体重をかけて角山の両肩を押さえて見下ろしている。角山は今度は胃炭の腕を掴んで引き離そうとした。すると、一旦肩から手は離れたものの、素早い動きで掴んでいた手を振り解かれた。手の攻防が続き、一瞬の隙をついて胃炭が角山の一方の手首を掴む。そして、すぐにもう一方の手首も捕まった。あっという間に角山の自由だった両手は、今や頭上で一纏めにして押さえつけられている。

「いったい、どういうおつもりですか」

 角山が精一杯怒気を含んだ声でそう問うと、胃炭は興奮を隠せない様子で小さく笑い声を漏らした。

「この時を待っていましたのよ」

 話が通じそうにない。胃炭は角山の上に腰を下ろし、空いている片手で角山のネクタイを解きにかかった。腹部から感じる人肌のぬるさ。角山の中に嫌悪感が湧いた。距離が近くなることで甘い香りが濃くなる。ここで角山は、この香りが桃であることを思い出した。記憶のもやが一つ晴れたものの、そんなことを思い出したところで今は何の役にも立たない。せめて手を自由にしようと暴れる角山に、胃炭は煩わしさを感じる様子もなく、解いたネクタイで角山の手首を縛った。

「お、大声を出しますよ」

「その時はお口を塞いであげますわ」

 脅しのカウンターをくらって黙る角山。シャツのボタンを少し外されて首から鎖骨のあたりを撫でられると、角山は小さく震えて嫌がった。

「センセイ、こちらを向いてくださいな」

 顔を近づけて囁く胃炭から、角山は可能な限り外方を向いて拒む。素肌を撫でられると、そこから嫌な感覚が込み上げてきて絶望を感じた。それから、関係あることないこと、手当たり次第に後悔をした。助けてほしい。その言葉と同時に思い浮かべたのは、唯一の友人の姿だった。

「タスケテセンザキクン……」

 絞り出したような小さな声。本人に届けというより、神頼みに近い。なんでもいいから助けてほしい。でも、できればセンザキくんがいい。そんな思いから発せられたが、到底都合の良いことなんて起こりはしないと角山は半ば諦めていた。しかし、そこで胃炭の動きが止まった。ついでに扉の開く音がした。ノックなしに。

「イスミセンセ、ハザマセンセからえ、何してるんですか?」

 千崎だ。現れたのは連絡通路側の扉からだった。静まり返った室内、胃炭の舌打ちがよく聞こえた。

「センザキくん」

「千崎……」

 角山は縋り付くような声で、胃炭は憎悪の籠もった唸るような声で名前を呼んだ。二人をじっくりと見ながら、千崎は後ろ手で扉を閉める。状況が理解できていないのか、すぐに助けに入る様子はない。それならばと、角山は口を開いた。

「センザキくん、たすけて」

 よく聞こえるようにはっきりと。千崎はその言葉を聞いてから、ようやく合点がいったような顔をした。小走りで駆け寄り、二人の間に割って入る。それから、反抗する胃炭をものともせず抱え上げ、角山の上から遠ざけて床に下ろした。千崎は続けて角山の手を自由にしようとしたが、後ろから胃炭が腕を掴んだり引っ張ったりしてそれを邪魔する。振り返って相手にしつつ、固く結ばれたネクタイを解こうとするが、うまく作業が進まない。しばらくそれが続くと、千崎は「うーん」と言って手を止めてしまった。立ち上がる千崎。何も言わずに胃炭に近寄った。

「大人しくできないんですか?」

 いつも通りの千崎の声。怒りや威圧は含まれていない。しかし、それがかえって千崎の得体の知れなさを助長していて、胃炭は軽く恐怖した。

「大人しくなんてしませんわ」

 それでも、胃炭は引き下がらない。

「もう、この気持ちを抑えることなんてできませんもの」

 胃炭が千崎を睨み、千崎が胃炭を見つめている。敵意を剥き出しにしている胃炭とは違い、千崎は一定して穏やかな空気を醸し出していた。そこで一瞬、千崎の瞳が下を見た。それを胃炭は見逃さなかった。胃炭は角山へ飛びつかんばかりの勢いで駆け出した。狭い室内。数歩で辿り着ける距離。あと数センチで届く指先。しかし、その手は何にも触れることはなかった。がくんと胃炭の視界が揺れて、角山から遠のく。喉元が締まる感覚がした。千崎が胃炭の後襟を掴んで引っ張ったのだ。反動で胃炭の首が後ろに倒れる。喉元が曝け出されると、千崎は胃炭の顎に手を回して固定した。

「失礼します!」

 そして首に突き刺した。いつの間にか手にしていた注射器を。それから、悲鳴をあげる間も無く、脱力して体勢を崩した胃炭を丁寧に床に寝かせた。流れるような一連の動作に、角山が言葉を挟む隙はなかった。汗を拭うような仕草をしながら千崎は言う。

「はぁ、ドキドキした!」

「本当かい……?」

 千崎は注射器をしまって角山の前にしゃがみ、あっさりと手首のネクタイを解いた。

「ありがとう。ところで、さっきのは……」

「鎮静剤です。ちょっといじってますけど、大丈夫なやつです。たぶん!」

 急激に不安になった角山は、シャツのボタンを留めながら胃炭を見た。目を瞑って、床に倒れたまま静かにしている。眠っているかのような呼吸をしていた。

「とりあえず、看護師さん呼んできますね!」

 元気よく部屋から出ていく千崎。角山は少しぼうっとしてから身なりを整えた。どことなく気掛かりなために、出入り口の内鍵も開けた。胃炭はまだ動く気配はない。角山は安心と不安が共存する妙な気分だった。

 千崎が看護師を連れて戻ってくると、事はさっさと進んでいった。まず、看護師と千崎が協力して胃炭をソファに寝かせる。次に、声をかけて反応を見る。胃炭はうなって薄く目を開けた。まだ意識がぼんやりとしているようで起き上がる様子はない。看護師がここは任せるようにと言ったので、二人は部屋を出ることにした。その時に千崎は何か思い出したようで、メモに走り書きをしてそれを机の上に置いてから出た。

 廊下を歩きながら、看護師を呼ぶときにどう説明をしたのかと角山が訊くと、千崎は用事があって部屋へ行った時に、ちょうど胃炭が倒れたと言ったと説明した。角山は続けて、胃炭への用事は大丈夫だったのかと訊くと、言伝を頼まれていたが内容をメモして置いてきたから問題はないはずだと答えた。昼休憩の時間も終わり、すっかり院内は忙しない音がしている。

「じゃ、俺はお仕事タイム続行してきますね!」

「ああ、頑張って」

 千崎が行ってしまうと、角山は急に疲れを感じた。心も体もすっかり草臥れていて、無性に一人になりたくなった。それは今日、酷い目に遭ったからというのは一因に過ぎない。角山は近頃相手にしたどの人間に対してもおかしさを感じている。それが小さなストレスとなり、心に蓄積しているのだ。自分もきっとどこかおかしい。角山はそう思わずにはいられなかった。

 第二診察室へ戻った角山は、机の上に出したままのファイルを開いた。そこには、これから角山が向き合うべき数種類の名前が載っている。見ているだけで湧き上がる様々な負の感情。角山はそれらを大事にしようと思った。この感情こそが、自分がまだ正気だと言える証なのだから。

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