第二話「魔薬」

 掛け替えのないものに対しては誰もが妄信的になりがちです。失う理由を見て見ぬふりをして、その事物との関係を続ける。しかし、それで当人らが満足ならば、それは幸せな関係と呼べるでしょう。

 

 かけられる数々の賞賛の言葉。両手で手渡される輝かしい紙切れ。重厚感のある家具に囲まれた一室で行われているのは、とある表彰だった。賞状を贈っているのはここ、咲ヶ原さきがはら市の市長である岸島キシジマであり、受け取っているのは上手に笑顔を浮かべている角山カドヤマだ。角山は先日の大錯乱以来、元凶である忌々しき懐古恐怖症と向き合い続けた。そして、次々に患者の心を苛む本当の原因を突き止め、懐古恐怖症という名前から遠ざけていった。そうしていくうちに、数ヶ月もかからず懐古恐怖症という病名は姿を消していき、現在、撲滅に成功したのだ。今日の表彰はその功労を讃えるものらしい。それから、当たり障りのない言葉を交わして写真を撮り、数十分程度でその細やかな式典は終了した。

 

 その後、角山は勤め先である病院へと向かっていた。あれから院長より直接連絡があり、部屋へ来るように言われたのだ。日差しが強く暑い屋外から院内へ入ると、真っ先に涼しい風が角山を出迎えた。長い廊下を真っ直ぐ進み、先にある扉をノックする。入るように言われた角山は、やけに重々しい扉を開いて中へと進んだ。

「やあ、こんにちは。角山君」

 入るなりこの病院の長である窓岐マドキ正和まさかずは、口元の白い髭をもさもさと揺らしながら笑顔で角山を迎えた。両手まで振って、院長室という場の緊張感を自身の存在感で打ち消している。

「こんにちは」

 角山が薄く笑みを浮かべて挨拶を返すと、窓岐はソファに座るよう促した。角山は「失礼します」と言って腰掛ける。窓岐も角山の正面にあるソファにふかふかと腰を下ろし、丸眼鏡を短い指で押し上げた。

「来てくれてありがとう。簡潔に言うとね、角山君が担当していた病気がなくなったでしょう? だから次に担当してもらうものについて今から託そうと思ってね」

 それから、少し待つように言って窓岐は自分のデスクの上から一冊のファイルを持ってきた。上部に貼り付けていた付箋を剥がし、角山へ手渡す。中身の枚数が多いのだろう。そのファイルはそこそこの重さを角山に感じさせた。角山には忌避感が湧いている。この表紙を捲ることに。同時に期待も湧いている。もしかしたら、まともな内容があるかもしれない。葛藤は短く、すぐに手は動いた。そして落胆した。ページを捲っても捲っても見たことも聞いたこともない病名と、病と呼ぶにはちっぽけなその概要ばかりが現れたからだ。おまけにそのどれもが、専門的な機関とは無関係のSNSやらアンケート調査やらが発端となって広まっているようだった。俯き険しい表情をする角山。

「全く、歳を取ると流行に疎くていけませんね」

 さらにはそう、皮肉をこぼすと窓岐は苦笑いで濁した。

「まあ、今は増え続ける時代みたいだからね。ぼくらが減らせるように頑張らないと」

「減らすと言うより、正すという感覚に近いですがね」

 窓岐は再度、苦笑する。

「まあ、ね。どんな患者さんも不安を抱えているだろうから、少しでもよくなるようにね。できたらいいよ、ね」

 それから、窓岐は室内に置いてある小型の冷蔵庫の中から、チョコ菓子の入った袋を取り出した。中からいくつか掴み取ると、それを角山の右手に握らせ、満足げに頷く。協働の意思を疎通したつもりのようだが、その行動は角山にも苦笑をさせただけに終わった。角山の右手の中では、光沢のある包み紙が指の間できらりと光っている。その様子に角山は僅かな苛立ちを覚えた。角山は受け取ったチョコたちを鞄にしまう。そうして立ち上がった時に、ちょうど窓岐は「ああ、それから」と、冷蔵庫を閉じながら振り返った。

「角山君、午後にカウンセリングを受けてもらえないかな。イスミ君がどうしても君の様子が気がかりで、お話しがしたいって言ってたんだよ」

 イスミ。角山はその名前を聞いた瞬間に記憶にもやがかかったような感覚がした。聞く限り、カウンセラーだということは察せられる。今まで関わったことがあるだろうに、なぜかはっきりと容姿や人柄が出てこない。それに違和感を感じつつも、角山はカウンセリングを受けることを了承した。角山には最近、疲れている自覚もあり、何より気にかけてくれる話し相手は今の自分にとって何よりも欲しいものだった。

「じゃあ、これ、渡しておくね。イスミ君にも伝えておくよ」

 そう言って、窓岐は角山に一枚の花形のメモ用紙を手渡した。そこには時間と場所、そして「お待ちしております」と書かれている。上品で綺麗な字だ。一見すると女性らしい字だと角山は感じたが、確信には至らず、メモを丁寧に折ってポケットへ入れた。

 窓岐からの用件は以上のようで、また励ましの言葉をいくらかかけられて角山は院長室を後にした。ひとまず第二診察室へ向かい、荷物を置く。そして受け取ったファイルをもう一度開いて目を通した。そうしているうちに、そもそも病気の種類ごとに医者を分けるということ自体にも角山は違和感を感じ始めた。初めて来院した患者は受付で渡される問診票の回答から簡易的に診断し、振り分けている。しかし、現代は病気とされるものが増え続けているというのに、それは可能なのだろうか。しかも、患者の多様性も広がり続ける一方だというのに。ファイルの中の文字を見つめる角山だが、頭の中はこの世の中への不信感でいっぱいだった。信用できる人が欲しい。そんなことも考えた。そんな時だった。

「こんちゃ!」

 突然の大きな声に角山は体を跳ねさせて驚いた。振り返ると、連絡通路側の扉を開けて、黄髪碧眼の若い男が人懐こい笑顔で覗き込んでいる。

「ノックをしようね、センザキくん」

「あい!」

 そんな彼を見て、角山は特に苛立った様子もなく微笑んだ。元気な彼は千崎センザキ日幸ひさち。この病院で働く薬剤師だ。角山とはここ最近で友人関係となり、それ以来よく会話をしている。突飛な発言が多いが、いつでもニコニコ幸せそうで、おひさまのような人間だ。

「センセ、お昼食べたら一緒に公園行きませんか!」

 長身の彼は、座っている角山の目線に合わせるように屈んで言った。千崎の声量に相手との距離など関係ない。

「公園に行って、何をするんだい?」

 千崎の大きな瞳に若干気圧されながら聞く角山。

「ブランコに乗ります!」

 体を起こし、両手を広げて答える千崎。その表情はキラキラと輝いている。彼は本気でブランコを角山と一緒に楽しみたい。そう思っているのだ。角山は考えた。いや、考えようとした。しかし、千崎の笑顔があまりにもピュアで眩しく、落ち着いて思考できない。千崎日幸、二十五歳。角山朔壱朗、三十二歳。角山の脳裏によぎる年齢。そこで千崎の「楽しいですよ。きっと!」という言葉の追い討ち。

「分かった。行こうじゃないか」

 こうなっては断るより受け入れる方が楽だ。第二診察室からは「やったぁ!」と大きな喜びの声が聞こえた。

 

 

 昼食を済ませて落ち合い、病院を出発した二人は徒歩五分程度で公園に着いた。それほど広くなく、雑草の類がそれなりに目立つ敷地内には、子供も大人も一人もいない。遊具は滑り台とブランコ、そして砂場がある。全ての遊具のそばに整理券の発券機が設置されていた。なんの変哲もない、寂れた公園。しかし、人生であまり公園という場所に訪れてこなかった角山にとっては、特別な空間だった。

「センセ!」

 いつの間にか隣からいないくなっていた千崎に呼ばれ、角山はブランコの方へ向かう。千崎は既に発行した整理券を二枚手にして高らかに振っていた。

 錆びついたブランコは甲高い音を鳴らしながら揺れる。上手に立って漕いでいる千崎が、ただ座っているだけの角山の横で風を起こしていた。二人の位置から見える発券機の裏面には、残り10分と表示されたモニターが付いている。

「センセは今やりたいこととか、好きなことってあるんですか?」

「特にはないよ」

 角山は近くなったり遠くなったりする千崎を眺めようとしたが、ちょうど千崎の背後にある太陽が眩しくて思わず目を逸らした。

「センザキくんは、何かあるのかい?」

 それでも、瞬きでその眩しさを誤魔化しながら千崎の方を見る。会話をする時、相手の顔を見ながら話そうとするのが角山の性分であった。

「ありますよ、聞いてくれるんですか!」

「もちろん」

 よく聞こえる千崎の明るい声に、角山は寂れた公園に新たな良さを感じた。何気ない話をするこの時間が、角山にここ数日で最も上質な心地よさをもたらしている。まともな会話をしているという感覚が、大きな安心感を生み出しているのだ。

「俺、薬作りたいんです! 個人的に!」

 角山の安らいでいた心が即座に叩き起こされる。詳しく尋ねる前に、千崎は続けた。

「飲むと幸せになれる魔法の薬、略して魔薬まやくを作ろうと思ってるんです!」

 漕ぐのをやめて地面を蹴り、揺れるのをやめた千崎と、呆然とした角山の視線がまっすぐにかち合う。咄嗟に角山の口から出かける批判の言葉。しかし、それは視界の真ん中にある千崎のあまりにも純粋な笑顔に堰き止められた。

「素晴らしい。×《バツ》も4、2とくれば0《マル》となるからね」

 代わりに出たのは肯定的な言葉。皮肉的なニュアンスは含んでいたが、角山にとっては微々たるもので、千崎に至っては感じ取っていなかった。角山は考えることを放棄した。今はただ、千崎との幸福な時間を大切にすることを選んだのだ。千崎は笑う。角山も笑った。大の大人二人が、真昼間に公園のブランコに座ってひたすら笑うその様子は異様だった。自転車で通りがかった警官が、止まって二人に鋭い視線を送る。気づいた角山の笑い声が小さくなっていく。それでも笑い続ける千崎を見て、角山は救われたような気持ちだった。

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