ナポレオンフィッシュと眼鏡の君

平井敦史

第1話

注! 現在でも京都水族館でナポレオンフィッシュが飼育されているかは未確認です。


-----------------------------------------------------------------------


「ナポレオンフィッシュ、お好きなんですか?」


 声を掛けてから、しまったと思った。これじゃあナンパ以外の何ものでもないじゃないか。

 その女性ひとは少し驚いた様子だったけれど、僕の方を見て、言った。


「ええ。何だか愛嬌があるでしょう?」


 そう言って微笑んだその眼鏡の女の人は、とても美しかった。

 何だか少し憂いを帯びた雰囲気の眼鏡美人が、一人でじっと水槽を見つめている姿が気になって、思わず声を掛けてしまったのだ。

 くれぐれも、普段からこんなことをしているとは思わないでほしい。


「すみません、不躾ぶしつけで。どうぞごゆっくり」


 僕はそそくさとその場を離れようとしたのだが、そんな僕を彼女は呼び止めた。


「あの、よかったら一緒に観て回りませんか?」


 え、嘘でしょ? そんな夢みたいな展開本当にあるの?


「いいんですか?」


「ええ。ちょっと人恋しかったものですから」


 マジか。ああ、いやいや。過度の期待は禁物だ。それに第一、相手は今ったばかりの女性ひとだぞ。

 そう思いながらも、やっぱり綺麗な女の人と一緒に観て回れるというのは素直に嬉しかった。


 観て回る、と言いつつ大水槽の前から離れようとしない彼女の隣で、僕も巨体を揺らしながらのんびりと泳ぐナポレオンフィッシュを眺めていた。


「和名は『メガネモチノウオ』って言うんですよ」


 僕が蘊蓄うんちくを垂れると、彼女は小さく頷いて、


「聞いたことあります。確か、眼のところの黒い筋が眼鏡を掛けているように見えるから、でしたっけ」


「ええ。よくご存じですね」


 頭の良さそうな女性ひとだしな。それくらいの知識はあってもおかしくはないだろうけど。

 僕はと言えば、小さい頃から魚が好きで、無駄な知識ばかりやたらと蓄えている。


「『ナポレオンフィッシュ』という名前の由来は、成魚せいぎょの出っ張ったひたいがナポレオンの帽子みたいだからです。普通ナポレオンフィッシュと言われて想像するような個体は、全部オスなんですよ」


「そうなんですね。メスは見た目が違っているんですか?」


 オスメスの見た目が全く違う動物というのは少なくないが、ナポレオンフィッシュの場合はちょっと事情が異なる。


「ナポレオンフィッシュは、生まれた時は皆メスなんです。その中から、より大きく成長した個体が性転換してオスになるんです。そして、縄張りを独占して多くのメスたちとの間で子孫を残します。こういうのを雌性しせい先熟せんじゅくと言って、魚の中には多く見られる生態なんですよ」


「へえ、途中で性が変わっちゃうんですか」


「ええ。逆にオスからメスへと変わるのもいて、雄性ゆうせい先熟せんじゅくと言うんですが、クマノミなんかはこのパターンですね」


「なるほど。お詳しいんですね。水族館にはよく来られるんですか?」


「ええ。実家がここの近くなものですから」


 ここ、京都きょうと水族館すいぞくかんは京都駅の近くにある。

 子供の頃、当時オープンしたばかりのここに連れて来てもらい、それから何度も通ったものだ。両親と、妹と……。

 いかん、ちょっと気持ちが落ち込んできた。


「あ、地元の方なんですか」


 そういう彼女は、遠方から来ているのだろうか。

 そもそも、お互いにまだ名乗り合ってもいない。個人情報を聞き出そうとしていると思われても困るので、あえてそこには触れなかったのだけれど。


「ええ。京都市内、と言っても外れの田舎の方ですけど。今は東京で大学生をしています」


「そうなんですね。私も大学は東京で、そのままあちらで就職したんですよ。出身は香川県の田舎ですけれど」


 あ、やっぱり社会人なんだ。大人びた雰囲気の美人さんで、二十代半ばくらいかなと見当を付けながらも、もしかしたら僕と変わらないくらいの可能性も、なんて思っていたのだけれど――。

 もしかして、僕に対してあまり警戒心を持っていないのは、まだガキだと思われているからなんだろうか?


「私は大西おおにし美由紀みゆきと言います。お名前を伺っても?」


「みゆき」さんか。素敵な名前だな。

 彼女から名乗ってくれたのなら、僕も名乗らない理由は無い。


泉川いずみかわ湧作ゆうさくです」


「そう……。「いずみかわ」さんと仰るんですか……」


 彼女の顔が少し曇ったように見えた。僕の名前から誰かのことを連想したのだろうか。もしかして失恋? いやいや、ベタ過ぎるな。


 美由紀さんは、落ち着いたトーンのグレージュに染めた髪に、ブラウンのフレームでやや丸みを帯びたデザインの眼鏡を掛け、ベージュのジャケットに淡いピンクのブラウス、クリーム色のスラックスといういでたちだ。

 やや面長な顔立ちはかなりの美人さんで、こんな素敵な女性ひとの顔を曇らせるようなろくでもない男がいたとは思いたくない。


「そろそろ、他のところも観て回りましょうか」


 そう言って大水槽の前を離れ歩き出した美由紀さんについて行く。

 二階に続く階段を上りながら、ふと美由紀さんが呟いた。


「ナポレオンフィッシュみたいに、メスの中からオスに性転換する、っていうような生態だったら、恋に悩むことも無いのかしらね」


 あ、やっぱり何か恋の悩みを抱えているのか。

 しかも、今逢ったばかりの男相手に吐露とろするとか、かなり重症なんじゃないか?

 いや、行きずりの相手だからこそ正直な気持ちが言えるのだろうか。


「もし人間がそういう生態だったとしても、心というものがある限り、悩みは尽きないんじゃないかと思いますよ」


「……そうかも知れませんね」


「あの……。逢ったばかりの人にこんな話をするのもどうかとは思うんですけど。実は僕、小さい頃に両親が再婚して、一つ下の血の繋がらない妹が出来たんです」


「まあ、そうなんですか」


「ラブコメとかなら、義理の妹と結ばれたりする展開なんでしょうけどね。高校に入って間もない頃、仲良くなった友達を家に連れて来たら、いつの間にかそいつが義妹いもうとと付き合い始めまして」


「あらあら。それは何と言うか……」


「進学先に東京の大学を選んだのも、あいつの幸せそうな顔を見ているのが耐え難かったたからです。今回久しぶりに帰省して、二人がこっちの大学に通いながら今もラブラブな様子を見せつけられました。当人たちには全く悪気は無いんですけどね」


 美由紀さんは困惑した様子だ。

 そりゃそうだ。逢ったばかりの男からこんな話を聞かされて、どないせえっちゅーねんといったところだろう。全く、我ながら何て馬鹿な話をしてしまったのだろう。


「すみません、いきなり変な話を聞かせてしまって。きれいさっぱり忘れてください」


「あの、泉川さん。さぞおつらかったでしょうね。それでも義妹いもうとさんの幸せを願っていらっしゃるのでしょう? 本当にお優しい方ですね」


「まあ、可愛い妹ですから」


 正直に言えば、さっさと別れろと思っていた時期もあったのだけれど……。


「実は私も、最近失恋したんです。会社の先輩に、以前危ないところを助けてもらったことがあって。それ以来……、いえ、それ以前から淡い好意をいだいてはいたのですけれど、結局想いを伝えることが出来ないまま、その人は会社を辞めてしまって。はっきりとは聞かされていませんが、どうやら好きな女性ひとと結婚するために転職したらしいという話です」


「あ、そんなことがあったんですね」


 美由紀さんがはっきり口にしなかったとしても、気付けよ朴念仁ぼくねんじんめ。


「想いが叶わなかったこともですけど、素直に彼を祝福してあげられない自分に対して自己嫌悪を感じてしまって……。それで、たまっていた有休をまとめて使って、気分転換に京都旅行に来たんです」


 そんな事情だったのか。

 今日の午前中には東寺とうじ五重塔ごじゅうのとうを見てきたらしいけど、彼女も水族館が好きで、旅行先ではついつい立ち寄ってしまうのだという。


 そんな話をしながら僕たちは二階に上がり、京都の里山さとやまを再現した空間を一緒に眺めていた。


「派手さは無いけど、落ち着いた雰囲気の水族館ですね」


「ええ。僕も大好きなんです」


 関西の水族館というと、巨大水槽で知られる大阪の海遊館かいゆうかんや、神戸の老舗須磨すま水族館すいぞくかんなどがあり、それらももちろん好きなのだけれど、やっぱり僕は京都水族館が一番好きだな。


「あ、もうすぐイルカショーの時間ですね。ご覧になりますか?」


 ふと時計を確認して、僕は美由紀さんに尋ねてみた。


「観ます観ます。やっぱりイルカショーって楽しいですよね」


 美由紀さんも大乗り気なようだ。やっぱりいいよね、イルカショー。

 昨今では動物虐待だなんて声も上がっているようだけれど、嫌がるのを無理やりやらせているわけじゃないし、神経質すぎないかなあと思う。


 イルカスタジアムでは、すでにショーの開始を待っている人たちが大勢席に着いていた。

 せっかくだから前の方で観たいけど、あまり前に行くと飛沫しぶきがかかっちゃうんだよな。


「このあたりにしておきましょうか。小さい頃、最前列で観ていて、頭からまともに海水をかぶったことがあるんですよ」


 そう言って、美由紀さんが笑う。

 小さい頃の美由紀さん、きっと可愛かったんだろうなあ。


「あ、始まるみたいですよ」


 飼育員さんが登場し、前説まえせつで場を和ませた後、イルカたちがプールに入って来てぐるっと一周する。

 プールの真ん中に投げ込まれたボールを鼻先に乗せて運んできたり、水面から体の前半分を出して立ち泳ぎしたり、といった小手調べから始まって、いよいよショーのはな。イルカの大ジャンプだ。

 イルカたちが勢いよく水面から飛び出し、空中に吊り下げられたボールに鼻先でタッチして、再び水中へ――。


「きゃっ!」


 美由紀さんが小さな悲鳴を漏らした。

 ほんの少しではあるが、ここまで水飛沫みずしぶきが飛んできたのだ。


「大丈夫ですか?」


「ええ。ちょっとかかっただけです」


 そう言いながら、美由紀さんは眼鏡を外してハンカチで拭く。

 美由紀さんの素顔を見て、僕の心臓は大きく高鳴った。

 眼鏡を掛けた顔もすごく美人だと思っていたけれど、外した時の破壊力は凄い。

 思わず見とれてしまう。


「? どうかしましたか?」


 あなたの美しさにノックアウトされました、なんて言ったらチャラ男認定されてしまうだろう。


「あ、いえ。服がずぶ濡れになるほどじゃなくて良かったですね」


 僕は適当に誤魔化した。挙動不審に思われなかったかな?


 イルカショーが終わり、観客席が拍手に包まれる。僕たちも惜しみなく拍手を送った。


「じゃあ、そろそろ行きましょうか」


 美由紀さんに促され、僕は席を立った。


 ミュージアムショップで美由紀さんはお土産を買い、僕たちは水族館から出た。

 いよいよ彼女ともお別れだ。


「今日は楽しかったです。どうもありがとう」


「いえ、こちらこそ……。あ、あの。よかったら連絡先を……」


 勇気を振り絞って、僕はそう切り出した。ナンパと思われたっていい。僕は美由紀さんに一目惚れしてしまったのだ。


「……ごめんなさい。泉川さんは良い男性ひとだとは思いますけど、やっぱりその……失恋旅行で出会ったばかりの人といきなりそういう間柄になるのはちょっと……。連絡先交換ぐらいで何を大げさな、と思われるかもしれませんが」


「あ、いえ、僕の方こそ、厚かましいお願いでした。忘れてください」


「忘れませんよ」


「え?」


「今日のことは忘れません。もしご縁があったら、今度は東京の水族館でお会いしましょう」


「は、はい!」


 そんなに都合良く出会えるとは思わない。ていのいいことわり口上こうじょうだろう。でも、いつかもう一度……。

 明日は大原おおはらの方に行ってみる予定です、という美由紀さんと手を振って別れ、僕は家路についた。






 僕たちが葛西かさい臨海りんかい水族園すいぞくえんのペンギンの前で偶然再会したのは、それから三ヶ月後のことだった。



――Fin.



-----------------------------------------------------------------------



大西さん、新しい恋の予感(笑)。

名無しのチョイ役からスタートした彼女、まさかの大出世です。

この先の話を書くかどうかは、作者の気分次第。


何でちゅうみ水族館とかじゃなくて京都なのかって?

そりゃあ作者が関西在住だからよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナポレオンフィッシュと眼鏡の君 平井敦史 @Hirai_Atsushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画