ナポレオンフィッシュと眼鏡の君
平井敦史
第1話
注! 現在でも京都水族館でナポレオンフィッシュが飼育されているかは未確認です。
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「ナポレオンフィッシュ、お好きなんですか?」
声を掛けてから、しまったと思った。これじゃあナンパ以外の何ものでもないじゃないか。
その
「ええ。何だか愛嬌があるでしょう?」
そう言って微笑んだその眼鏡の女の人は、とても美しかった。
何だか少し憂いを帯びた雰囲気の眼鏡美人が、一人でじっと水槽を見つめている姿が気になって、思わず声を掛けてしまったのだ。
くれぐれも、普段からこんなことをしているとは思わないでほしい。
「すみません、
僕はそそくさとその場を離れようとしたのだが、そんな僕を彼女は呼び止めた。
「あの、よかったら一緒に観て回りませんか?」
え、嘘でしょ? そんな夢みたいな展開本当にあるの?
「いいんですか?」
「ええ。ちょっと人恋しかったものですから」
マジか。ああ、いやいや。過度の期待は禁物だ。それに第一、相手は今
そう思いながらも、やっぱり綺麗な女の人と一緒に観て回れるというのは素直に嬉しかった。
観て回る、と言いつつ大水槽の前から離れようとしない彼女の隣で、僕も巨体を揺らしながらのんびりと泳ぐナポレオンフィッシュを眺めていた。
「和名は『メガネモチノウオ』って言うんですよ」
僕が
「聞いたことあります。確か、眼のところの黒い筋が眼鏡を掛けているように見えるから、でしたっけ」
「ええ。よくご存じですね」
頭の良さそうな
僕はと言えば、小さい頃から魚が好きで、無駄な知識ばかりやたらと蓄えている。
「『ナポレオンフィッシュ』という名前の由来は、
「そうなんですね。
「ナポレオンフィッシュは、生まれた時は皆
「へえ、途中で性が変わっちゃうんですか」
「ええ。逆に
「なるほど。お詳しいんですね。水族館にはよく来られるんですか?」
「ええ。実家がここの近くなものですから」
ここ、
子供の頃、当時オープンしたばかりのここに連れて来てもらい、それから何度も通ったものだ。両親と、妹と……。
いかん、ちょっと気持ちが落ち込んできた。
「あ、地元の方なんですか」
そういう彼女は、遠方から来ているのだろうか。
そもそも、お互いにまだ名乗り合ってもいない。個人情報を聞き出そうとしていると思われても困るので、あえてそこには触れなかったのだけれど。
「ええ。京都市内、と言っても外れの田舎の方ですけど。今は東京で大学生をしています」
「そうなんですね。私も大学は東京で、そのままあちらで就職したんですよ。出身は香川県の田舎ですけれど」
あ、やっぱり社会人なんだ。大人びた雰囲気の美人さんで、二十代半ばくらいかなと見当を付けながらも、もしかしたら僕と変わらないくらいの可能性も、なんて思っていたのだけれど――。
もしかして、僕に対してあまり警戒心を持っていないのは、まだガキだと思われているからなんだろうか?
「私は
「みゆき」さんか。素敵な名前だな。
彼女から名乗ってくれたのなら、僕も名乗らない理由は無い。
「
「そう……。「いずみかわ」さんと仰るんですか……」
彼女の顔が少し曇ったように見えた。僕の名前から誰かのことを連想したのだろうか。もしかして失恋? いやいや、ベタ過ぎるな。
美由紀さんは、落ち着いたトーンのグレージュに染めた髪に、ブラウンのフレームでやや丸みを帯びたデザインの眼鏡を掛け、ベージュのジャケットに淡いピンクのブラウス、クリーム色のスラックスといういでたちだ。
やや面長な顔立ちはかなりの美人さんで、こんな素敵な
「そろそろ、他のところも観て回りましょうか」
そう言って大水槽の前を離れ歩き出した美由紀さんについて行く。
二階に続く階段を上りながら、ふと美由紀さんが呟いた。
「ナポレオンフィッシュみたいに、
あ、やっぱり何か恋の悩みを抱えているのか。
しかも、今逢ったばかりの男相手に
いや、行きずりの相手だからこそ正直な気持ちが言えるのだろうか。
「もし人間がそういう生態だったとしても、心というものがある限り、悩みは尽きないんじゃないかと思いますよ」
「……そうかも知れませんね」
「あの……。逢ったばかりの人にこんな話をするのもどうかとは思うんですけど。実は僕、小さい頃に両親が再婚して、一つ下の血の繋がらない妹が出来たんです」
「まあ、そうなんですか」
「ラブコメとかなら、義理の妹と結ばれたりする展開なんでしょうけどね。高校に入って間もない頃、仲良くなった友達を家に連れて来たら、いつの間にかそいつが
「あらあら。それは何と言うか……」
「進学先に東京の大学を選んだのも、
美由紀さんは困惑した様子だ。
そりゃそうだ。逢ったばかりの男からこんな話を聞かされて、どないせえっちゅーねんといったところだろう。全く、我ながら何て馬鹿な話をしてしまったのだろう。
「すみません、いきなり変な話を聞かせてしまって。きれいさっぱり忘れてください」
「あの、泉川さん。さぞお
「まあ、可愛い妹ですから」
正直に言えば、さっさと別れろと思っていた時期もあったのだけれど……。
「実は私も、最近失恋したんです。会社の先輩に、以前危ないところを助けてもらったことがあって。それ以来……、いえ、それ以前から淡い好意を
「あ、そんなことがあったんですね」
美由紀さんがはっきり口にしなかったとしても、気付けよ
「想いが叶わなかったこともですけど、素直に彼を祝福してあげられない自分に対して自己嫌悪を感じてしまって……。それで、たまっていた有休をまとめて使って、気分転換に京都旅行に来たんです」
そんな事情だったのか。
今日の午前中には
そんな話をしながら僕たちは二階に上がり、京都の
「派手さは無いけど、落ち着いた雰囲気の水族館ですね」
「ええ。僕も大好きなんです」
関西の水族館というと、巨大水槽で知られる大阪の
「あ、もうすぐイルカショーの時間ですね。ご覧になりますか?」
ふと時計を確認して、僕は美由紀さんに尋ねてみた。
「観ます観ます。やっぱりイルカショーって楽しいですよね」
美由紀さんも大乗り気なようだ。やっぱりいいよね、イルカショー。
昨今では動物虐待だなんて声も上がっているようだけれど、嫌がるのを無理やりやらせているわけじゃないし、神経質すぎないかなあと思う。
イルカスタジアムでは、すでにショーの開始を待っている人たちが大勢席に着いていた。
せっかくだから前の方で観たいけど、あまり前に行くと
「このあたりにしておきましょうか。小さい頃、最前列で観ていて、頭からまともに海水をかぶったことがあるんですよ」
そう言って、美由紀さんが笑う。
小さい頃の美由紀さん、きっと可愛かったんだろうなあ。
「あ、始まるみたいですよ」
飼育員さんが登場し、
プールの真ん中に投げ込まれたボールを鼻先に乗せて運んできたり、水面から体の前半分を出して立ち泳ぎしたり、といった小手調べから始まって、いよいよショーの
イルカたちが勢いよく水面から飛び出し、空中に吊り下げられたボールに鼻先でタッチして、再び水中へ――。
「きゃっ!」
美由紀さんが小さな悲鳴を漏らした。
ほんの少しではあるが、ここまで
「大丈夫ですか?」
「ええ。ちょっとかかっただけです」
そう言いながら、美由紀さんは眼鏡を外してハンカチで拭く。
美由紀さんの素顔を見て、僕の心臓は大きく高鳴った。
眼鏡を掛けた顔もすごく美人だと思っていたけれど、外した時の破壊力は凄い。
思わず見とれてしまう。
「? どうかしましたか?」
あなたの美しさにノックアウトされました、なんて言ったらチャラ男認定されてしまうだろう。
「あ、いえ。服がずぶ濡れになるほどじゃなくて良かったですね」
僕は適当に誤魔化した。挙動不審に思われなかったかな?
イルカショーが終わり、観客席が拍手に包まれる。僕たちも惜しみなく拍手を送った。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
美由紀さんに促され、僕は席を立った。
ミュージアムショップで美由紀さんはお土産を買い、僕たちは水族館から出た。
いよいよ彼女ともお別れだ。
「今日は楽しかったです。どうもありがとう」
「いえ、こちらこそ……。あ、あの。よかったら連絡先を……」
勇気を振り絞って、僕はそう切り出した。ナンパと思われたっていい。僕は美由紀さんに一目惚れしてしまったのだ。
「……ごめんなさい。泉川さんは良い
「あ、いえ、僕の方こそ、厚かましいお願いでした。忘れてください」
「忘れませんよ」
「え?」
「今日のことは忘れません。もしご縁があったら、今度は東京の水族館でお会いしましょう」
「は、はい!」
そんなに都合良く出会えるとは思わない。
明日は
僕たちが
――Fin.
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大西さん、新しい恋の予感(笑)。
名無しのチョイ役からスタートした彼女、まさかの大出世です。
この先の話を書くかどうかは、作者の気分次第。
何で
そりゃあ作者が関西在住だからよ。
ナポレオンフィッシュと眼鏡の君 平井敦史 @Hirai_Atsushi
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