本当のささくれは心にできてしまう
再び虫眼鏡を覗き込んだ私の前に、広がったたくさんの世界の一つ。
――息子を助けてほしいの!!
強い叫びに驚いた私の旅先は、その世界に決まってしまった。
そこは、マンションかアパートかはわからないけど、とりあえず何の変哲もない一室。
その部屋に立ち尽くしていたのは、一人の青年だった。
彼の心は、今、罪悪感で満ちているのだと母親は訴えてきた。
彼は、母親である彼女の最期に間に合わなかった、彼女を看取ることができなかったことに強い後悔を抱いている。
たしかに、母親の死というだけでもつらいのに、死に目に会えなかったなら、なおさらだろう。
そのことが彼を不幸にしているのだと、彼女は嘆いた。
彼はひどく後悔しているだろうけれど彼女は、最期に息子に会えなかったことを怒ってもいないし、苦しんでもいない。
そして、彼に、ほんの少しでいいから生きる希望を与えてくれと私に願った。
たしかに、彼女はもっと生きたかった。
死にたくはなかった。
もっと最愛の夫や息子と一緒にいたかった。
もっとたくさん思い出を作りたかった。
いつか息子の連れてきたお嫁さんと料理をできたらなんて考えてもいた。
孫だって、抱いてみたかった。
おじいちゃんになった夫とおばあちゃんになった自身で散歩もしてみたかった。
彼女は死んでしまった。
これらの全部の願いは、もう決して叶わない。
けれど、彼女はそれを、私に望まなかった。
それより、息子の幸せを望んだ。
この虫眼鏡があれば、今の私なら、彼女を生き返らせることができると。
彼女のその願い全て叶えられると言ったけれど。
彼女は首を横に振って微笑った。
彼女は今も幸せなのだと微笑った。
夫や息子のそばで、彼らを見守りながら、遠い遠い日に会いにやって来る彼らを待つ日々が。
とても幸せなのだと微笑った。
私は彼女の願いを叶えることにした。
虫眼鏡を動かさなかった。
ただ、彼の手元のスマホを少し動かして、一つのサイトを開かせただけ。
彼は驚いてた。
母親が教えてくれたのだと理解してた。
彼女はまた、いつものように、息子の世話をしながら、微笑っていた。
よっぽど、この何気ない世界は、彼女にとってかけがえのない世界なのだろう。
私の世界と同じような世界なのに、彼女の気持ちはまるで別世界にいるみたいにわからなかった。
けれど、私は最後に彼女の香りと彼女が置いたハンドクリームを息子さんのもとに残して帰った。
それはわかりやすい物語ではなかったけれど、それがとても幸せな終わり方だったらいいと思った。
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