そのメガネ

村良 咲

第1話 母のメガネ

 そのメガネは、母の遺品だった。

 

 母はいつもメガネをしているのが日常で、そのメガネに特段意味を感じたことなどない。メガネをしているのは裸眼じゃ見えにくいからで、おそらく近眼なのだろうと、そんなことすら意識もしたことのないくらい、子供の頃から当たり前の光景だった。


 そんな親の血を引いているのに、娘の智美は五十を過ぎる頃まで、メガネというものには無縁で、近くも遠くもよく見えていた。


 そんな智美も、五十を過ぎて一年経つ頃にはしっかりと老眼が始まっていた。


「あんたもそろそろちゃんとした老眼鏡を準備したら?」


「そういやお母さん、ずっとメガネだったけど、近眼から老眼になってるの?考えてみたらずっとそのメガネだよね?随分と長持ちだよね」


「そうね、私のは遠近両用になってるの。前は近眼だけのだったけど、私もやっぱり五十代になった頃から遠近両用になったわ。でもフレームはずっとこれ、お気に入りなの」


 そんなこと話していたから、これも一緒に棺に入れてやったほうがいいなと思い、そのつもりでいたけれど、納棺の前の晩に見た夢が気になって、入れずに手元に残した。


『智美、あのメガネは燃やしてしまわないで。あなたの手元に置いて。私はあのメガネでいろんな経験をしたの。あなたにも同じ経験をして欲しいわ。だからあなたの名前にも……でも、長い時間は……』


 母がいつもかけていたメガネ。きっとこのメガネを通していろんなものを見てきたんだわ。お父さんと結婚した時も、その前にデートしていた時もこのメガネを通していろんな景色を見てたのね。私が生まれてからも、このメガネで私を見て育ててきたんだわ……


 智美は、手にしたそのメガネが母親の身体の一部のような気がして。これを大切に持っておこうと決めた。それにしても、あなたの名前にもとは、どういう意味なのだろう?続き、……思い出せないわ。長い時間?なんか言った気がしたけど……って、夢の話なんだから、私の頭の中にあったものが具現化しただけよね。


 子供たちが巣立ち、夫と二人だけになったリビングの出窓の片隅に母の写真を置き、その前にメガネを置いた。母が恋しい歳でもないけれど、自分も親になったからこそ経験した子育てを思い返すと、母が自分にかけてくれた愛情をどうにか形にしておきたいという気持ちが湧いたのだ。


 いつも通り、家事の合間につけたテレビでワイドショーを見ながら手元のスマホに視線を落とすと、瞬間、目のボヤケを感じてソファ横のサイドテーブルに置いてる老眼鏡をかけ手元を見た。が、何だかピントが上手く合わない気がした。やはりちゃんと自分に合った老眼鏡にしたほうがいいのかな。母の「ちゃんとした老眼鏡」という言葉を思い出した。そういえば、大型のショッピングセンターで買った老眼鏡はいくつかサイズがあって、なんとなくちゃんと見えるような気がしてこれを買ったんだったなと、少しフレームの緩んだ老眼鏡に目をやった。


 そうだ、あれ、かけてみよう。


 特に意味もなかった。そこに老眼鏡があるんだからかけてみてみようというくらいの、軽い気持ちだった。遠近両用と言っていたけれど、最近は裸眼でもピントが合わなくなってきている気がしていて、ちょうどいいかとも思った。


 母のメガネをかけて手元のスマホに目をやると、普通に文字が見えた。「あ、ちょうどいいじゃん」と、思わず口をついた。そのまま視線をテレビに移すと、「あ、こっちもこれで見えるわ」これでいいじゃんと、テレビに向けた目にメガネがしっかりとはまるようにレンズの淵の部分を摘まんで持ち上げた。その瞬間、目に見えている風景が変化した。


 あれっ、なんだろう。え?あれはテレビで見たことがある、何かの撮影の風景?それにしても、向いているカメラは……私を映している?なんだか怖くなって顔を横に向けて、その辺にいる人にそれを聞こうとしたけれど、顔が動かない。それどころか、自分が聞いたこともない言葉を発している。


「こちらの商品は特許をすでに獲得してあり、洗いあがりも真っ白に……」


 え?私なに言ってるの?私?…いや、これ、私じゃない……私は、メガネをしてテレビ見てて…でも、あれ?ワイドショー見てて、あれ?そこにいる人たち、今、テレビで見てて……えっ?なんでここに?智美は混乱した。テレビで見ていた人たちがそこにいて、自分がまるでコマーシャルをしているような、そんな言葉を自分じゃない自分が発してて……どうなってるの……私は、どうなったの?あ、そうよ、メガネの淵を持った時、何かが指先に当たったような気がして、一瞬、クラっとして……


 智美は再び自分のメガネのその部分を触ってみた。


 あれ?テレビ……手元にはスマホ……飲みかけのコーヒーがそこにあって、ここ、うちのリビングよね?やだわ、寝落ちでもしてたのかしら。母のメガネを外して、うすぼんやりとした視線のまま、その淵の部分に目をやった。


「あら?やっぱり……突起があるわ。なんだろう?」


 再び押してみるも、特に変化はない。なんだったんだろう?自分がおかしくなったのかしらと、またメガネをかけてテレビを見ながら、その突起を指で押した。


「この温泉には炭酸が含まれていて、入ると身体にぷつぷつと空気が当たるように感じて、不思議な感じがするんです。効能は血圧を下げることや……」


 えっ?なに?ここ、さっきの……あれ?私、誰?何言ってるの?やだ、怖い、怖い……


 智美は無意識にまたその自分がかけているメガネの淵の突起を押した。


「あっ、うちのリビング?やだ、なに?なんなの?」


 テレビの中ではお勧めの温泉の紹介のコーナーをやっていて、つい今しがた自分が直接目にしたばかりの光景がそこにある。


 智美の胸の鼓動がけたたましく鳴り始めた。そういえば、お母さんはなんて言っていた?このメガネでいろんな経験をしたって言ってた。いや、違う。それは夢の中でお母さんが言ってたんだ。だから直接聞いたんじゃない。あなたにも経験して欲しい……あなたの名前にも?長時間は……?お母さん、なんて言ってたっけ?って、いや、だからそれは夢の中の話で……


「やだわ、私、どうしちゃったんだろう」


 そう思いながらも、自分が今した経験の不思議に戸惑って、しばらく腕組みして目を閉じ考え込んだ。


 これは、もしかしたら……見ている相手の中に入り込めるメガネなのではないか。そう考えるのが一番合理的な答えのように思えた。そこまで考えて、ふと思い出したことがある。


 子供の頃、地区のお祭りに仲良くしていた友達二人と三人で行ったときのことだ。あの日、神社でもう一人、仲良くしていた子と偶然会ったんだ。その時、その子は母親といて、三人でいた私たちの前に来て自分の母親に、「智美ちゃんたちが私を仲間外れにするんだ」と訴えていた。


「違うじゃん。誘ったけど行けないって言ったじゃん」そう答えたが、仲間外れにされたと泣く自分の子を信じた母親に「仲間外れにしないで、仲良くしてね」と言われた私たちは、顔を見合わせ、仲間外れになんかしてないのにと声に出さずに言い合ったことがあった。


 その日の晩、お母さんに「里紗ちゃんを仲間外れにしちゃいけないよ」と言われ、言いつけられたと思って、「仲間外れにしてないもん」と言い返した覚えがある。その時には里紗の母親が言いつけたんだと思っていたけれど、もしかして……お母さん……


 そう考えると、似たようなことが他にもあった。初めて付き合った相手と喧嘩をしたとき、「浮気するような男は深入りする前に止めた方がいい」そんな話をドラマに絡めて何げなくされた。随分とタイミングよくそんな話が出たので記憶に残っている。


 ……もしかしたら……


 そう考えると、空恐ろしくなった。


 私の人生に干渉していた?いや、私だけじゃなく……あ、でも……そうだ、あの時、長時間は……って、長時間は……長時間は……なんか言ってた。今の自分の経験から想像するに、長時間はダメだと言いたかったのではないか。


 って、だからそれは私の夢の話で、お母さんが言ってたわけじゃ……そうだ、私の名前……そう言っていたことを思い出して、ふと調べてみようと思い、スマホで『メガネ…部位名称…』と、検索をした。


『智(ヨロイ)』


 そうか、この突起のあるところはヨロイというんだ。このことを言ってたのかもしれない。名前にその文字を使うことで、大事なことを教えておきたかったんじゃないか。だとしたら、長い時間……使うなということなのではないか。枕元に立ち、それを教えたかったのかもしれない。


 人は亡くなったあとも四十九日が過ぎるまで、魂が現世にいるのだという話を昔祖母がしていた。そんなバカなと思っていたけれど、本当なのかもしれないな。


 大切なことを教えてくれようとしてたのかもしれない。お母さんがこれをどんなふうに使っていたのかはわからないけれど、きっといい使い方をしていたに違いない。葬儀に参列していたたくさんの人たちが涙を流し別れを言っていたことを思い出し、そう思った。


 ふと、手元のスマホが震え、ラインに通知が来たことを知らせてきた。


 智美は何げなく手元にあったメガネをかけ画面を見ると、夫からだった。こちらに顔を向けているアイコンに目が行き、何の気なしにメガネをかけ直そうとして突起に触れた。


 その瞬間、目の前に現れたのは明らかに職場とは違うどこかの部屋のような場所だった。


 えっ?ここどこ?と思った瞬間、夫が目を向けた先には一人の女性が立っていた。

 

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