第31話 痛みに耐える事を、知らぬ者

 龍源道の伝聞を聞いたアランは、沈黙に押し込まれた。


 任務は失敗した。入鹿の『書』は、既に霊媒機構に接収された。


 ――アランの笑みは、消えた。


 策を仕込み奪わんとしていた代物は。既に玲瓏には存在しなかった。


 ――ありもしない代物に釣り出されてしまった。


 


「――おやおやァ。随分と悔しそうな顔をしているじゃねぇ―か」


 笑みを消したアランに反し。それを見やる来禅の顔は、嘲笑の色が深まっていく。


 その笑みを、目にした瞬間から――アランの左腕から灼熱が浮かび上がる。


 


「....いいわ。お望みなら、完膚なきまでに殺し尽くしてやるわ」


「かっはははははは!いいぞいいぞ!――舐め腐った馬鹿の笑顔が消える様ってのはいつだって最高だなァ!」


 アランの左腕より放たれし灼熱を纏いた爆炎が、来禅へ襲い掛かる。


 来禅は爆炎から逃れるではなく、むしろその内側へと踏み込んでいく。


 炎に塗れ、焼けつくされるよりも前。来禅は――炎に向かい、己が鉄杖をぐるり回す。


 ただそれだけ。それだけの行為で、来禅の周囲を取り囲んでいた炎は鉄杖の回転に巻かれ、来禅から逃れ行くように周囲に巻かれる。


 爆炎を巻き、通り抜けた先。来禅は鉄杖を突き出す。


 その様を――ジッと、アランは見ていた。


 踏み込んだ足。腰。そして突き込む腕。その全て――円状の動作を行使している。


 踏み込みと共に足首を捻り。足先の捻りと連動し腰は大きく回転し。それら円運動を受けた鉄杖も、螺旋状に回る。


 そうした回転を一身に受けた鉄杖は――アランの右腕にピタリ、とくっつく。


 アランは紋章の力により硬質化した右腕にて防護するが――異音が、響く。


 外殻から壊れるのではない。外より静かに浸透した衝撃が、内側で爆ぜるような。右腕が破砕される様が、骨伝導の鈍い音として響き渡る。


 硬い外殻ではなく。その内側の骨や神経、肉が衝撃で破砕されていく。


「.....」


 爆炎を鉄杖で己から逃した瞬間。そしてアランの右腕を破砕したあの突きの一撃。


 あの瞬間。来禅は、紋章も刻まず詠唱も行っていないが、魔道を使用していた。


 入鹿来禅。彼は『円』の魔道の使い手である。


 来禅の円動作により発生する力を強化する。ただそれだけの単純な魔道である。


 されど。単純であるが故に、凄まじく応用が利く。


 鉄杖を回すだけで、己が身に降りかかる灼熱を振り払う。あらゆる円状の動作によって生まれる力に強化が掛かり、一つ一つの攻撃の威力が跳ね上がる。


 アランは砕かれた右腕を『蛇』の紋章により回帰し再生すると。己が周囲に複数個の炎球を生み出し、来禅へ放つ。


 広範囲かつ、一つ一つの放出を遅らせた時間差の面攻撃。鉄杖の回転による防護を行わせぬ為に放った


 来禅はくるり己が体幹を円回転させ、その勢いを乗せて地面を蹴り上げる。それだけで、地面の陥没と共に、人間離れした瞬発力により跳躍を行い、炎球の範囲から逃れ行く。


「――八柳」


「はい、義兄さま」


 爆撃の音を背後に。跳躍した来禅は空中にて足先を捻ると、空を蹴り付けるように方向転換し――アランへ向け突っ込んでいく。


 アランへ肉薄した来禅は、――己が間合いである接近戦の距離を手に入れ、猛攻を始める。


 己が肉体ごと回る来禅の鉄杖に、アランは反撃の糸口さえも見当たらぬようであった。攻撃の機先を常に取られ、打ち付けられる鉄杖に骨が砕かれていく。


 その瞬間。全身を『蛇』の鱗で纏ったルイスがアランを庇わんと、来禅の背後から襲撃をかけるが。その合間に割り込んだ八柳の斬撃により、その首が斬り裂かれ。その脳髄に切っ先が抉り込まれる。


「あ....ああああああ!」


 ――魔道の中でも、肉体を再生させる類の代物は存在し。それを極めれば、限りなく不老不死を得られる代物もある。


 例え全身の骨が砕かれようと。心臓が破れようと。限りない死の地点より蘇る手段は、ある。『蛇』も、そういった機能を持つ数少ない魔道の一つである。


 だが。そう言った魔道であっても、再生が厳しいとされる部位が存在する。


 それは、脳である。


 脳は、魔道を行使する上で最も重要な部位であり。破壊されれば魔道がそもそも使えなくなる。故に、再生機能を持つ魔道使いに対しては脳天を狙うのは基本中の基本とされている。


 故にケイオゥスはルイスを襲撃した際はとどめに脳天へ弾丸を撃ち込み。そして今もまた、八柳が脳へ刀を突き刺している。


 だが。――脳を貫かれ絶命しているはずのルイスは、またもやその身に『蛇』の紋章が浮かび上がり。刃が突き込まれた脳髄ごと、再生が始まる。


「これは....」


 八柳がそう呟くと共に――アランが至近距離で放った灼熱魔道により再び距離を取らざるを得なくなった来禅が、隣に来る。


「『蛇』の紋章は。肉体をもう一回再構築する、というより。時間を巻き戻して肉体を再生させてんだろ。だから脳が壊れても、事前に魔道を仕込めてさえいれば再生できる」


 そして、と。来禅は続ける。


「――あの野郎は。自分に降りかかる諸々を、この女に押し付けてやがる」


 アランは来禅との接近戦の最中。相当な手数をもって叩きのめし、その骨を砕いていたが。彼女には、苦痛に表情を歪める瞬間は見当たらなかった。


 そして、己ごと巻き込む灼熱の魔道を用いて。蛇の紋章にて再生を行っているが。やはり、表情に変化がない。


「――『転嫁』の魔道ですわ。自身へ降りかかる痛みや苦痛を、仕掛けた相手に押し付けられる紋章」


「どうやら、ケイオゥスの『激痛』の効果も。全部押し付けられていたみたいだね」


 攻防の最中に爆炎に巻き込まれかけ。『疾風』の結界で身を潜めていたケイオゥスとローウェンがそう呟く。


「とんでもねぇ事してんな」


 成程な、と。来禅は呟く。


 二人は共に『蛇』の紋章による肉体を回帰させ、受けた怪我を治し。アランは自らが受けた苦痛をルイスに押し付ける事で、苦痛を恐れず戦い続けている。


 紋章の大判振舞い。肉体の再生をしつつ、他者に苦痛を押し付けつつ、灼熱を撒き散らし、己が身体をも変質させる。これが普通の魔道士であらば、五、六回は負担に耐え切れず死んでいる。


 アランは口を膨らませ。ペッ、と何かを吐き出した。


 それは、玉石。


 既に力を使い尽くしたのか、その色は既に褪せており。地面へと叩きつけられた瞬間、砕け散る。


 これだけの魔道を好き勝手に使っているのも。――魔道の行使を代行する玉石を使っているからこそ出来る芸当なのだろう。


 ――広範囲への攻撃手段。無尽蔵の再生能力。そして、苦痛を他者へ押し付ける魔道。成程、そりゃあ調子に乗る訳だ。


「ま。――見た限り、強くはあるが穴はある。どうとでもなる」


「....手はあるのですか?」


「おう。ま、こっから先はアンタ達もちと体張ってもらうぜ」


 アランの肉体が再生を終えると、来禅は――その表情に確かな狂気を刻み付ける。


 己が命が、綱渡りの上にある。一つ誤れば崖底に落ち、死へと真っ逆さま。その状況が、どうしようもなく楽しい。


「――ああいう野郎の死に顔を見物できるのもまた、戦場の醍醐味よ。絶対に殺してやる」


 



 


 ――作戦が失敗した以上。これ以上この場に留まる理由はない。


 アランの合理の部分は、そう言っている。


 だが。もうアランには眼前の存在を殺さないままに、この場から逃げ出す理由はない。


 己が感情が、不愉快故に殺せと叫んでいる。


 この叫びを。この感情を。押し殺さねばならぬ理由は一芥たりとも存在しない。


 ――殺したければ殺す。不快ならば殺す。そうして、己は己にとって好ましい世界を作り上げてきたのだから。


 どれだけこの身が傷つこうとも、己が身は回帰し、己負担も痛みも玉石とルイスに押し付けられる。


 何をしようとも己が身には何も起きぬ。ならば、殺すが吉だ。


 負担を押し付ける道具たる玉石に、痛みを押し付ける道具たるホムンクルス。この両輪をもって、己は唯一無二の存在に君臨できているのだから――。


 そのはずであったが――。


「『転嫁』の紋章が発動するには、押し付けられる側がしっかり痛みを感じる機能が存在している事が最低条件だろ?」


 アランが、ルイスに対して用いている『転嫁』の紋章は。アランが受ける苦痛をルイスに押し付ける事で成立している。


 ならば――ルイス側が、痛みを感ぜられない状態にしてしまえば。成立はしない。


「なら。――こうすればいい」


 来禅は、今度はローウェンと共にアランへ襲い掛かる。


「もう貴方に近付けさせはしないわ。――死になさい」


 アランは己の周囲に『蛇』の紋章を浮かべると。己が周囲に禍々しい色を宿した煙を生み出す。


 それは、『蛇』の紋章より生み出せし、毒煙であった。


 煙を目にした瞬間より。ローウェンは『疾風』の紋章により風を生み出し、煙を弾き飛ばしていく。


 煙が晴れた瞬間より来禅はアランへ踏み込んでいく――が。


 その身を肉薄されるよりも前に、己が周囲を取り囲む”結界”の存在を感じ取った。


 踏み込んだ足先にはアランが生成した『灼熱』の結界がある。


「おお....!」


 閉じられた領域の中。凄まじい熱線が全身へ叩き込まれる。


「炎なら円運動で巻き上げる事は出来るだろうけど。熱そのものをどかす事は出来ないでしょう?」


 結界により空間を区切り、熱線により灼熱の空間を形成する。


 炎ならば、来禅が操る『円』の魔道にて対処が可能だろう。だが、密閉空間内で一気に放射される熱そのものは円運動にて防ぎようがない。


 来禅は即座に結界より脱出し難を逃れるが。――皮膚には熱の放射により一部が爛れかけ、全身に凄まじいまでの汗が浮かび上がっている。


「いい対策だ。――だが」


 ローウェンと来禅の両者に対処する間。


 再生を終えたルイスへ。再び八柳が手をかける。


「これで――お前の強みの一つを潰せる」


 八柳はルイスの脳天に刀を突き刺すと――その上から紋章を仕掛ける。


「――ッ!」


 何をしようとしているのか。一瞬にしてアランは勘付いたが、時すでに遅し。


 脳天を貫かれ絶命し、蛇の紋章にて再生を果たす前。八柳は結界をルイスの周囲に展開する。


 結界内は氷雪に満たされ。ルイスの肉体は凍り付き倒れ伏す。


「これで――蘇るたび、死んでくれる」


 ――『蛇』の再生は、肉体の状態を”回帰”することによって行われる。


 故に。脳そのものが破砕されようと、幾度でも再生を果たす。


 なので。肉体が幾度凍り付き、その度絶命しようとも。肉体が許す限り、幾度でも肉体は以前の状態へ戻る。


「――!」


 だが――肉体が以前の状態に戻ろうとも。己が肉体を凍り付かせる氷雪の結界が消えるわけではない。回帰したところで、氷雪の結界が運び込む低温はルイスを取り殺す。


 肉体の再生ではなく、時間を巻き戻す事で成立する代物故。再生と同時に氷雪への対抗能力を持つ『蛇』の鱗を纏う事も出来ない。纏ってしまえば、時間の回帰と共に戻されるが故に。


 結果――気道すら凍り付いたルイスの、物言えぬ絶叫だけが結界内に満ちて行く。


 死と回帰が、僅かな間に幾度も繰り返され。ルイスの胸部に埋め込まれた”玉石”が躍動していく。


「やはり、――こいつもあの石を持っていた訳か」


「あ....アラ、アランさ、様.....」


 詰み。ルイスは例え『蛇』の紋章により回帰を果たそうとも。閉じられた氷雪の結界の中で死を繰り返すのみ。


 それでも、ルイスは回帰を繰り返す。


 たとえ、死の苦しみを幾度繰り返す事になろうとも――それでも、最期の最期まで、”アランの痛みの転嫁先”という役割を放棄する事を拒絶した。


 足掻きに足掻いた、その果て。ルブルスの例に漏れず――心臓部位に埋め込まれた玉石が決壊し。胸元から血飛沫を上げ、ルイスは遂に絶命へ至る。


 


「く....!」


「これで――痛みを押し付ける相手もいなくなったわけだ」


 くく、と。熱の放射を受け、全身に火傷跡が残って尚――来禅は笑む。


 ようやく。――この女に”痛み”を与える事が出来る。


「苦痛に塗れて死ね」


 苦痛の受け皿であるルイスを失った瞬間――アランの表情は、確かな恐怖に歪んでいく。


「――それで勝ったつもり?


 アランは周囲に紋章を振り撒くと共に。更に爆炎と熱の放射を行っていく。


 蛇の紋章で全身を鱗で覆い身体機能を拡張し、背後へ移動しながら。


 爆撃に紛れた熱線の放射。そして己は背後へと逃れていく動き。――明らかにこれまでの余裕を捨て、物量的に殺しにかかっている。


「おーおー、いい感じに余裕がなくなってきた感じだな。――ようやく、付け入る隙が出来始めたな」


「....動きがかなり変わりましたね」


「変えざるを得ないんだよ。――戦場に立つ者は、死なねぇ限り、何処かで痛みと向き合わなきゃならねぇ。だが、奴はそこを通過していねぇのさ」


 だから、と来禅は続ける。


「痛みを他者に押し付けられる、なんてもん。実の所弱点でしかねぇのさ。――痛みに耐える、という基本的な機能が、備わってねぇんだからな」


「.....」


「――という訳で八柳。今が好機だ。頼んだぜ」


「任されました」


 


 来禅の言葉に一つ頷き。八柳は己が周囲を氷雪の結界を敷く。


 結界は巻き上げる雪と共に低温の壁となり、アランから放たれし高熱の光線より八柳の身を護る。されど――光線が触れる度に、結界は脆くも崩れていく。


 されど。八柳は焦ることなく、その最中に留まる。結界で逃れようとは思わぬ。ただ――詠唱を行うための時間稼ぎの為に張っただけだ。


 八柳は、掌印を結び、詠唱を唱え――己が魔道を発動させる瞬間を待っていた。


 熱の放射と共に結界が崩れた瞬間。


 八柳もまた、詠唱による術式の構築を終え。――魔道を放つ。


 それは、氷牢と呼ばれる氷雪魔道である。


 吹雪を発生させ敵を包み、氷漬けにする。


 アランの灼熱と、八柳の氷雪。互いが互いにぶつかり合い――先程、塔を囲っていた結界を解除した時と同じ、爆撃が周囲に巻き起こる。


「く....!」


 ――この状況。周囲が見えなくなる事が一番まずい。距離を詰められる。


 距離を詰められぬ為に逃げながら術を放射するという方法を取ったのに。その所為で、辺りの視界が一気に悪くなった。


 互いの魔道によって爆炎と雪煙に塗れた場所から逃れんと必死に走るが。


 アランが逃げる方向へ、煙もまた追いかけていく。


「無駄だよ」


 それは、ローウェンが操る風によるものであった。


 アランが進む方角へと風を操り。視界を遮る煙を、限界まで追わせる。


 アランの視界を遮るは――銃を構え、笑みを浮かべる黒ドレスの女。


「ああ....ようやく、貴女が激痛に歪む様を見られるのですね....!」


 ――ケイオゥスは、激痛の魔道が籠められた弾丸を放つ。


 


「舐めるな....!」


 視界は遮られるとも、銃声は聞こえる。


 そもそも煙で視界が遮られているのは相手とて同じ事。故にアランは――その身を屈め、弾丸の軌道より己が身を逃がす。


「かか....ようやく、足を止めたなァ!」


 煙で視界が見えぬ状況故に、身を屈めたアランの頭上を当然のように弾丸は過ぎ去って行く。


 だが。その軌道の先には――もう一人、いる。


 入鹿来禅。


 彼はぐるりと己が体幹と共に鉄杖を回すと――弾丸を、その軌道上に乗せる。


 鉄杖の円運動により進行方向を変えた弾丸は――そのまま、身を屈めたアランの背に叩きつけられる。


「あっ――」


 背中より、弾丸が己に当たる感触。


 そこを起点に。――脳内に、”激痛”の感覚が走っていく。


 今まで。ずっと他者に押し付けてきた痛みが――全身に。


 


「あ...あああ....あああああああああああああああああ!ああああああああああああああ!」


 


 それは全身を蝕み。アランの肉体に、楔を打ち込んでいく。


 激痛に靄がかる意識の中で。アランは必死に、『蛇』の紋章を描く。


 一秒でも早く、『蛇』の回帰を用いて、肉体の状態を以前のものに戻す。この激痛の弾丸を受けるよりも前の、その状況に。


「――無駄です」


 


 紋章の力により、必死に回帰せんとするアランの頭上。


 人形の如き女が、死神となり君臨していた。


 倒れ伏すアランに、先程ルイスに仕掛けたものと同じ結界が包み込む。


 氷雪に満ちた結界の最中。アランの身体は凍り付いていく。


 それでも、と。アランは必死に紋章を繰り出さんとする。


 ルイスと同じ状況に置かれてはいるが。弾丸を受ける前からアランは『蛇』の鱗を纏っている。回帰しようとも、氷雪への対抗力は備えている。


「無駄ですわ」


 


 凍り付く肉体が以前の状態に戻った瞬間。


 結界の外より――ケイオゥスの更なる弾丸がアランの頭部へ突き刺さる。


 ――ああああああああああああああああああああああああああああ!


 今度は。回帰が行われるたびに、激痛をアランの肉体に叩き込まれる。


 その瞬間。アランは――弾丸を撃ち込む、ケイオゥスの表情を見た。


 飢えた獣が、久方ぶりの馳走を味わったかのような。快楽を直接己が内側に飲み込んだような。野蛮で、隠しきれぬ、笑みを浮かべていた――。


 ――嫌だ。嫌だ。見下すな。見下すんじゃねぇ。殺すぞ。


 ――もう二度と蔑まれないように生きてきたのに。もう二度と痛い思いをしない様に生きてきたのに。


 己が肉体に取り込んだ玉石が蠢く。


 頭部を撃ち込まれた瞬間、己を死から回帰させんと紋章を発動させようとするが。


 発動させてしまえば、またあの激痛を味わわされねばならない。


 このまま何もしなければ――死へ、逃げる事が出来る。


 


「ふざ....ける....な....!」


 


 一瞬の迷いが。己が肉体が死への道程を一気に踏み込ませる。


 死は、己に仕掛けられた――様々な魔道の効果をも、抹消していく。


 


「やめろ....見るな....見るなァァァァァァァァァ!」


 アランの少女としての面持ちは、消え。その顔面は次第に年老いてゆく。


 ――『蛇』の紋章により肉体すらも過去に”回帰”していた老婆は、本来の己が還っていく様を前に絶叫を上げる。


 老婆の顔面は頭部に大きな瘤が生え。その顔面には、大きな黒ずんだ痣が覆っていた。


 記憶が巡る。巡る。魔王と呼ばれる者と出会い、『蛇』の紋章を得られるよりも前の記憶が。


 己が美貌を病に侵され。嘲笑われた記憶が。気色悪がられ、肉親からも打ち棄てられた記憶が。その恨みを晴らす為に村に火を放った記憶が。死を目前にして、己がこうなった全てが、巡る巡る――。


 


「私は、私は....こんな....こんな.....!」


 


 歪んだ少女の皮を剥ぎ。本来の己へと回帰していく最中、声すらもしゃがれていく。アランは虫食いの小枝のような両腕をぶんぶんと振り回し、幼子のように老婆の声で泣き喚いた。


 そして――糸がぷつり切れたように、動かなくなった。


 己が死を呪う。亡者のそれのように、ひん剥いた眼窩から、流血のような涙を流した死貌となって。


「.....」


 その様を見届け。――ケイオゥスの表情からは、笑みは消える。


「満足したか?」


「ええ」


 来禅の言葉に、ケイオゥスは一つ頷く。


 己が性癖へと流し込まれる、最高の馳走であった。眼前の存在が死ぬまで囚われ目を背けていたものと、最期の最期に突き付けられ、藻掻き苦しみ息絶える。その苦痛に咽ぶ様を目にして、己が中に昏く深い快楽が全身に走る感覚に、打ち震えていた。


 その快楽の余韻を味わいながらも。されど「ただ、」とケイオゥスは続ける。


「こうして――哀れむべき者を前に、快楽に耽る己の姿は。やはり、あまり好きになれそうになりませんわ」


 そうぼそり呟き。切なげに目を細め――たった今絶命した老婆の姿を、ただ見やった。

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