第29話 ここにはもう、何もない

 林道を歩いていく。


 懐かしい景色であった。石畳の上に積もる雪を踏みしめる感触も。その脇にある木々や竹藪も。


 記憶は遠い彼方にあるのに。何一つ変わらぬままの風景であると、理解できてしまう。


 確かに。過去、己はここにいたのだ、と。


 その道脇。


 佇む一人の男が、いた。


「――久方ぶりだの、龍源道」


「....銘文」


 かつて己が左腕を斬り落とし。そして後に友となった――入鹿銘文。


 記憶の中にいたその男の姿形は、もう随分と褪せてしまっていた。どんな顔立ちをしていたであろうか。忘れて久しかったように思えた。


 しかし。古ぼけた記憶の中にいた友の姿よりも遥かに老いたその姿を見て。全てが溢れ返るような――青色の風景が拡がっていく。


 そうだ。この眼だ。


 見えざる力に吊り上げられたかのような、力強い目。例えその顔面に幾重もの皺が刻み込まれようとも、変わらないもの。


「随分と若返ったではないか龍源道。――それも蛇の紋章が所以か。中々良いな。懐かしい気分だ」


「....何をしに参ったのか、解っているであろう銘文」


「解っておるよ――だがまあ、ケリをつけるのにふさわしい場所と時がある。まずは――話でもしながら、塔まで行こうではないか」


 銘文は、何一つ気負うものが無い風情であった。楽し気で、何処か儚げであった。


 それは。人生の終着点にて、重荷を下ろした一人の男の姿であった。


 玲瓏にて兵法指南役を務める入鹿家の当主。雪深い最北の地を守護し続けてきた全てを受け継ぎ、護り続けてきた者が――入鹿銘文という男であった。


 そのあるべき姿と。今眼前にいる男の姿が、重ならない。


 ――嫌な予感が、龍源道の全身を駆け巡っていた。


 二人は、並んで石畳の上を歩いていく。 


「お主の目的は、入鹿の魔道書であろう」


「ああ」


「ここが吾輩の全てであると昔お主に聞かせた記憶があるが。わざわざ奪いに来たとは、酷い話だの」


「.....」


 その台詞に反して。銘文の声には、龍源道を責めるような色を感じられなかった。


 さくりさくり。小気味よく雪を踏み鳴らし、二人の男が歩き続けていく。


 


「――魔王の残党、ひいては蛇神教団....じゃったかの。そいつ等の狙いは解っておるよ。これまで各勢力で争い合っていた叡が、収束に向かっている中。叡に散逸している魔道をかき集め、手中に収めたいのであろう。魔道の力を、可能な限り独占する為に」


「そうであろうな」


「生贄を用いて、魔道の行使を代替する技術を生み出せたのならば。後は魔道を独占すればよい。魔王なんぞを崇拝している連中が考えそうな事だ」


「.....」


 銘文は、やはり――教団が何故玲瓏に手を出したのかという部分についても、理解が及んでいた。


 祭で人が集まる所で襲撃をかける、と見せかけ。狙いそのものは、この塔にあったのだと。


「知ったところで、どうしようもあるまい」


「ああ、どうしようも無かった。狙いが解ったところで、領民を殺させるわけにはいかなかったからな。策には乗っかってやる必要があった。――解ったところでどうにもならぬ策が、最上の策よ」


 そう意味でいえば、と。銘文は言う。


「この策は――詰めの部分を誤らねば、満点の策であったな」


「.....誤り、だと」


「そう。何が誤りか、その身を以て教えてくれよう。――ところで、龍源道」


「何じゃ?」


「お主は、魔王も泉生も滅びた後も――何故残党に付き従っておるのだ?」


「.....」


「お主は泉生の領の為に魔王側に付いたはずであろう?魔王も泉生の双方が滅びた後まで付き合う義理は無いだろう?」


 ――かつて。己は泉生の将であり。銘文の友であった。


 だが。己が生まれ故郷である泉生は、魔王側に付くことを決断し。玲瓏は魔王に反旗を翻した。


 そうして。――友は玲瓏を守り抜き。己は故郷も身分も全てを失った。


 問いかけへの明瞭な答えはある。だが――その答えは、沈黙の下に埋めた。


「何故。そうしたのか吾輩には解るぞ、龍源道。――ただお主は、人生の最後に儂と決着をつけたかったのだろう」


「.....」


「顎砲山に仕込んだ”竜”の紋章を見た瞬間。ああ、龍源道かと。そう思った」


 それがお主の詰めの甘さだ、と。そう龍源道は言う。


 石畳の道は終わり。閑散とした砂利が敷き詰められた場に、佇む塔が一つ。


 龍源道は――塔の閂を抜き、門を開ける。


「もし、この策を実行したのがお主ではなく別の者であるならば。仕込んだ策に他の可能性もあった。領主の倉峰様の暗殺か。はたまた所領そのものへの攻撃を仕掛けんとするのか。――だがお主であると解ったが故に。狙いは吾輩と、この塔であると絞り切れた。お主が来たのならば、吾輩以外に目的を持つ事はあるまい」


 銘文は――塔に入って来いと、龍源道に手招きをする。


「この塔は、吾輩にとっての全てだ。入鹿が歩んできた魔道の歴史。屍となった人間が積み上げてきた堆積。これを守る事こそが、入鹿の当主が役割よ」


 あまりにも気味が悪かった。


 己が全て、と嘯きながらも己が敵を塔の中に招き入れる様が。何処か達観したような、楽し気で儚げなその様相が。


 銘文は、仇敵として龍源道を見ていない。かつての友として、龍源道と言葉を交わしている。


 眼前の存在が――己が全てを奪わんとしている。その事実を理解した上で、である。


 冷静に考えれば。塔そのものに罠が仕掛けられているとでも考えていたであろう。そうでなければ――塔にわざわざ招き入れるなど、あり得ない。


 だが。龍源道は理解できていた。罠などではない。もっと、根本的に銘文は――龍源道の心内に斬りかかる何かを仕込んでいる。


 息を呑み――塔の中へ、龍源道は足を踏み出す。


 そこには、


「――は?」


 ただただ、空洞だけがあった。


 塔を埋め尽くす膨大な書架。そこに集められたあらゆる魔道書。その全てが――ここに、存在しなかった。


 


「塔に貯蔵されていた全ての魔道書は、転移させた。――吾輩が、霊媒機構へと依頼をかけてな。そして、入鹿は――倉峰様が領主でなくなった後の世では、機構の管理下に入る事になるだろう」


 だから、と。入鹿銘文は続ける。


「ここにはもう――何もないのだ、龍源道」


 



 


 その言葉を聞いた瞬間――龍源道はこめかみに青筋を浮かべ、銘文の胸倉を掴みかかった。


 


「――銘文!貴様、入鹿を捨てたのかァ!」


「.....」


「何故だ!ここは入鹿の全てで――お前の全てではなかったのか!それを....!」


 入鹿が紡いできた、兵法指南役の歴史。それは、常ならぬ研鑽の歴史である。


 玲瓏を支える氷雪の魔道。そして、入鹿に殉じ死んでいった者達。その魂の代替が、この塔にある全てにあったはずで。


 それを受け継ぎ、守り抜く事こそが。入鹿の当主たる銘文の役割であったはずで。


 それを――この男は。よりによって、異国の機関に預けたというのか。


 たとえ、後々には返される事になろうが。”所領を護る為に、己が魂を他者に委ねた”という時点で、武家に生きるものとしてあり得ぬ行為だ。


「そうだ。吾輩は――全てを捨てた」


「な....!」


「何故だか解るか、龍源道。――もうそれは、過ぎ去るべき過去の堆積であるからだ」


 ――我等の目は、最早曇り切っている。


 そう、寂し気に入鹿銘文は続ける。


「戦の為に生まれ、戦の為に生き、戦の中で死ぬ。ずっと。ずぅっと。そうして我等は生きてきた。殺す為の技を磨き、殺す為の技を伝え、殺しながら死んでいく。殺す為に生き、死んでいく。それが定めであった」


「何の話をしている....!」


「だがもう終わりだ。戦は終わり、領主もいなくなる。この殺しの輪廻より外れた時代が――ようやっと来るのだ。龍源道よ。武をもって威をなし、その身を、魂を立てる時代は終わった。故に、まず吾輩は自ずからその在り方を捨てたのだ」


「....」


「だがな。もう吾輩は――これより先を生きる術は知らぬ。故に途方に暮れているのよ」


 だから、と。銘文は続ける。


「最後の最後。――吾輩は吾輩らしい最後の戦に挑もうと思うた」


「ふざけるな.....!」


 龍源道は――何故、己がこれほどに怒っているのかが理解できていた。


「貴様は、儂が欲したもの全てを手にしていたではないか....!」


 己の人生において最初にして、原点ともいえる敗北を味わわせた眼前の男は。己が辿りたいと願った人生そのものを送ってきた。


 武士の本分を。魔王を前にして膝を折ることなく、戦い続けてきた。己が主の為に、所領の為に、命を懸け続けてきた。その戦いが実を結び、故郷を護り切った今を迎えられた――そんな、人生を。


 己も――そう在りたかった。それでも、そう在れなかった。


「だから....儂は、お主の全てを奪いたかったのだ....!憎らしくて、妬ましくて、仕方がなかった....!だから....!」


 己も、そう在りたかった。泉生と玲瓏が手を組み、共に魔王と立ち向かえられたならば。玲瓏で出会った恋人と添い遂げられたならば。故郷を、滅ぼされずに済んだのならば。


 きっと。こんな惨めな思いをせずに済んだのだろうに。何より惨めなのが――こんな思いを、己だけが味わわされているという現実を受け入れられない己の心内が。


 だから。己と同じ代物を、味わわせようと――この戦いに挑んだのだ。


 この男の全てであり、象徴。入鹿の塔に収められし魔導書の全てを奪い――魔王の残党のものとする。


 そうすれば。この男の心にも、己が味わわされた妬み憎しみを味わわせれば。己が心に巣食う惨めさに、少しでも救いを与えられるのではないかと――そんな、事を....。


「銘文....お主にとっての全ては――簡単に捨てられる程に、軽いものだったのか.....?」


 龍源道は目元を歪ませ、涙を流して。そう銘文に問いかける。


 己が必死になって奪おうとしたものは――この男にとって、自ずから捨てられる程に――!


「そんなにも....無意味な、ものだったのか.....!」


 掴んでいた胸倉を放し。龍源道は己が両膝をつく。


 その様を――ただただ、銘文は見ていた。


「龍源道よ。――我等二人は、もう意味のないただのちっぽけな老人だ」


「.....!」


「戦の為に生まれ、戦の為に死んでいく。それを意味と捉えて、これまで生きてきた。――その意味が、もう無くなった。意味を失った、ただちっぽけな男だよ。だから。吾輩も、お主も。何も変わらない。無意味よ。だから――吾輩は。もう捨てたのだ。己が全てを。殺す為に生きてきた堆積の全てを」


 意味。生まれてきた意味。死んでいく為の意味。戦の最中にて生まれた二人は、意味が付随して生まれてきた者共であったのだ。


 付随してきた意味がなくなり。無意味な老人がただ残された。それ故の空虚を、銘文はただ認識していた――。


「中野龍源道。吾輩はお主に最後の戦いを挑む。この戦いに、意味など無い。お主は失った。吾輩も捨てた。そういった――意味に囚われる事無く、果たし合いたいのだ」


 己が所領を護るためではない。当主としての役割を全うする為ではない。


 ただ――人生の最後。ただただ、最後の相手として。意味から解放された戦いを所望したのだ。


 


「友よ。――それでも受けてくれるか」


 ――今この瞬間。中野龍源道が入鹿銘文に挑みかかる大義は失われた。


 魔王の残党として。入鹿の魔道書を全て奪うという、最初の目的は失われた。その目的は、龍源道という人間を読んだ銘文によって、全て潰された。


 己が心に巣食う惨めさを晴らすという、その願いはもう叶わなくなった。


 ―ー龍源道は己が左脇に差した小太刀を、無言のまま逆手にて握り込む。


 その姿を見て、銘文は一つ頷き。龍源道と相対しながら、距離を取る。


 一定の距離を取ると――銘文もまた。己が太刀の柄を握る。


「――もう、儂には何も残ってはおらぬ」


「吾輩もだ」


「ならば.....せめて冥土には、共に来てもらおうか。銘文!」


 ――噛み締めるような。それでいて、吹き抜ける風のような。


 腰を落とし、互いの得物が引き抜かれる音が、静かに響くと共に。


 剣戟の音が、激しく鳴り響いた。

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