第11話 生き延びよう、諸共に
己が本当の親を、彼女は知らない。
物心つくよりも前に、彼女は山の中で猿と共に暮らしていた。
その猿は、尋常のものではなかった。彼等は口は利かぬが、言葉を解していた。彼女にとって、己が家族は猿であった。
過ごしていた山を戦により荒らされ、家族も殺され。生き残った一人と一匹は、北方の地に逃げ込み。入鹿に拾われる事となった。
同じような者が、現れた。
入鹿来禅が戦場にて拾いし白髪の少年。己を鷹に変える魔道を持ったその少年は、拾われたその日より来禅の弟子となった。
その日より。少年の青痣塗れの身体に、更なる生傷が増えていく。来禅の修練は過酷を極め、心肺が停止し死の直前まで追い込まれたことが幾度もあった。
それでも。少年の心が折れる事は無く。命が果てる事も無く。
同じように故郷を失くし。同じように拾われた少年は。──入鹿の中であっても、更に過酷な境遇の中にいた。
いや。飛び込んでいた。
修練の日々の最中。その変化は生傷が増えていくばかりではない。表情が消え。目つきは日に日に鋭くなり。いつしか、所以も解らぬまま顔面の半分が焼け爛れていた。
されど日々が過ぎていく中で。少年は間違いなく強者へ成っていった。僅か半年もしないうちに、師範以外で少年に体術で勝るものはいなくなった。そして一年が経つ頃には、詠唱も紋章もなく、氷雪の魔道を行使するようになった。これは師範を含めても、八柳以外には出来ぬことであった。
ある日。如何ほどの修練なのか、見た。
それは至極単純なものであった。そして単純であるが故に、苛烈であった。
少年が動けなくなるまで、師である来禅と果たし合う。
少年は己が身につけた全ての技巧を用いて攻め、来禅はひたすらに受ける。攻めの中途で致命的な隙があらば、来禅が打つ。
そこに言葉は無かった。来禅の鉄杖が少年を打つたび、無言にて”戦ならば死んでいた”と静かに伝えていた。
かつては精悍な見目をしていた来禅が、少年を弟子にしてから髭も髪も伸ばし、野武士の如く変貌していった。
幾度となき戦いの果て。痛みに耐えながらもがき抗う少年が、それでも身体が動かなくなった時。その時修業は終了する。
そうして意識を手放した彼を、何故かは解らないが──来禅と同格の師範の肩書を持つ八柳が連れていき、介抱をしていたという。
「あ奴は、戦で死ねれば上等だと思っておる」
修練の後。来禅はそのような事を言っていた。
「だから。──俺は意地でも戦で奴を死なせぬと決めた。戦で死なせるくらいならば、俺が殺す」
それがどのような感情なのか──その時には理解し難かった。
「.....ぐ」
牙を剥いた毒蛇の群れが濁流となり襲い来る。
赤猿は、まず糸を展開し蛇の濁流を押し留め。押し留められずなお肉薄するものを二振りの鎌で斬り裂いていく。
その二つの過程を経てもなお追い縋る蛇の牙から──せめて致命傷を避けるべく首回りだけは噛まれぬよう、両手を交差させ保護する。
腹部。右手。右足。赤猿の肉体を噛む蛇は三つ。それ以上が肉薄するよりも前に、大猿が蛇を斬り裂き赤猿を抱えその場を脱する。
三匹分の蛇から流れ込んでくる毒。その効果を、赤猿は見ていた。
「....これは」
毒への耐性を高める修練を積んできた赤猿であったが。噛まれた傷痕から血はとめどなく流れ。全身には倦怠感と痺れが走り、視界はぼやける。
猛毒が己の肉体を駆け巡っていくと共に、五感が鈍っていく。このまま動き続ければ──己が命は消える。そう確信を覚える。
──策の掛け合いでも、上回られたか。
糸を周囲に巡らし、破壊させる。そこに白鷹の魔道を仕込む事により、氷雪の魔道を相手に仕掛ける。
赤猿の糸が相手に通じない。そこを逆手にとった策であった。相手の膂力により壊されるのであるならば、魔道を仕込む為の罠に用いる。
だが、糸に何かがある事は読まれていたのだろう。だから、牛太郎は得物で破壊するのではなく。魔道の行使の起点となる右手にて糸を千切った。
その結果。こちらの魔道は通ったが──赤猿が毒を喰らう事となった。
利害を考えれば、明らかに相手の利が勝る結果となった。
「赤猿.....くそ...!」
この戦い。元より白鷹と赤猿は危うい均衡の上での戦いを強いられていたが。遂に、己が足元にあるか細い細縄が切れる所まで来た。
数の利があってようやく成り立っていたこの戦い。最早、犠牲なしの勝利は望めぬと──そう白鷹は感じていた。
故に。この時点で白鷹の頭の中での思索は──勝利よりも、何とか赤猿をこの場から逃がす方向へ舵を切っていた。
千切れ飛んだ糸から逃れ、着地した場所。──そこには、竜が象られた転移の紋章があった。
足元の紋章を一瞥し、白鷹は唇を噛む。
──ここで二人諸共に死ぬわけにはいかない。この情報は持ち帰らねばならない。
氷晶結界を抜け、侵入してきた者がいる事実。転移の魔道が行使された可能性。そして──この不可解な、『書』による召喚。持ち帰らなければならない情報が多すぎる。何をもってしても、片方は生き残らねばならない。
「──さて。もう相方は使い物にならないようだが。まだ方策はあるか?」
笑みを浮かべ、藍坂牛太郎が白鷹を見ていた。
この男もまた──敵方の状況が絶望的である事を、理解しているが故に。
「....大技を切ったのは、お前も同じだろが」
「ああ。俺の命の刻限も残り少ない。──あの大猿と赤の忍を見捨てて無様に逃げるのならば追わないでいてやろう。そこまでの余裕は俺には無い」
「...」
とはいえ。牛太郎もまた、ここに来て毒蛇の召喚という大技を切った。召喚体であるこの男がこの世にいられる刻限も残り少ない。白鷹が逃げれば、生き残れるだろう。
その場合残された赤猿は、確実に殺されるであろうが。
「馬鹿が。──誰が逃げるか」
天啓であろうか。その瞬間──白鷹の脳内に、一つの方策が浮かび上がる。
己が命を差し出し。赤猿を生かす。そして、この男を殺しきる。そんな方策を──思い浮かべてしまった。
今この瞬間。この状況でなければできない事。猶予はない。即断が求められる。
──やる。
白鷹は、敵の立ち位置を確認すると共に──眼前の敵を、強く、強く、睨みつけた。
「む....」
白鷹が牛太郎に仕込んだ氷雪の魔道。白鷹の睥睨に反応し、効果を強めたそれは。ほんの一瞬だけ牛太郎の肉体を硬直させた。
首を狩るには、少なすぎる一瞬。この時間を用いて──白鷹は地面に膝をつき、足元にある紋章に左手を付けた。
──やるしかない。
「童....。貴様、何を....!」
命を捨てる決断そのものは、反射の如く行われた。赤猿を生かし、この窮地を脱するにはこの方法しかない。他の策が後に思い浮かぶ保証もない。この機を逃せば、諸共に死ぬ運命しか残されていない。ここまでの戦いの中、この男に全てが上回られた。ならば、己が命を捨てずに勝てる方策を望むべくもない。そう──本能で、理解できていたのだ。
だが、いざ捨てるとなった瞬間。──胸の奥に去来するものがあった。
「....」
戦が終わった後の日々。皆で飲み明かした、とか。祭がようやく開かれると喜ぶ村人の姿だとか。馬鹿な騒ぎを起こして、いつもの如く師に制裁されている兄弟子の姿だとか。
──白鷹の言葉ならば、全てを聞きます。だから、八柳の言葉も聞いて頂けるととても嬉しい。
そんな言葉を、投げかけてくれた記憶だとか。
それらが飛来し。眼前に現れた瞬間。自然と、言葉が心中に生まれていた。
「申し訳ない、八柳....」
声に出せなかった言葉たちは、胸の奥に降り積もる。己が死ぬ事によって、八柳がどうなるのか。どれだけ声にならぬ言葉が降り積もっていくのか。想像できてしまった。
目元が吊り上がる。鼻がひくつく。口元が歪む。今己がどんな表情をしているのか。葛藤がただ脳内を駆け巡る。
それでも──己は止まらない。死にたくない、という意思より。死なせてはならぬ、という意思が──どうしようもなく勝ってしまう。それが、白鷹という男であったが故に。
「成程...」
そんな言葉が、聞こえてきた。
毒でぼやける視界の最中。呂律すらも怪しくなってきた赤猿の声。それは弱弱しくも、はっきりとした意思が感ぜられた。
「これは...死なせるわけには、いかない」
大猿に抱えられた赤猿が、震える指先を白鷹に向けていた。
その指先からは、白色の糸が伸び──地面に付いた、白鷹の左腕に絡みついていた。
「赤猿...!」
糸を辿り、白鷹の肉体に通じ、そして紋章へと。
赤猿は魔道を発動する。
竜の口を象った紋章に己が力が流れ、光が満ちる。
「....二人、生き残れる道筋はある。安心してそれを仕留めよ。白鷹...!」
毒に蝕まれた己の肉体に更なる負荷がかかる。蛇の噛み口から更なる血が流れ、脳を起点に激痛が全身に巡る。自身の肉体が拒絶する力の奔流を感じる。それでも──赤猿は笑う。笑いかける。
己が言葉を、白鷹に信じさせるために。
そう言うと共に。
紋章内に満ちた光が消えると共に──白鷹と、牛太郎。双方の肉体がその場より消えていき。
赤猿は血涙と共に、膿のような血溜まりを口先から吐き出していた
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