第10話 ”蛇”の将、その神髄
──”蛇”の紋章は、本当によく出来ている。敵ながら、あれは本当に凄い。
──蛇という生物が持つ実際の機能と、神話的側面を全部この紋章が効果として再現している。鱗を纏う事による身体性能の向上と、表皮の硬化。毒性の付与。再生機能の向上。そして、一たび死のうとも生命を回帰させる機能。ただ一つの紋章で、こんなにも様々な効果を発揮する紋章だ。間違いなく、傑作の紋章の一つだろう。
──皮膚を硬化させる魔道は幾つか知っているが。蛇の紋章は硬さに加えて、柔らかさもある。硬くなる事で、手足の操作の制限が生まれない。銃弾も通さないのに、体が重くなるどころかむしろより俊敏に、滑らかに動けるようになる。
──白鷹。お前を拾ったあの戦場。俺達はかなり追い込まれていてな。玲瓏の氷雪魔道も、蛇の紋章の外皮に弾かれて手も足も出ず。最終手段として、敵兵を領内に入れて区画一帯を氷晶結界で囲んだんだ。蛇の紋章は万能ではあるが。それでも限界というものがある。氷晶結界により紋章を耐寒能力の向上に割かざるを得ない分、硬さそのものは脆くなった。ここまでやってようやく、勝負になった。氷晶結界は、寒さに強い入鹿の兵にとっても一日保つかどうかの危険な結界。この策を親父殿から聞いた瞬間、遂に気が狂ったかと思ったもんだがな。随分とうまくいったもんだ。
──だがなぁ。あの時俺があの男を殺し損ねていたら、間違いなく玲瓏は魔王の軍勢に滅ぼされていただろう。一度目は殺せる確信はあったが、二度目は解らなかった。あの時、最初の交戦で左手が使えない状態だったからな。お前が目を潰してくれて助かったよ。
──藍坂牛太郎。お前にとっちゃあ人生最悪の相手だろうが。俺にとっちゃあ、極上の相手だったよ。一見すりゃあ豚の見目だが。ありゃあ鬼だ。
「が....!」
鱗を纏った膝が白鷹の腹を打つ。ただそれだけで、紙細工のように白鷹の身体は宙を浮く。
膂力がまるで違う。まさしく、鬼だ。
振るう暴力一つ一つに暴風が纏わりつく。まともに一撃を貰えばそのまま黄泉へと真っ逆さまであろう。か細い命綱の上に、今自分は立っている。
宙に舞う白鷹に、追撃の一撃を見舞わんと。牛太郎は得物を振り上げる。
その刃が白鷹の肉体を斬り裂く寸前──その動きが、一瞬止まる。
「.....させない」
剣を振るう右腕に絡む”糸”が、剣の動きを一瞬だけ留めていた。
赤猿が持つ、糸の魔道。二点の空間を指定し、その間に糸を張る。糸の強度は高く、刃も通さない。怪力を以て引きちぎろうとすれば、恐らくはその手から先にズタズタにされる。
されど、
「無駄だと解らぬか!」
牛太郎は、容易く己が膂力を以て糸を引きちぎる。己が怪力と、そして蛇の鱗を以て──その肉体に傷一つつける事も無く。
糸により牛太郎の右腕が止まったのは、一秒にも満たぬほんの一瞬。
だが、その一瞬で十分。
「無駄かどうかしっかり見極めろ、この豚野郎」
白鷹は己が左手から周囲の水分を凍り付かせ、氷の壁を作り出す。空中にて身動きが出来ぬ状態から、氷の壁を蹴り上げ斬撃を掻い潜り地面へ降りる。
振り上げの斬撃が行使される中。白鷹は着地と同時に地面を蹴り上げ、牛太郎の足下へと潜り込む。
瞬間──ビキ、という骨が変異する音が白鷹の耳朶を打つ。
それは──牛太郎の右足が変異した音であった。右足の甲よりくるぶしの間に、白色の牙が浮かび上がる。
「何を吠えようと、無駄なものは無駄だ」
牙が生まれた右足が、腰回転と共に白鷹に襲い来る。
その蹴撃が白鷹の身を打つと共に──紋章が浮かぶと同時、その姿が雪の中に消えていく。
「む──」
それは、雪霞の術。術者自身を投影した氷雪の幻影を作り出すと共に、術者の肉体を一瞬空間に溶け込ませ覆い隠す忍の術。白鷹は、これを行使していた。
霞に隠された白鷹は牛太郎の蹴りを飛び上がり避けた後。その足を左手にて掴む。
蹴りの勢いで吹き飛ばされぬよう。掴んだ指先に氷を纏わせ、凍り付かせ接着させながら。
蹴りが振り切った後。白鷹は氷の魔道を解除し、飛び込む。
──奴の剣は振り切っている。蹴りも避けた。得物も、足も、この一瞬だけは封じた。
奴の首を守るものは、もう何もない。今が、好機だ。
短刀の切っ先を向け、白鷹は牛太郎の首へ突きこもうとするが──。
「ぐ....が.....!」
白鷹の右腕に衝撃が走ると共に、纏わりつく何かがあった。
それは、蛇の尾であった。
牛太郎の背より生え出た蛇の尾が、首を斬り裂かんとした白鷹の右腕を打ち、絡みつく。
その尾に付着した細かいヒダが右腕の肉にめり込み。締め上げる力が骨を軋ませ、うっ血させていく。
されど。白鷹の右腕が破壊されるよりも前に、駆け寄ってきた大猿によって、尾に大鉈が振り下ろされる。
大猿の一撃により断ち切られた尾は、そのまま地面に転がる。
──いい傾向だ。
仕留める絶好の好機を逃した白鷹であったが、それでも状況は良くなっていると感じていた。
──奴は強いが。あくまで『書』によって呼び出された召喚体だ。時間経過と共に消える。紋章の力を使いすぎれば身体を維持できなくなる。このまま、力を使わせ続ける....!
召喚の魔道によって呼び出された召喚体は、術者により召喚を破棄されるか、術の効果の消滅するかによって消える。
今回。何らかの方法により術者なしによる召喚の行使が行われてしまったため前者の方法で消える事はないが。それでも、永遠に奴が肉体を維持する事は出来ないはず。
今の所、蛇の紋章の特性の一つである”毒性”は付与されていないが。今のように紋章の力を別の形に転用しはじめている。この状況が続けば、かつて入鹿来禅との戦いで見せた死から再生する魔道を行使する余裕もなくなる。
──このまま。奴に力を使わせ、この世にいられる時間を削っていく。
「....」
存外、愉しめている。そう藍坂牛太郎は思っていた。
──油断しなければ仕留められる事はない、が。このまま戦い続けて不利を背負うのは俺の方か。
こちらは致命傷を与えられる以外に、時間経過による消滅も敗北の条件となる。
牛太郎がこの先やらねばならない事は。眼前の敵を排除した上で、『書』を教団側に回収される事。入鹿側に『書』を取られたり、破損させるわけにはいかない。このまま時間が長引けば、己は『書』に戻ってしまう。そうなれば終わりだ。
彼としても、この戦いは多くの制限が付与されていた。
左腕は『書』を掴んでいる為使えない。負担の大きな大技は己の命を縮めていく。たった今、紋章を使い尾を作ったのも、不本意なものであった。この二人を始末した上で、己は入鹿の手勢に回収されない位置で『書』に戻らねばならない。
──だが、好い。これで好い。これが好いのだ。不本意こそ、戦場よ。
弱者を蹂躙する事も。強者と斬り結ぶ事も。双方とも彼にとっては至極の悦楽である。今彼の中にある喜色は──明らかに後者の色に変遷しつつある。
──しかし不思議なものだ。たかが寵童に、あれほどの才が眠っていようとは。
気まぐれに生かし。気まぐれに弄んだ寵童。戦場に乱入し己が両目を潰したあの時より如何ほどの時間が経ったのかは知らないが。今や入鹿の魔道と忍の技法を手にし、己が敵として立ちはだかっている。
尾を断ち切られた後、牛太郎は即座に再生する。己が命の刻限を削る選択であったが。ここはするべきであると判断した。
体幹を回し、尾を半円に回転。懐に潜り込もうとする白鷹と赤猿を薙ぐ。同時に己が得物を構え、前進。
尾による横薙ぎを飛び上がり回避した赤猿は、左手にて印を結ぶと共に、右手で空間上に張った糸を生成。そこに足をかけ、牛太郎の頭上に位置取り合掌する。
合掌と同時。牛太郎の四方を囲う形で、四体の猿の影を召喚する。
その影一体一体が袴を着込み、その脇に二振りの鎌を差している。
召喚された影は、されど得物を手にすることなく。赤猿と同じく左手にて印を結び、右手で糸を生成する。
影は、牛太郎の周囲を駆け巡り糸で囲んでいく。
その糸を足場に、赤猿と白鷹が躍動する。
空中を駆け、牛太郎の斬撃の隙間を潜り抜けながら、──狙いは変わらず首か、目か。狩り取る機を探り続けている。
──赤の忍は搦手と不意打ちが得意なのであろう。斬り合いは然程強くないが、前で戦う童の補助を行いつつこちらの動きを制限させにきている。強さの芯の部分に老獪さがある類の者。
──童は印も詠唱も不要の氷雪魔道を用いて、正面からこちらと渡り合っている。短刀を用いた剣技も並々ならぬ腕を持っている。赤の忍との連携の起点となり続けている。
この両者に加え、大猿の存在もある。あの大鉈による斬撃は、こちらの鱗を砕く膂力がある。
厄介。ただ飛び回るばかりの羽虫ではない。身軽であるが、その強さに重厚な芯が通った忍であった。
──しかし。まだあの領域には至っていない。あの男、入鹿来禅には。己が命を終わらせた、あの男には。
あの童とはまだ後に出会いたかった、と。そう牛太郎は思った。かつて己が弄んだ童に宿る才覚──ここで殺すには、あまりにも惜しい。
だが。やらねばならぬ。それが戦の理であるが故に。
「その糸に、如何なる姦計が仕込まれているか」
眼前の戦を食らい尽くす。そこに立つ者の宿業ごと、燃やす。その者との斬り合いも。そして渦巻く姦計すらも。
──先程、俺が糸を千切った瞬間を見ていたであろう。今更容易く千切れるもので俺を囲ってどうするつもりか。
赤の忍が呼び出した猿の影が周囲に張った糸。周囲の足場を増やす意図で作ったものかもしれぬが。牛太郎にしてみれば得物を振れば簡単に壊れる頼りのない足場でもある。
故に、強烈な意図をそこに感じてしまう。
容易く壊れるもので囲うのであらば。壊された後への布石がそこにあると考えるべきである。
匂い立つ姦計の香り。この糸を破壊した後に、恐らく己に降りかかる災厄が存在している。
こういう時。己であらば。鬼ならば。魔王軍の将であるならば。──藍坂牛太郎であるならば。
──姦計を恐れ縮こまるのではなく。食らい尽くす。
「確かめてみようかァ‼」
藍坂牛太郎は、己が得物である肉斬り包丁を地面に突き刺し。空いた右手にて──己を囲う糸を握った。
──どうだ、童。これが俺の戦よ。
──糸を破壊する事までは推測できていたとしても、それを得物ではなく右手で行う事までは読めなかったであろう。不可解であろう?
──この不可解に、俺の姦計が仕込まれている。策の匂いを嗅ぎ取ったならば。己もまた策で返すのみよ。
糸を握る瞬間。藍坂牛太郎が詠唱を唱えると共に、頭上に紋章が現れる。
紋章に描かれた蛇の姿に、変異が訪れる。
蛇の目から血涙が流れ。開かれた口より鋸の如き牙が生え揃っていく。
糸が引き千切られた瞬間。牛太郎の肉体の内側に、氷の冷たさが雪崩れ込んでくるのを感じた。
「──成程。よい姦計だ」
この術に覚えがあった。
己が果てた戦場にて、瞳術を宿した少女が使用していたもの。
外側から冷やすのではない。相対する者の内側より冷気を生み出し、体温を奪う。この魔道により、体温を保護する鱗を纏いた己が軍勢の多くが斃れた。鱗で外側からの冷気に対抗できようとも、内側から冷えるのではどうにもならぬ。
あの少女は、対象を見る事により内側に氷雪を送り込む。今回は──恐らく童が、赤の忍の糸に魔道を仕込んでいたのであろう。糸を破壊した瞬間に、発動する魔道を。やはり、あの糸は姦計であった。
己に流る血も。その血が巡る臓腑も。底冷えし、体温が奪われていくのを感じる。己が肉体が死に近付いていく。その実感が全身に巡っていく。
だが。実際に死ぬ事は無かろう。そこまで強力な術をあの童は使えまい。精々、こちらの動きを鈍くさせる程度で、それも時間経過により解ける。──あの少女が用いていた絶技を、易々とは扱えぬ。
されど、動きを鈍らせればこちらの首を狩れる機会も増える。肉体に負担をかければ牛太郎が『書』に戻る刻限も狭められる。──まさしく、状況を変える一手。
故に。差し出された一手へ返す駒を、牛太郎は差し返す。
「──この俺の返し刀に、喰らい尽くされねばなァ‼」
糸を千切った右手。そこから──牛太郎は魔道を行使する。
変異した紋章から空間が歪み、血が染みた墨汁の如き暗澹が広がると共に──濁流が流れ来る。
それは、空間を這う毒蛇の群れであった。最早数え切れぬ程の数が、一つの川となりて、堰を切り濁流と化す。
それが向かう先には、
「.....赤猿!」
赤い忍がいた。
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