第7話 ”何もない”という事

 己が不幸の最中にある時、他者の不幸を願う。


 自分がかつてあった在り方はその延長線上にあるものだと白鷹は思っている。


 ──俺を地獄に陥れた連中を許さない。必ず地獄に陥れる。その為ならば、更なる地獄に落ちていっても構わない。


 心の底からそう思っていた。死んだ家族や故郷の事など、時間が過ぎるごとに忘れていった。


 擦り切れていく。


 己の記憶に、己に降りかかる代物が日々降り積もるたび。虐げられ、嘲られ、殴られ、犯され、今日が過ぎゆくを待って明日が来ることを恐れた日々の積み重ねが。──始まりの記憶を奪い去っていった。


 いつかはあったかもしれない。親兄弟や故郷の為に復讐を願う心が。


 しかし。いつしか──思い出は擦り切れ、家族の顔も故郷も忘れ、己の中に日々積み重なっていく屈辱や苦痛の記憶で塗り潰されていった。燃え滾るようなどす黒い思念が、己を動かし続けていた。


 己を不幸にしたものが幸福である事が許せない。奴等の幸福を奪えるものならば。どれだけの苦痛に塗れようとも構わない。如何なる苛烈な修練も、耐える事が出来た。血反吐を吐こうが、肉が裂けようが骨が砕けようが絶叫と共に喉が潰れようが。己の奥深くに根差した呪いが、己を奪ったすべてを不幸にせんとその足を歩ませていた。


 魔王が死に絶えた時。


 自らを突き動かしていたどす黒いものが霧散していった。


 それらが消えた時。擦り切れて何もかも無くなった己の内側を認識してしまった。


 何もない。生きる目的も。生きていく指針も。何もかも。あるのは、もう着火剤を失った火種のみ。


 魔王の残党がまだいる、と。そう告げられた時。


 またこの火種が燃え上がってくれるのではないかと。そんな事を期待していた。


 けど。


 ただ少し燻ぶって。後は空っ風と共に消え去っていった。


 ああ。


 ──本当に。俺の中にあるものは、全部擦り切れてしまったのだなと。そんな事を思ってしまった。


 


「魔王の残党がいるって聞いた時。期待してしまった。またあの時に戻れるんじゃないかって。──でも、戻れなかった」


「....」


「その事に、少し惑ってしまった」


 


 以前のような呪いのような、煉獄のような、身を蝕むような執着心がない。魔王の残党がまた別の形になって表れてしまったというのに。


 最早、今の自分には何もないのだという事実を眼前に突き付けられた。


 


「まあ、何というか....。そういう、俺の個人的な問題っていうだけで。任務に支障をきたすものではない。ちゃんと仕事は全うする」


 


 ただ、と。白鷹は自嘲気に続ける。


 


「魔王の残党を相手にするかもしれないのに.....それがただの仕事以上でも以下でもない代物でしかなくなるくらい、もう心が冷め切ってんだな、って。そう思っただけだ」


 


 言葉を言い終えて、八柳を見る。


 八柳の表情は変わる事はない。そしてジッとこちらの言葉を聞き入っているその姿からは、何を思っているのか推察する事も出来ない。


 どんな言葉が返ってくるであろうか。己の胸襟を開き、迎え入れた先。そこから漏れ出した内側の部分を見て。この無表情な少女はどんな風に思ったのであろうか。


 内側に踏み込む不安を八柳が感じていたように。そこに引き入れた故の不安を、白鷹は感じていた。


 八柳は。自らの両手を強く握って。言うべき言葉を纏め、喉奥へと運び、そして──言葉を紡ぐ。


 


「白鷹。何もない、というのは悲観すべき事でしょうか?」


「....え?」


「八柳は──相手に報いを与えんとする心は理解できます。復讐などやるべきではないなど、口が裂けても言えない。八柳もまた報いを与える為にこの力を得たのですから。しかし、白鷹にとってのそれは至極苦しいものだったはずです」


 


 ──いわば、沼底のようなものです、と八柳は言う。


 


「這い出る事も、呼吸する事も許されない沼の中で足掻き続ける。そういう苦しさの中で生きてきて。──白鷹はようやくそこから抜け出したんです」


「....」


「抜け出せたから何も無いんです。何もないのなら、これから何かを積み上げる事が出来る。暗く深い胎内から漸く出てきて、青空を仰いで息吹き産声を上げる赤子の姿に虚無など感じない様に。今の白鷹の状況を見て悲観的になることなど、八柳にはあり得ません」


「そうだろうか.....?」


「はい。──そもそも、八柳は白鷹が”自分を不幸にした者を、更なる不幸に陥れる”為に復讐をしていたとは思えません」


「.....?」


「それが原動力になっているのならば。魔王の残党がまた現れた事実を前に怒りを覚えられない訳がありませんから。白鷹の原動力は、そことは別なところにあるはずです。それ位は八柳にだって解ります」


「あ....」


 


 八柳は、心の底から笑いかけたいと思った。


 存外、自らの心内というものは解らないものであると八柳は思う。自分から見ても心というものは形が見えない。自らの思考ははっきり解る分。それが先入観となりかえって己の心内が解らなくなったり、誤って認識したり。そんな事は当たり前のようにある。自分の心。自分を突き動かす原理。それは他人から見えないように、自分にだって見えないものだと。そう八柳は思う。


 笑いかけてあげたい。白鷹が思っている程、白鷹の心内は失われていないのだと笑みと共に伝えてあげたい。でもそれは自分には出来ない。


 だから、こうする他ない。表情で伝える以外の何かか、この場合必要となる。


 八柳は「失礼します」と呟き、座布団から身を乗り出し──膝立ちになって、白鷹の頭を抱いた。


 


「お、おい。おい八柳....!」


「こうして、一度八柳を助けてくれたことを今でも覚えています、白鷹。だからほんの少しでもお返しさせてください」


 


 ひんやりとした体温が、八柳の身体を通じて白鷹へと流れ。八柳には温かみのある白鷹の体温が冷たい己に流れていく。


 心地よかった。


 


「白鷹、先程八柳の舞を見ていたでしょう?」


「....気付いていたのか」


「はい。待って下さいといおうとしていたのです。でも言えなかった。その時に、言いようもない感情が八柳の胸の中に落ちていった」


 


 言えなかった言葉は、胸の内に落ちていく。そしてそれは淀みとなって胸の内に吹き溜まる。


 だから。言いたい事は言った方がいいのだ。それらを溜め込む前に。


 


「白鷹の言葉ならば、全てを聞きます。だから、八柳の言葉も聞いて頂けるととても嬉しい」


 


 お互いの胸の内にある淀みをまずは晴らしましょう、と。そう八柳は言った。


 淀んだ胸の内を抱えながら思考を巡らせば、それはただの懊悩となる。吐き出すべき言葉を吐き出し、溜まったものを晴らし、そこからもう一度己と向き合う。


 己が心内であろうとも。薄暗い視界の中で見えるものは、その影だけでしかない。晴らしてこそ、向き合えるものもある。


 八柳は、抱きしめていた両腕を、ゆっくり白鷹から離す。


 そしてその表情をジッと見た。虚を突かれた驚きの表情に、気恥ずかしさから来る紅潮した頬が見えた。普段あまり見られないその姿に、内心の感情が渦巻くのを感じる。苦しくも心地よい、溢れそうになる感情が。


 ああ、と心中呟く。


 たとえ己にないものであっても──やはり、人の表情の変化や機微を見つめるのはいいものだ、と。そう八柳は思った。


 


 ☆彡


 


「全く。人生七十年目にして、雪山を歩かされるとは思わなんだ。ひどいものね」


「可哀想にの」


「だがまあ人生というのは長く生きれば生きるほど、張りが必要なの。刺激がなくば脳も肉体も精神も魂も衰えていくのみよ。長命種どもの晩年を見なさい。何の反応も返さぬまま悠久の時を過ぎ、植物と変わらぬ生き方をしている連中もいる。長きを生くつもりならば、人生はより能動的であらねばならないのよ」


「流石。七十年も生きていてシワ一つないババアは言う事が違うのぉ」


「肌だけじゃないわよ。見なさいこの艶のある髪を。弛みのない肉を。そして見る事のないこの肉体の内側全て、私は”若さ”に満ちているわ」


「そりゃあよかったなァ。まあ見ろと言ったところで、──お互い皮膚から下は鱗のせいで何も見えないがのぉ」


 


 雪が吹き荒ぶ山の中。ローブを着た幼い少女らしき人物と隻腕の老人が、吹雪く風に巻かれながら歩いている。


 耐寒装備で全身を包んだ姿の中。微かに垣間見える目元の肌は──蛇の鱗で覆われていた。


 木々が揺れる。横殴りの雪片と氷が互いの肉体を叩く。視界を埋める雪交じりの突風で視界が靄がかる。深く積もった雪に足を沈めた途端、足元から凍り付くような冷気が運び込まれていく。


 それでも両者とも、迷いなく、淀みなく、その歩を進めていく。


 二人は──入鹿が敷いた氷晶結界の中を歩いている。


 結界に迷い込んだのであろうか。彫像の如く凍り付き、目を見開いたまま亡骸となった鹿が道端に転がっている。


 顎砲山の国境線上。二人は、生あるものの臓腑の底を凍らすおぞましき結界の中を歩いていた。


 


「加護が消えるまで、おおよそあと二日。それまでにこの結界を通り抜けなければお陀仏か」


「そうね。──私が気まぐれに貴方の加護を解いたら死ぬ事も同時に意味している事もお忘れなくね」


「そうなると結界を抜けた後に中継地点を作る事も不可能になるな。それでもいいなら好きにしろ」


「ふふ。まあそんな無駄な事しないから安心なさい。私は嫌いな人間か敵対する人間以外は殺さないわ。貴方はそのどちらでもないから」


「ほぉ。──ちなみに嫌いな奴とは?」


「えーっとね」


 


 嫌いな人とは──? その質問が飛んできた時、少女らしきその女は、少女らしからぬ笑みを浮かべていた。口元を上方へ歪ませ、嗜虐の喜びに満ち、その目に慮外の憎悪と一粒の喜色をないまぜにした、怪物の笑みであった。


 


「私より美しい女。私より若い人間。私より幸福を味わっている生命。心の底から愛し合っている男女。.....他に何かあるかしら」


「生き辛そうな感性しておるの」


「そうかしら? でも私はとても生きやすいと感じているわ。私より若く美しい者はいないし、私より幸福な生物もいないし、心の底から打算無く愛し合っている男女も今まで見たことないわ。私が最上に美しく幸福。その事実を前にすれば、何も恐れずに生きていける。万が一そんなものに会えば、殺せばいいだけ。何も問題ないわ」


「成程なぁ。確かにそこまで傲慢になれりゃあ、生きやすいかもしれんの」


「でしょう? ──さて、まあ精々死なないように歩き続けますか」


 


 〇


 


 そうして。


 少女と老人は、共に顎砲山の氷晶結界を抜けた。


 おおよそ三日続けての強行軍。彼等は凍える結界の山道を、一睡もせず通り抜けた。


 


「お疲れ様。さて私の仕事は終わったわ。後は貴方の番よ」


「はいよ」


 


 結界を抜けた後。二人は周囲に認識疎外の結界を張り巡らし、地面に紋章を描き始める。


 円状の外枠の中、古代文字とそれを繋ぐ線が張り巡らされていく。


 文字も線も幾つも重なると共に、紋章全体が一つの形が出来ていく。


 それは、大きく口が開かれた竜であった。


 長い牙。長い髭。そして蛇の如く長い舌先。竜に喰われる獲物の視点から見える光景を、紋章として拵えた代物。


 


「不思議な紋章ねぇ。テレポート系統の紋章は幾つか見たけど。竜の口を描いているものははじめてよ」


「叡の魔道は、その土地に伝わる伝承や信仰が基となって出来るものが多い。儂の生まれ故郷の泉生では竜の伝承があっての。湖に住まう竜が死した者の魂を食らい、その腹を通って黄泉へ送り届けられる。そういう伝承がの。そこからこの紋章が出来たのだ」


「へぇ」


「では”玉石”をくれ」


「了解」


 


 紋章が完成すると共に。老人は少女もどきに何かを受け取り、その中心へ向かい──受け取った何かを置いた。


 それは闇色の宝石であった。


 薄暗闇を包んだような宝石の中。血管のような赤色が張り巡らされている。いや、本当に血管なのかもしれない。その赤色は間違いなく管を通り流動し、脈打っている。


 置かれたそれが紋章に置かれた瞬間。宝石は砕け散り、赤色は油が混じったような粘性の黒色に変わり紋章に溢れ出していく。


 その黒が、紋章全てに行き渡った瞬間。老人は隻腕を己の眼前に持って行き、拝む。


 黒は光となり紋章を包み、魔道が発動する。


 淡い黒色が窓かけのように辺りを包み込むと同時。隻腕の老人が紋章の中から出てくる。


 


「中継地点は作った。これで仕事は果たした」


「ええ、お疲れ様。──これで教団の手勢を叡の中に送り込めるわ」


 


 そうして。少女もどきは──老人に先程使ったものと同じ。四つの闇色の宝石を手渡す。


 


「うむ。受け取った」


「で。──更に依頼を達成したら、追加報酬ね。励みなさい、リュウゲンドウ」


「了解。しかし、──東の僻地でしかない叡にここまでの手勢を引き入れるのは何故だ?」


「それは、ここが魔王・安雲華継の生誕地だからよ。我々は軍隊ではなく、教団。神を信奉する集団に必要なのは物語、神話なのよ。貴方の魔道と同じように──長く継承していかれるものには、物語が必要なのよ」


「物語、か」


「そう。魔王様はよく言っていたわ。──永遠に残るものは、継承されていく代物であると。この世がある限り消えないもの。自分が死んだとしても、忘られぬもの。悪辣な魔王としての神話は、もうあの人は遺した」


 


 ならば、と。少女もどきは言う。


 


「遺したものを我々が継いでいく。あの方を永遠のものとする為に。──だから。あの方の生誕地を我々が取り戻すという物語が必要なのよ」


 


 だから、と。少女もどきは言う。


 


「期待しているわよ、リュウゲンドウ」


「あい解った。では、次の仕事にとりかかろう」


「ええ。──入鹿家当主、入鹿銘文の暗殺と。入鹿家が保有する魔導書の奪取。これが、我々の次の仕事よ」


「心得た。ではアラン。まだしばし手伝ってもらうぞ」


「ええ。──私としても、色々と味見したいものがあるから。手伝えることは手伝うわ。手勢もここで増やす事が出来た訳だしね。今回の任務に、ホムンクルスの二人もつけてあげる。サービスよ」


「うむ。頼んだぞ」


 


 老人は事もなげに。変わらぬ調子で軽く手を振り、その場を後にした。


「....魔王様。アランは遂に、貴方の祖国まで参りました」


 


 ふふ、と笑みを浮かべ──黒き光に包まれた紋章を、うっとりと見つめ続けていた。


 暫し見つめ続けると。少女もどきは己が懐より、一冊の書物を取り出す。横綴じの書物。それは黒の装丁の上に、白色の古代文字の題名が書かれていた。


 


「──復讐の機会をあげるわ。精々暴れ回りなさい」

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