第6話 心内に足を踏み入れるという事
「....」
舞の稽古の途中。八柳は舞の稽古を見物し、そのまま屋敷に戻っていく白鷹を見ていた。
「....」
その姿を見て。胸中に浮かぶ感情の色を知る術を、八柳は持たなかった。
しかし。確かに喉奥を通りそうになった言葉があった気がした。”待って”と。
当然。その声が相手に届くわけもない為、言葉として出力される事はなく。喉から戻り胸中に沈殿していった。
喉奥まで来たものの結局出力できなかった声が溜まり、それが靄となる。そういう感覚を、八柳は今感じていた。
この感覚は何なのだろう、と思う。思うだけで声には出せない。またそれが胸の内に沈殿していく。幾つもの言葉が生まれ沈殿し、それは淀みとなり心中に広がっていく。
今まで味わったことのない、不可思議で、かつ苦しい感覚であった。己が胸の内。鼓動が鳴り響く場所に。あるはずのない空洞があるように感じて。その空洞には沼地のようにへばりつく靄がある。
その空洞の実在をせめて感じ取りたいと、八柳は無意識の中──己が胸を手に当てていた。
こういう事が、最近増えた気がする。
形に出来ない。言葉に出来ない。恐らく自分がその輪郭を把握していない。外に捨てられず内側に溜め込んだ何某かの感情の残骸。
こんなもの、無かったのに。己が心内は、己が顔面と同じ。小波一つ起こらぬ凪のようであったはずであったのに。
「.....そんな所で何をしているのですか、赤猿?」
思索の中、気配を感じ取り。八柳は社の梁の上で胡坐をかきこちらを見ていた、赤い忍の姿を見た。
忍は八柳に勘付かれた瞬間。梁に両足を掛け一回転し飛び跳ね、八柳の眼前に片膝立ちの状態で着地する。
「ご容赦を。八柳様が気付くまでの間、人間観察を行っていた」
「人間観察ですか」
「そう。人間観察。ワタシの生き甲斐。とても楽しい」
「それは良かったですね。それで要件は?」
「お伝えする事が。──ワタシと白鷹は、明朝顎砲山に入る事となりました」
「何かあったのですか?」
その後。八柳は、赤猿の口から──北方連合諸国から、魔王の残党の侵略者がいる事を聞かされた。
「....」
「明朝、ワタシと白鷹で調査を行っています。現在は、ワタシから各師範への伝達を行っている最中。八柳様も万が一に備えて頂きたく」
魔王の残党。滅びた魔王を主神とした教団の設立。──そして、そんな連中による玲瓏への侵略。
沈黙の中。八柳はまたも己が胸の内に溜まる何かを自覚していた。
それは先程のようなへばりつくようなものとは違う。溶岩の如く煮立った灼熱のような感情。八柳は、その感情には名前を付ける事が出来た。
怒り。
──漸く消えてくれたと思っていたものが。まだ足元で蠢いていた。新しい一歩を踏み出さんとする足先を掴む、腐った死骸がそこにまだあった。
そうか、そうか。まだ生きて、こちらの眼前に立つか。ならばまた一つ残らず凍り付かせてくれる。脳幹を貫く激情が全身を駆け回り、そしてそのまま内側に留まり続けていた。
その感情が吹き荒れると、一つ浮かんできたものがあった。その浮かんできたものは、今噴き出てきた溶岩を引っ込ませる引力があった。
「赤猿。白鷹はどうでした?」
「どう、とは」
「残党が玲瓏に侵略していると聞いて、何か思い詰めてはなかったですか?」
たった今己の中に芽吹いたような感情が、──いや、もっと恐ろし気な代物が。白鷹にも生まれたのではないかと、そう八柳は思った。
漸く消えてくれたものがまた現れた怒りは、元より連中の寵童であった白鷹と自身のそれとは比にならぬものであろう。
そう聞くと。赤猿はゆっくり首を横に振った。
「その辺り、白鷹は表に出さないのです、八柳様」
だから、と。赤猿は続ける。
「白鷹に直接聞いてみては?」
○
人の本質や本性とは何なのか、という事を考えた事がある。
入鹿八柳は、それは”原理”であると結論付けた。
表情は仮面だと。よく言われる。
笑顔という仮面。仏頂面という仮面。それぞれが無意識の内に、幾つかある仮面を選び己の表情に嵌め込む。そういう風にも表情は出来ている。他者へ害意はないと表明する為の笑顔。他者へ踏み込まれない為の仏頂面。こんな風に、他者を意識し、他者への態度の表明としての表情が。
だが。常に笑みを浮かべている人間がふと浮かべる怒りの表情や。仏頂面の者が時折見せる悲し気な表情や。理性を以て被る仮面の奥から垣間見える、感情の発露としての表情もある。
このどちらに本質があるか。
どちらも本質なのだと思う。いや、どちらも本質が”含まれている”といった方が正しいか。
重要なのは、原理だ。
その仮面に見えるものより、その仮面を選んだ原理にこそ。その仮面から発露した感情より、その感情が発生した原理にこそ。人の本質や本性というものがある。
原理に外れた表情や感情というのは、人は中々発生させ辛い。だからこそ、それらには多分にその人物の本質や本性と呼ばれるものが含まれる。
でも。それが全てではない。全なるものは、その内側にあるものだ。
──原理は、何があっても消えない。
──仮面が砕け散ろうとも。感情が摩耗しようとも。耐えがたい苦痛や苦境の中にいようとも。決して。
それを知る事が出来た時にこそ、己の生き方を変える事が出来た。己の内側までも凍り付いた訳ではないと理解できた。
だから──
「.....白鷹、夜分に申し訳ありません」
「八柳?」
白鷹は食事を終え、得物の整備を終え、まったりとした時間を自室にて過ごしていた。
その時を見計らったのかは解らないが。特にやることもなく、既に体得した武術書などを読んでいた白鷹の下に八柳が現れた。
彼女に呼び出され、白鷹が来るという事は幾らかあったが。彼女が自発的に白鷹の部屋に来るという事ははじめての事であった。
「少しだけ、お話したいのです」
「.....そ、そうか」
何かあったのかしらん、と思ったが。存外に真っすぐな言葉が飛び出してきたものだから、白鷹は何も言い返す事が出来なかった。
引き戸を開け八柳を迎え入れると。八柳用の座布団を敷く。
特に広くもない室内。燭台の明かりだけが照らす部屋の中。白鷹と八柳が向かい合う。
八柳は事前に用意していたのか。茶の入った急須と湯呑を二つ乗せた盆を持ってきており。座した瞬間より粛々と注ぎ始めていた。
「用意がいいな」
「八柳の美点の一つです」
「....いつもお前の所に来るとき手ぶらで来てしまってすまないな」
「お茶の用意をして迎え入れるのも好きなのです。気にしないで下さい。本日は突然の訪問でしたから、八柳が勝手にやったのです」
「.....なら」
白鷹は立ち上がると、部屋の隅まで移動し、押し入れの引き戸を開ける。
開かれた戸の中には様々な武具や忍具が所狭しと詰め込まれているが──そこに一つ、壺があった。
壺は両手に乗せられる程の大きさで、蓋からは蜃気楼のような冷気が漏れ出ている。
白鷹は戸棚から茶碗を取り出し、壺の中身を匙で掬う。
「.....これ」
「茶請けにどうかと思ってな。結晶砂糖。来禅師匠が時々作ってくれたやつを自分でも作ってみたんだ。好きか?」
その中身は、雪を蝋で塗り固めたような白い結晶砂糖であった。波打ち際の石のように丸く、その中心にだけ黒の色味がある。
「ええ。好きですよ。──はじめて来禅義兄さんに貰った時とてもおいしくて。よくねだったんですけど。”俺の気まぐれ以外であげない”って拒否されてました」
「そうなんだな....。俺は師匠が余りにも恐ろしくてねだることすら出来なかった」
「.....そうなんですね」
「師匠に戦場で拾われたその日に、”頑張ったな”って貰ったんだ。それからあの人が師匠になって貰う事は無かったんだけど。美味かったんだよなぁ。だから戦が終わって、何となく俺も作ってみようかなって」
二人して、結晶砂糖に手を伸ばし、口に含む。
「よく自分で作れましたね」
「砂糖を火で溶かして氷雪魔道で固めてるんだろうな、というのは解ったから。そこから何とか...」
硬い結晶を奥歯で噛み砕くと共に、甘味が舌先に広がり喉奥から全身に流れていく。
甘みが、心地よい。
「師匠の味を再現しようと色々工夫はしてみているんだけど。何か段々遠ざかっていく感じになっている。多分俺の好みに近付いていっているんだと思う」
「....とても美味しいですよ? 八柳はこちらの味も好きです」
「ありがと」
一粒食べ終え、八柳は二つ目に手を伸ばす。
甘味が強烈な来禅のそれと比べ。少し甘味が抑えられているが、香ばしい風味がある。恐らく砂糖の一部を焦がして結晶内に閉じ込めているのだろう。何となく白鷹の好みが理解できた気がして、二粒目を八柳はより味わって食べた。
「それで、何かあったのか? 八柳」
「え?」
「いや。八柳が直接ここに来るの珍しいだろ? 何か話したい事があったのかと」
白鷹は意識して、可能な限り穏やかな口調でそう八柳に尋ねた。
それは彼が彼女の不安をその佇まいから察しているから。表情のない八柳と向き合ってきた今までが、白鷹にそうさせていた。
「いえ。相談というか」
不安を抱えているのは、正しい。でもそれは自分自身から発生している問題なのではなく。ただ、躊躇しているのだ。
「──その、白鷹」
「ああ」
「赤猿から、明日の任務の内容を聞きました」
「.....ああ」
「──大丈夫ですか?」
──入鹿八柳は自分の感情を示す事と同じくらい、相手の感情を知る事も不得意だ。
とくに後者に関しては、不得意であっても特段困る事もなかった故に、自発的に身につけようともしなかった。
どうしても不安になる。己が無表情にて、人の心内という視界の効かぬ茂みに足を踏み入れる事が。だからその踏み込みは小さく、曖昧なものであった。
──魔王が消えようやく、というところで。その残党への調査を行わなければならないことに対して。白鷹は何か思う所はないのだろうか。そんな風に、真っすぐ強く踏み込む事は躊躇してしまう。だから「大丈夫ですか?」などという、あまりにも曖昧な聞き方になってしまった。
自分は、所詮他人だ。他人なのだ。何処まで行ったとしても踏み込めない場所がある。踏み込んではならぬ場所がある。
でも。それでも。他人の関係であろうとも。自分が踏み入れられる所まで向かいたい、という微かで、しかし今まで持ち合わせていなかった欲が生まれてしまった。
なんてことはない。はじめての事で戸惑い。不安になり。臆病になり。それでも僅かな勇気を振り絞った。だが踏み出せるのはここまで。踏み出して、幼子のように彼女は手を差し出した。
「.....そうだな」
それら全ての事を、白鷹もまた受け取った。彼女の不安も、その理由も、そして振り絞ったのであろう勇気を。白鷹は白鷹で、八柳から感じ取ってしまった
本心を隠して「大丈夫」というのは簡単だろう。それでお互い、なんとなくの納得を得られる事も間違いない。やんわりと踏み出してきた足を、やんわりと押し留めれば。それでお話はお終いだ。
だが。
白鷹もまた。その一歩を踏み出した彼女を押し返すより。差し出してきたその手を引きたい、と思ってしまった。
「正直、解らない」
己が心の内へ。その道を開いた。
「惑っている。ずっと、戦が終わってから」
「惑い....」
「俺は──この先、何をすればいいのかが解らない。今になっても」
ずっと、己の中に燻ぶっていたもの。吐き出せずにいた言葉。抱え込んでいた感情。それらをかいつまんで。相手にぶつけるではなく、誠意をもって伝えるように。言葉を選んで。
その様を、八柳は知っていた。ついぞ最近知った事だ。放ちたくとも放たれなかった言葉は、喉奥から胸の中へと落ちていく。落ちたそれらは淀みとなり沈殿していく。白鷹は──ずっと、この淀みを溜め込んできたのだ。
ぽつり、ぽつり、と。白鷹は言葉を紡いでいった。
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