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    こんばんは。

    隅田と言います。

    私は文学に入ったのが「正義」ではなく「無頼」という今では、ほぼ死語的なものからなのでMITAさんから見れば異星人かもしれません。(あとは禅宗)

    「正義も悪も無く、己が信じるものを命がけで信じる」

    これが無頼なんだそうです。(辞書的ではないですが)

    私自身は、そこまで至ってはいませんが、明瞭な善悪を書かないようにして読者に考えさせて、あえて、続編などでバットエンドを書くことで「世の中、そんなハッピーエンドになる話ばかりじゃないよ」というものを書きたいです。

    実際、小説を真似をして小学生が同級生を殺した事件もありました。

    でも、その時、事件前はあんなに庇っていた文化人(笑い)などは沈黙して「そんなもんだよなぁ」と子供心に色々思いました。
    (小説自体を書き始めたのは中学生時代。今、四十代のおばさんです)

    正義を信じるのも、それを捨てて悪の道に行くのも、または、そのどちらもでもないものになるのも、相当の覚悟と力と経験が必要なのだと思います。

    私なんて、きっと、好きな作家からすればひよっ子で簡単に背負い投げされるでしょうね。

    作者からの返信

    隅田 天美 さん

    コメントありがとうございます。

    文学において無頼というと、私は坂口安吾が『悲願に就て』という文章の中で、以下のように述べていることを思い出さずにはいられません。

    (引用開始)
    いったいがこの漠然とした悲願、直接に何を祈り何を求めるという当てさえもない絶体絶命の孤独感のごときものだが、これは数十世紀の人間精神史と我々の真実の姿とのあらゆる馴れあいと葛藤を経て、虚妄と真実とがともにその真正の姿を没し去ってしまったところから誕生したものであろうか。自らの実体を掴もうとして真実の光の方へ向おうとすれば真実はもはや向いた方には見当らなくなっていたというような、或いは逆に向き直ったところの自らが、向き直ったときには虚妄の自らに化していたというような、即ちこの悲劇的な精神文化の嫡男が悲願の正体であろうと思う。
    (中略)
    従而、私は悲願そのものには余り多くを期待しない。我々の時代の多くの若者がこの悲願に追われはじめている。併しその多くの人が途中で誤魔化す、極めて安易な習慣的な考察法へその人生観の方向を逃がして了う、又ある人はその極点へ押しつめぬうちに極めてこれも習慣的な自殺を企ててしまったりする。この悲願を真に正しく押しつめることは甚だ難いのだ。併しやがてこの悲願を正しく渡りきった向う側から新らしい文学が生まれてくるだろうと私は確信している。
    (中略)
    由来甘さというものはその正体が消極的なのだ。積極的な力となって彼の悲願の進路をねじまげるというような障りとなることが全くない。その点悲願を深めるに都合はいいが、生き返ってくる力が乏しい。この反対に「からさ」は積極的である。理知的であり批判的なものである。ここには生き返る可能性を自らの中に蔵している。私としてはこの二つの態度のうち躊躇なく「からさ」の方をとるものであるが、何分積極的に作用してくるだけに自らの罠へ自ら落ちこんでしまうことが甚だ多くあるように考えられる。罠へ落ちずに渡りきろうというのが余り勝手な考えで、或いは幾度も罠にかかり罠を逃れて行く必要があるのかも知れぬ。併しそれはとにかくとして、このことは断言してもいいように思う。「からさ」は「あまさ」を否定することによって達成せられるものではない、又習慣をつき破るということが決して単純に習慣の反対を行うことではないだろう。正、反、合とか止揚とかいう単純な法則が数十世紀の虚妄と真実との複雑なカラクリをかけた我々の精神へ倫理へそのまま適用されることなぞ決して想像することができないのだ。まことの問題は、そこで作家の魂が救われるかどうか、ということ、ただこの一点あるのみである。
    (引用終了)

    ここで坂口安吾がいう「あまさ」と「からさ」との対比は、正義に対する「信仰」と「無頼」との対比と全く構造を同じくするものではないかと思います。

    また、私はこれに絡めて、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』における、イワンとゾシマ長老の対話も思い出します。

    (引用開始)
    「まるきり冗談を言われたわけでもない、それは本当です。この思想はまだあなたの心の中で解決されておらないので、心を苦しめるのです。しかし、受難者も絶望に苦しむかに見えながら、ときにはその絶望によって憂さを晴らすのを好むものですからの。今のところあなたも、自分の弁証法を自分で信じられず、心に痛みをいだいてひそかにこれを嘲笑しながら、絶望のあまり、雑誌の論文や俗世の議論などで憂さを晴らしておられるのだ …… この問題があなたの内部でまだ解決されていないため、そこにあなたの悲しみもあるわけです。なぜなら、それはしつこく解決を要求しますからの …… 」
    「ですが、この問題が僕の内部で解決することがありうるでしょうか? 肯定的なほうに解決されることが?」なおも説明しがたい微笑をうかべて長老を見つめながら、イワンは異様な質問をつづけた。
    「肯定的なほうに解決されぬとしたら、否定的なほうにも決して解決されませぬ。あなたの心のこういう特質はご自分でも承知しておられるはずです。そして、そこにこそあなたの心の苦しみのすべてがあるのです。ですが、こういう悩みを苦しむことのできる崇高な心を授けたもうた造物主に感謝なさりませ。「高きを思い、高きを求めよ、われらの住む家は天上にあればこそ」です。ねがわくば、あなたがまだこの地上にいる間に、心の解決を得られますように。そして神があなたの道を祝福なさいますよう!」
    (引用終了)

    こう見ると、無頼というのは想像以上に難しいものなのだろうなと思います。信仰を否定するあまりに無頼という生き方自体に固執することは、形式に対して形式主義であるという批判を免れないでしょうから。

    私は無頼というのは作家の魂を救うための一方法にすぎないと思いますし、無頼であろうが信仰であろうが、二つの道に引き裂かれながら考え続けること、それによって隅田さんの魂が救われずともつかの間の慰みを得られることを期待したいと思います。

    お読みいただき、ありがとうございました。

    編集済
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    森下巻々さんとの「対話」を含めて、とても面白く、また説得力のある考察だと思います。

    小説の素人(観客)の立場からは、「五つ目の態度」を見出すことができれば、現代の小説が機能不全から脱することが出来るのではないかなぁ、と前向きに捉えております。(私自身に、何か具体的なアイディアがある訳ではなく、論理的可能性としてのお気楽な態度です。やがて「天才」が現れるのでしょう!)

    少なくとも、上がり目のない「態度」を無意識的・無批判的にとってしまわないための、作家にとって貴重な指針であると思います。

    作者からの返信

    無名の人 さん

    コメントありがとうございます。

    「五つ目の態度」については、私は小説だけでなく、同じ「物語」に駆動されているという意味で、政治における党派性が人びとの分断を招いていることにどう対応するのか、あるいは原理主義的な信仰やイデオロギーに起因する行動をどう取り扱えばよいのかということにも共通して存在する問題だと考えています。

    共約不可能に思える幾多もの価値観――いくつもの「正しさ」――が氾濫する現代において、それらに「あえて」どのような態度をとるのかということは、今世紀最大の問題だと思います。私もそれによい答えがあることを期待したいと思います。

    お読みいただき、ありがとうございました。

    編集済

  • 編集済

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    MITA 様

    はじめまして。
    森下巻々と申します。

    とても興味深い文章だと思いました。
    しかし、よく分からないところがあるのです。ぜひ、理解したいのですが……。
    《「焚き火」という言葉は、現実を表すものとしては明らかにウソ》
    《物語を通じて「正しさ」について合意し共有するプロセスを踏むこと》

    「焚き火」はウソ、なんでしょうか? 何度よんでも分かりません。僕のイメージだと、眼の前の焚き火を「焚き火」という文字列に託す訳ですね。読む側が、その文字列から焚き火を視覚情報として得られるかと言えば、できない。それは分かります。でも、それはウソということではないと感じます。それとも、例えばソシュールを読めば理解できるようになるでしょうか。

    物語を通じて、とあるのですが「原始的な社会」ですよね。その頃だと神話ということになるのではないでしょうか? また、その頃の人たちは正しいとか正しくないで行動していたのでしょうか? 例えば、そう皆が振る舞う方が効率的だからという理由だったりしたのではないかと思うのです。

    追記:

    御返信を有難うございます。

    ①「焚き火」というウソ
    詳しい説明によって、おっしゃっている意味が分かったような気がいたします。《たとえば「焚き火」は、作者以外に見えていないかもしれません。……》の部分の記述が分かりやすかったです。

    ②「正しさ」についての合意
    正直に言うと、まだ分からないのですが、書いてくださった説明を何度も読もうと思います。

    これほどの長文を返していただけるとは思っておりませんでした。感謝いたします。

    作者からの返信

    森下巻々 さん

    コメントありがとうございます。
    疑問に思われた二点について、以下で詳しく説明いたします。

    ①「焚き火」というウソ

    さて、私たちは生活するとき、目に入るものをそのままの形で認識しているわけではありません。それは、一生物としての人間の認知能力では世界にあるものやことがらをそのままの形で捉えることができないためであり、したがって人間は「一定の認知の形式」にしたがって現実を認識します。

    言い換えれば、人間は認知という過程を通じてしかものごとを見ることができず、そのため決してものごとの真の姿を捉えることはできないのだし、人間の認知能力はナマの現実を前にしてあくまで道具的に働き、「一定の認知の形式」を通じて仮の姿を捉えているにすぎないということになります。

    小説において、この「認知の形式」と同義であるのが「文体」です。文体は作家がナマの現実を見た時、「どう見えたか」を示しています。

    たとえば「焚き火」は、作者以外に見えていないかもしれません。ある人は、むしろ馬の嘶き声に注目し、「焚き火」はその後景に退いているかもしれません。そのような人の見る世界においては「焚き火」が取り上げられる必要はなく、むしろない方が心象世界を巧みに記述しているといえるでしょう。そして実際、そうである人がいるのであれば、作者が「焚き火」をことさらに書く必要は、作者の現実に対する特異的な認識を書き表すという目的を除いては、どこにもないということになります。

    真実という観点からは、このような現実の取捨選択それ自体がおかしなことです。それは確かに作者にとっては真実かもしれませんが、ある人にとっては明白なウソなのですから。ですから、「何か」としか言いようがないものに文体を適用し、そこになんらかの秩序(=「焚き火」という文字によって現実を再構成する)を見出すと決めた段階で、すでに作者は現実に対してウソをついているのです。


    ②「正しさ」についての合意

    まずはじめに、私はこの文章を通じて「物語」という言葉を小説に限定して用いているわけではありません。ここで私が述べているのはいわゆるナラティブについてであり、これは先に述べた「一定の認知の形式」、あるいは「文体」に対応します。

    そのうえで、「原始的な社会」における物語ととしては、たとえば宗教が挙げられます。

    宗教が社会的にどのような機能を果たしてきたかについて、最初に近代的な説明を行ったのはデュルケームです。彼は宗教的儀式という体験を通じて集団内で物語が共有されることで集団的沸騰(熱狂現象)が起き、それが共同体の帰属意識にとって重要な役割を果たすと主張しました。

    小説も「物語」の一つですが、そこには宗教との重要な共通点があります。宗教と同じく小説もまた読者に体験をもたらし、その核心は読者自身の読解によって伝えられるという点です。単に直接的な説明を聞かされるのではなく、物語の形式をとった婉曲的な説明をされることで、それを理解した人は「自分はこの価値観を自分で得た」と勘違いします。そのためその信念はより強固なものになるのです。これこそが『「正しさ」について合意し共有するプロセス』なのです。

    加えて言えば、そうして得た信念を、人は自分ごとに止めておくことはできません。物語というのは一定の認知の形式ですから、そこには現実に対する「正しい・正しくない」の区別があり、当然その見方はすべての事柄に及ぶのです。これは人の認知の問題であり、たんにそうしたほうが合理的である云々、という問題ではありません。理屈抜きの肯定あるいは否定を引き起こす、今日私たちが『道徳』と呼ぶものです。ラッセルが「良心から生まれる残虐性の強制はモラリストの喜びであり、だから彼等は地獄を発明したのだ」といったのは、物語の本質についての核心を付いていると言えると思います。

    以上、回答いたします。理解の一助となれば幸いです。

    編集済