ヴィクター②
百の
『なぜ我らの無念を晴らそうとしないのか?』と。
無論、そんなものはヴィクターの気のせいだ。
後悔は戦場に捨ててきた。
過去を振り返る意味はない。今は前に進むべきだ。
彼にとって衝撃的な結末を迎えたあの戦い、目的を果たせなかった決戦から月果が数度か落ちた。たったそれだけの期間で、世界は驚くべき変化を遂げていた。
夜と共に押し寄せる影世界の軍勢はあれから侵攻を停止している。
人類の繁栄の礎たる世界樹の皮殻を貪り、四方国家を震え上がらせた四大巨獣もまたあれから沈黙を保ち続けた。
そしてなにより、影どもの王がはっきりと戦いの終わりを宣言したのだ。
『聖女』なる人物と手を取り合い、これからは人類と共存していくと。
冗談ではなかった。怪物どもを駆逐するために戦ってきたヴィクターたちを愚弄するかのような結末を、簡単に認めることなどできない。
だが、争いに疲弊しきった人々は聖女が生み出した流れに飛びついた。
(偽りの平和だ)
あの時に斬り捨てておくべきだった、という強い後悔がヴィクターを苛む。
決戦の地で遭遇した理解不能な光景。それは戸惑いを生み、判断を混乱させ、正しい選択を不可能にしてしまった。
彼が当惑しているうちに和やかなお茶会は大いに盛り上がり、聖女に周りにはあまりにも多くの『妙に丸っこい怪物』が溢れかえってしまっていた。
その姿に気勢を削がれたということもあるが、それ以上にあの状況で奇襲をかけたとして確実に勝てたかどうかは怪しい。
ヴィクターの狙いは第一に異次元とこの世界を繋ぐ門の破壊であり、第二に影世界の王の排除である。要は単騎で潜入し強襲するからこそ可能な破壊工作と暗殺任務だ。あのような状況ではたとえ命と引き換えにしても目的の達成は困難だった。
(いや、言い訳だな)
己の思考に弱さを見つけ、惰弱な心根を戒める。
困難であることは最初からわかっていた。ならば不可能であっても命を捨てて特攻しなければならなかった。
ヴィクターは無数の屍の上に立っている。
彼らの死に報いるためにも、あそこで死ななければならなかったのだ。
(なぜだ。なぜ俺は今ものうのうと生きながらえている)
答えの分かり切った自問自答。
それでも、思い返すたびに自分のことが理解できなくなる。
あの、長閑なお茶会。朗らかな声。明るい笑顔。
少女を中心とした世界を前にした瞬間、ヴィクターは己の立っていた血まみれの世界、屍の上にある世界が崩壊したような感覚に陥ってしまった。
ヴィクターは恐れを知らぬ血に飢えた獣だ。そうあるように鍛え上げられた殺戮のための道具だ。しかし、あの瞬間にヴィクターの全ては否定されてしまった。
あの少女はまるで、『そんな世界など本当はどこにもない』と主張しているようで、そして実際にその嘘を暴いて見せた。
(俺は命を失うことを恐れた。俺はあの女に負けたんだ)
それが導き出される答え。屈辱的な真実だ。
不敗であり必勝。それがヴィクターに求められる役割であったにもかかわらず、その全ては完膚なきまでに否定された。
取り戻さなければならない。失ったものを。勝利の使命を。
今度こそ勝利する。そのためにここにきた。
ヴィクターは生き残った仲間たちとの約束を胸に、ある思惑を秘めてこの地を訪れた。それは『共存派』なる連中の思惑を暴き、聖女をはじめとした敵勢力の上層部に適切な『対処』を行うことだ。
影世界との共存を謳う敗北主義者や異常者が現れるのはこれが最初ではない。
これまでも率先して仲間を売ることで助命を嘆願する裏切り者は数多く出てきた。影世界の怪物は世界樹からの神罰だと主張する異端の宗教、終末論や陰謀論を展開する頭のおかしい連中は数多くいた。
だが、それらの愚か者と今回の『共存派』は根本的な質が違う。
聖女が王との講和を成し遂げたことはもちろん、その後も四方国家の全てに働きかけて『共存域』なる制度を作り上げたこと、共存に至るための体制に速やかに移行させたことなど、明らかに複数の国家にまたがって存在する巨大な勢力がこの状況を作り上げていた。
ヴィクターが相対すべき『敵』は聖女だけではない。
共存も平和も、ヴィクターは最初から信じていない。そんなものを彼は見たことがないし、存在しないものを信じるほどヴィクターは愚かではない。
一時的な休戦期に行われる策謀と暗闘。これはそういう種類の戦争に移行したというだけの話に過ぎないのだ。
疑いの余地なく影世界の怪物は敵である。
そして『共存派』が影世界と手を結んだということは。
(次の敵は怪物どもだけじゃない。そいつらと手を結んだ人間の連合軍になる)
より過酷な戦いが始まる。
これはその前哨戦なのだ。
内心の緊張を押し殺し、平静を装いながらヴィクターは歩みを進める。
これから潜入するのはまごうことなき敵地だ。
彼はこれまでにも影世界との共存を謳う人類の都市に足を踏み入れたことがある。
怪物を信奉し、定期的に子供たちを生贄に捧げるおぞましいカルト教団。
世界樹の加護が歪んだ土壌は穢れ、水源は黒く濁り、草木は奇怪な変異を遂げ、家畜は奇形を生じ、人々の血走った目からは破滅的な衝動が溢れ出す。
ある意味で、怪物に蹂躙されるよりも無惨な人類の末路がそこにあった。
ヴィクターはかつての悪夢を振り払い、危険な『共存域』へと踏み込む。
そこで彼を待ち受けていたのは、想像を超えた光景だった。
「きゅうきゅう! ようこそ、『共存域』へ! 歓迎するね、新しいお友達!」
そうして、異境の地に足を踏み入れたヴィクターは『怪物』と相対する。
お菓子で出来た家。子供の夢のような街並み。異形が闊歩する未知の果て。
そして、なにか柔らかくていい匂いのする『かぶりもの』に包まれた小さな『怪物』が友好的に話しかけてくるという未知の体験。
(何だ、これは)
目を疑う。目を擦っても頬を抓っても目の前の景色は確かな真実だ。
努めて冷静であろうと気を強く持ち、呼吸を整える。
(惑わされるな。ひとまずは目的地に向かえばいい)
この『共存域』を訪れた最大の目的が『学院』の存在だった。
『共存派』を探る上で最重要施設と判断されたその場所こそが、ヴィクターの戦場となる。気を引き締めて、事前に用意した街の地図を手に移動する。
見知らぬ街並みに戸惑いながら進んでいくと、街の中心部に目当ての建物が見えてきた。幾つもの棟に分かれた、途方もなく巨大な学び舎だ。
だが、その威容よりもヴィクターを驚かせたのは正門の前で列をなす異形の行進、というよりも、それらを率いる一人の少女の姿だった。
「あの女は」
思わず声に出してしまうほどの衝撃。
見間違えるはずもない。
あの決戦の日、世界の全てを覆した『聖女』がそこにいた。
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