グリザイユ

京京

私が生きていると感じるのは絵を描いているときだけだ

『私が生きていると感じるのは絵を描いているときだけだ』


 これはひまわりで有名なフィンセント・ファン・ゴッホの名言。

 私の好きな言葉。

 そして私を構成する言葉。

 

 私はその言葉を旨に今日も絵を描き続ける。


 ここは美術室の窓辺。

 私の定位置。


 私以外、誰もいない。

 時計の針の音だけが傍らにいる。

 そんな空間。


 五月晴れの空。

 窓を少しだけ開けているからか、とても爽やかな風が入ってきた。

 どこか懐かしい匂いが鼻孔を擽る。


 自分の心に従って私は空を描く。

 白い空。黒い雲。灰色の太陽。

 あるのは白と黒。濃淡だけの世界。


 これはグリザイユ。

 モノクロで絵を描く技法のこと。


 私はこの技法で今まで絵を描いて来た。だから減る絵の具はいつも白と黒だけ。

 いつの間にか私は絵の具入れに白と黒しか用意しなくなった。

 他の色は、私には必要ない。


 不意にチャイムの音が鳴り響く。

 どうやら忘我の中で絵を描き続けていたようで気が付けば時計の針が一周していた。


 私は筆を置いて背伸びをする。

 身体のどこかでパキパキと音がした。


 集中力が切れると同時に睡魔が襲ってくる。

 軽く瞼を閉じて、目頭を揉んだ。

 休憩の時間だ。


 睡魔に身を任せる。


 次第に蕩ける意識。

 現実と夢幻の狭間。

 微睡みの檻。

 眠っているような、起きているような不思議な感覚。


 浮かび上がるこれは、在りし日の悪夢。

 蘇るは痛みと悲しみ。


 世界は斯くも残酷だった。


 幼少期、私に浴びせられる罵詈雑言。

『近寄るな!』、『気色悪い!』、『異常者!』

 その言葉は今も私の心を抉る。


 さらに降り注ぐ暴力の数々。

 異常者相手なら何をしてもいいと免罪符を得たかのように彼らは私を殴った。

 痣だらけになる身体。

 

 常にどこかが痛かった。

 でもそれ以上に心が痛かった。


 誰も助けてくれない。

 教師も大人も。

 異常者には傷だらけの姿が相応しいと思っているのか、救いはなかった。


 あの頃の私はきっと死んでいたんだと思う。

 身体は生きている。

 だけど、心は死んでいた。


 私は現実世界に戻ってくる。

 息が切れていた。額には汗が滲み、手足は震えている。


 時間にして僅か五分ほど。

 それなのに心が憔悴するほど疲弊していた。


 どうやら私はまだ死んだままなのかもしれない。

 

 私はまた絵を描き始める。

 一心不乱に。


 心の漣は次第に落ち着いていく。

 私には絵を描くことしかできない。

 例え、心が死んだままだとしても私は描き続ける。


 自分が異常だと理解したとき、世界は歪に優しくしてくれた。


 いつからか私は普通を演じ、自分の異常さをひた隠して生きてきた。


 自分は異常者。

 それを理解するのに十六年掛かった。


 気付かなかった十六年間。

 仄暗い地下道を歩くように生きてきた。

 窓のない、光の入らない一本道。

 時折、吹く凍てつく風が身を切り裂く。

 そして、孤独。


 そんな人生。


 それを救ってくれたのが絵だった。


 絵を描く時だけで私は私でいられる。

 いつものように嘘をついて生きる必要がない。


 どんな絵でも他人は勝手に解釈をしてくれる。

 多少異常でも、個性として受け取ってくれる。


 絵。

 それは私を守ってくれる唯一の存在。


 白い空。黒い雲、灰色の太陽。

 それは私が見る世界そのもの。


 私は色を視認できない。

 私の見える世界はグリザイユ。

 あるのは白と黒。濃淡だけの世界。


 だから私が描く世界には色がない。


 色が視えないだけで私は世界から弾き出された。

 私からすればそんな世界が異常だ。けれど私がどんなに声高にそれを叫んでも誰も聞いてくれない。

 余計に私を迫害するだけだった。


 私は今日も静かに普通を演じる。

 絵を描きながら。


 グリザイユの世界に私の全てをぶつけて。

 ここだけが私の生きる世界。


『私が生きていると感じるのは絵を描いているときだけだ』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

グリザイユ 京京 @kyoyama-kyotaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ