攻殻の狂猪

相変わらず立ち込める霧は濃く、広く見渡すことは出来ない。ルクシアが滑り落ちてきた急勾配は何とか這い上がる事が出来そうではあるが、自身の足で立ち上がる事ができないミリアムを連れてはいけないだろう。そして当然、ルクシアの中にミリアムを置いていくという選択肢は無かった。


「今はデュメルレイア様が見つけてくれるのを待つしかないかな……ミリアムちゃんもここを落ちてきたんだよね?どうしてこんな危ないところに?」


「…これ」


ミリアムはポケットに手を差し入れると、ある物をルクシアへと差し出した。それは、鮮やかな翡翠色の草の束。ルクシアの記憶が確かであれば、薬草の一種であったはずだ。


「これ、欲しかったの。だけど、取ろうとして落ちちゃった……」


「そうだったんだ。だけど、一歩間違えたら大変な事になってたかもしれないよ?どうしてそんな危ない事を?」


「…お母さんが病気なの。お父さんも怪我しててお薬を探しに行けなくて……郷長様も、皆も忙しいって。お父さんは心配ないって言ってたけど……でも……っ」


ミリアムは大事そうに薬草を抱き締めながら俯いてしまった。まだ両親に甘えたい年頃の彼女には、病で苦しむ母親と不自由な身体を押して看病をする父親の姿を見てジッとしていられなかったのだろう。


確かにミリアムの行動はあまりにも無茶、そして無謀。だが、母親のために危険を冒して薬草を手に入れようとした彼女を、どうして責めることが出来るだろうか。


ルクシアは不安でポロポロと涙の雫を落とすミリアムの傍らに膝をつくと、彼女の頭を撫でた。


「…頑張ったね、ミリアムちゃん。それだけ頑張って手に入れた薬草なら、きっとお母さんもすぐに良くなるよ」


「ひっく……ほんと……?」


「うん、本当だよ。だから、早くお家に帰ってあげないとね」


「ん……うん……」


ミリアムは寄り掛かるようにルクシアへと身を預け、その薄い胸板に顔を押し付けてきた。危険を承知で薬草を手に入れたミリアムの勇気を無駄にしないためにも、一刻も早くここを抜け出さなければ。ルクシアは小さな彼女の身体を受け止めながら決意を新たにするのだった。


「とにかく、今は身動き取れないし、デュメルレイア様に見つけてもらうしかないか……」


「でゅめ……?」


「そう、デュメルレイア様。僕と一緒にこの森に入った人なんだ。デュメルレイア様なら、すぐに僕達を見つけてくれると思うよ。後でミリアムちゃんにも紹介するね」


戦場では魔族の軍勢を相手に圧倒的な力を見せ付け、魔族達から恐れられるデュメルレイアだが、さすがに魔族とはいえ少女をどうこうしようとは考えないだろう。


「その人、おにいちゃんのお友達……?」


「…ううん。僕にとっては、お友達以上に大切な人なんだ。僕に生きる理由をくれた、大切な人で……そ、その、僕のお嫁さんになってくれる人なんだ」


お互いに好き合った仲とはいえ、他人様の前で口にするのは恥ずかしいものである。まだ恋というものを知らないだろう少女を前に、ルクシアは自然と綻ぶ自身の頬に熱が籠るのを感じた。


「ん〜……よくわかんない。お父さんとお母さんみたいに、一緒のお家に暮らしてるの?」


「実は、まだ僕達お家が無いんだよね。だから、この森の何処かにある集落に向かってたところだったんだけど……」


「あっ……もしかして、それって私のーーー」


ミリアムが何かを言い掛けたその時、彼女は唐突に坂道の上を見上げた。


「どうしたの、ミリアムちゃん?」


「あ、あれ……!」


ミリアムは短くそう言ってルクシアに抱き付いた。ミリアムの身体は小刻みに震え、小さな身体が必死にしがみついてくる。


ミリアムの視線を追って、ルクシアもまた坂道の上を見上げる。そして、自身を見下ろす存在と視線がぶつかった。


それは、巨大な猪であった。当然、このような魔境に生息する存在が普通の猪であるわけもなく、その全身を覆うのは鋼のような光沢と強度を持つ外殻。剣や矢を弾き返し、その重量と装甲を纏っての突進は一撃で大樹をも薙ぎ倒すとされる魔獣、アーマードボアである。


狂気に染まった瞳は真っ直ぐにルクシア達を見下ろしており、鼻息荒く蹄で地面を削る。ルクシアがその存在を感知した直後、アーマードボアは躊躇なく急勾配の坂道を二人目掛けて駆け降りてきた。


「危ないっ!」


「きゃあああっ!?」


咄嗟にルクシアはミリアムを抱え、横っ飛びに回避。地面を転がった直後、ルクシア達が座っていた地点を小さな小屋ほどもあるアーマードボアの巨体が駆け抜けていった。


あと少し反応が遅ければ、二人まとめて肉も骨も何もかもぐちゃぐちゃのミンチにされていたことだろう。アーマードボアはそのまま霧の中に消えていったかと思えば、すぐにまたルクシア達目掛けて飛び出してきた。


「よりにもよって、最悪のタイミングで……」


「フーッ、フーッ」


どうやら、アーマードボアはルクシア達を獲物として認識したらしい。強者揃いの魔獣が蔓延る迷いの森で、ルクシア達のような弱者はアーマードボアにとってはまさに天の恵みのようなものだろう。


「ブモォオオオーーーーッ!!」


「くっ……!」


「ひゃううう……っ!」


しがみついてくるミリアムに最大限配慮しながら、ルクシアは毛先が掠めるほどの距離で紙一重にアーマードボアの突進をかろうじて回避。その巨体は壁のように聳り立つ急勾配の土壁に激突し、周囲に軽い地響きを引き起こした。


これで脳震盪でも起こしてくれれば良かったのだが、アーマードボアの強靭な首はこの程度ではびくともしない。土煙を上げながらも、まるで何事も無かったかのようにルクシア達へと向き直り、狙いを定めながら低く体勢を身構えた。


「お、おにいちゃん……怖い……っ」


「大丈夫だよ、僕が一緒にいる。だからしっかり掴まっててね」


ミリアムを安心させるためにそう言ったものの、実際のところルクシアに打開策は何も無かった。ミリアムを抱えたままいつまでも逃げ回ることは出来ない。そもそも逃げ場など何処にもないのだ。アーマードボアを倒す事が唯一の活路なのだが、ルクシア達にそんな力などあるはずもなかった。


「ブモォオオオーーーーーッ!!」


「く……っ」


懸命に思考回路を働かせるルクシアだが、答えを見出せない間にもアーマードボアの巨体が迫る。もはや一刻どころか数秒の猶予もない、そんな危機的状況の中、ルクシアはミリアムを庇って瞳を閉じーーー突如、崖上から飛び出した人影が一筋の流星の如くアーマードボアへと突貫した。


「ブモォオオオッ!?」


脳天への直撃によってバランスを崩し、アーマードボアは前のめりとなって地面に倒れ込む。そのまま大地を一直線に削りながら少しずつ速度を落としていき、アーマードボアの巨体はゆっくりとルクシア達の目前で止まった。


「あ、あれ……?」


ミリアムを庇っていたルクシアが異変に気付いて瞳を開く。目の前には、今まさに自分達を蹂躙せんとしていたはずのアーマードボア。そして、その頭の上に立ち、腕組みをしながら険しい表情を浮かべるデュメルレイアの姿があった。

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