大空を翔ける
「し、しししし死んじゃいますぅううーーーーッ!!」
晴れ渡る蒼天の空にルクシアの悲痛な叫びが木霊する。耳元では轟々と風音が唸りを上げ、大気の壁が全身にぶつかってくる。
洞窟を出たルクシア達は、現在デュメルレイアの伝手を頼って移動中。大きく翼を広げ、空を駆けるデュメルレイアに抱えられたルクシアだったが、その飛行は幼い日の遊覧とは果てしなく掛け離れたものであった。
翼を羽ばたかせる度に加速する速度。雲一つ無い空を一直線に駆けていく様は、まるで一筋の流星のよう。デュメルレイアの両腕に抱かれたルクシアは振り落とされまいと懸命に彼女にしがみついていた。
「はっはっはっ、どうだルクシア、懐かしいだろう?お前とはこうして山々の谷間を抜けて飛んだものだ」
「ぜ、全然違いますよ!もう少しゆっくり!ゆっくりお願いします!」
平然とするデュメルレイアだが、ルクシアはいろいろともう限界。これほどの強風をまともに受けては首を痛めてしまいそうだが、幸いにもデュメルレイアの豊満な乳房がクッションとなり、ルクシアの頭を優しく包み込んでいた。
「すぐに着くって言ったじゃないですか!もっとスピードを落として下さいよ!」
「この速度で、と付け加えることを忘れていたな。悠長に飛んでいては日が暮れる。気長に景色でも眺めていればすぐに着く」
「そんな余裕無いのですけど!?」
デュメルレイアの飛行速度に比例して強くなる向かい風はまるで大気の壁。デュメルレイアに抱えられているとはいえ死の恐怖をリアルに体感する速度に眼下に広がる景色を堪能する余裕などあるはずもなく、彼女にしがみつくルクシアの腕も無意識に力が籠る。
「んふぅ〜、密着したお前から高鳴る鼓動が伝わってくる。やはり抱き合っているとお前と今まさに愛を育んでいるのだと実感する。わかるか?私の胸の鼓動もまた激しく高鳴っているぞ」
「そ、そそそんな余裕ありませんよ!」
風音と自分の心臓の鼓動が耳奥で響き、デュメルレイアの鼓動に耳を傾けてなどいられない。するりとデュメルレイアの腕をすり抜ければ地上へ向かって一直線という状況に普段は冷静なルクシアも今回ばかりはいっぱいいっぱい。ぶるぶると全身を恐怖に震えさせながらデュメルレイアにしがみついている。
「…不謹慎だが、恐怖に震えるお前もなかなかに愛らしい。ここで仮にお前を離せば、どんな顔を見せてくれるのだろうか……?」
「そんなことしたら絶交ですからね!?もう金輪際二度と永遠に口も聞きませんから!」
「はっはっはっ、怒るお前もまた愛らしい。物事に直面する度、様々なお前の表情を知ることが出来る。素晴らしいことだ」
「せめて、その表情の意図も汲んでもらえませんか……!?」
デュメルレイアはルクシアの反応を楽しむばかりで速度を落とす様子は無し。既にルクシアの力は限界。彼女の背に回した両腕はプルプルと震え、力が抜けるまであと数秒といったところ。
ここで力を抜いてしまえば、風に押し負けてうっかりデュメルレイアの腕の中から離脱してしまうかもしれない。そんな恐怖から必死にしがみつくルクシアだったが、それも長くは持たないと思われたがーーー
「見えてきたぞ、ルクシア」
「え……っ?」
待ち望んでいた台詞がデュメルレイアの口から紡がれ、速度が落ちると同時に吹き付けてきた風が弱まった。どうやら、限界を迎えるギリギリのところで目的地に辿り着いたようだ。心の底から安堵しながら、ルクシアはここで初めて地上の景色を見下ろした。
しかし、そこに広がっていた光景は、彼にとって全くの予想外であった。
「こ、ここ、何処ですか?」
動揺するルクシアの眼下に広がるのは、何処までも続く深い森であった。まるで緑色の海と錯覚するほどで、森全体を濃霧が覆っており上空からの景色は雪が降り積もっているのではと錯覚するほど。
どんなに見渡しても、街一つ、家の一件すら見当たらない。ただ森が広がっているだけであった。
「聞いたことはないか?魔族領の一部を埋め尽くす広大な森。一度踏み入れば二度と戻れぬ魔性の領域、緑の牢獄。この地を知る者からは迷いの森と呼ばれているようだ」
「迷いの森……聞いたことがあります」
過去の魔族との大戦時、魔族領を偵察した兵士からの報告の中に、その地名は記されていた。
決して消えることのない魔力を含む濃霧に覆われた、魔族領の西部に広がる広大な森林。森の中は日中でも薄暗く、どこまでも続く同じような景色と立ち込める霧によって方向感覚を狂わされてしまう。
また、森林を徘徊する凶悪な魔獣達は一兵士の装備では到底太刀打ちできるものではなく、さらに霧による影響か、そこに存在するはずのない子供の楽しげな笑い声や、小さな人影を見たといった幻覚が襲ってくるという。
故に、その地は一度踏み入れれば二度と出られぬ森という空想上の存在にあやかり、迷いの森と呼称する、という一文で報告は締め括られていた。
「ほ、本当にこんな場所にデュメルレイア様のお知り合いの方が住んでいるんですか!?僕が知っている話が本当なら、こんなところに住んでる人なんていないと思います!」
「私が知る限りでは、この森の何処かに集落があるはずなのだが……やはり、上からではよくわからんな、いや、もしくは見えないようになっているのか……」
真っ白な濃霧は森全体を覆い隠し、ざわざわと音を立てて揺れる枝葉は、まるでルクシア達を誘って手招きをしているかのよう。恐らく、この森は今までに足を踏み入れた数多くの命を呑み込んできたのだろう。まさに異様と言える光景を前に、ルクシアはごくりと息を呑んだ。
「仕方あるまい。あとは足を使って捜す他ないらしい。ルクシア、もう暫く辛抱してもらうぞ」
「ちょっと待って下さい!本当に降りるんですか!?本当に魔獣とかいたら……!」
空を飛べるデュメルレイアならば迷ったところで離脱は容易だろうが、魔獣だけは話が別だ。魔界領の一部に蔓延する瘴気の影響を受けた魔獣の強さは、そこらの魔物では比較にもならない。時折魔族領から王都の領内に迷い込んできた魔獣は魔族領内と比べれば幾分弱体化しているが、それでも討伐には多大な兵力を投入する必要があった。
「魔獣如きに何を恐れる?この私が獣程度に遅れを取るはずがあるまい。我が前に出れるものならば出てみるがいい。皮を剥いで今日の夕餉にしてくれる」
「わぁ……凄く頼もしいですね」
ルクシアの心配などどこ吹く風で自信満々のデュメルレイアだが、その自信は決して無責任なものではない。デュメルレイアに掛かれば、魔獣など子犬も同然なのだろう。魔獣の一匹や二匹出たところで何一つ問題にもならない信頼感があった。
「私に全て任せておけ。私がいる限り、お前には指一つ触れさせはせん。そろそろ降りるぞ。しっかり掴まっておけ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!まだ心の準備が……!」
まだ着いたばかりだというのに、デュメルレイアは森の真っ只中へと向かって急降下。ルクシアの恐怖心を煽る何かと不穏な逸話の多い迷いの森だが、よくよく考えてみれば魔獣の存在など歯牙にも掛けないデュメルレイアが一緒ならば意外と安心かもしれない。
この時のルクシアは、そう思っていたーーー
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