自由の景色

外に出ると、温かな陽光がルクシアへと優しく降り注ぐ。運び込まれた時には気絶していたために気付かなかったが、外には小さな花園が広がり、近くには透き通った清流が涼やかな水音を響かせている。


「わあ……」


自然が作り出す美しい光景に、思わずルクシアの口から感嘆の声が洩れる。昨日は様々な出来事があったせいで余裕が無かったが、彼がこうして城の外の景色を堪能するのは実に数年振りのことであった。


ふと隣にルクシアが目を向けると、恐らくデュメルレイアによるものだろう、彼の着ていた服が枝に広げて掛けられていた。手に取るとまだ少し湿り気があったが着られない程度ではなく、着ていれば次第に乾くだろう。ルクシアは服に袖を通すと、小川へと向かって歩いて行った。


透き通った水に手を浸すと、想像以上の冷たさにルクシアはふるりと身体を震わせる。掬った水で顔を洗うと、纏わりつくような眠気と気怠さが洗い落とされていくかのような感覚を覚えた。


「長らく囚われていた鳥籠の外の景色はどうだ?お前にとっては久しい光景だろう?」


「ええ……本当に綺麗です」


どうやら恋の病とやらはルクシアによる放置によって完治したようで、後からやってきたデュメルレイアに寄り添われながら、ルクシアは目の前に広がる景色を見つめていた。


「はっはっはっ、この程度で目を奪われているようでは困る。これからは私がお前に様々な景色を見せてやろう。果てなき青玉海に、火を噴き燃える山、黄金靡く大平原。どれもこの世のものとは思えぬ絶景だぞ」


「デュメルレイア様はいろんな場所を知っているんですね。楽しみにしてます」


そうか、もう自分はグランダル領の中に縛られることはないのだった。これからは、デュメルレイアと共に何処までも行くことが出来る。彼を縛るグランダル王家という家系の檻、血の束縛は何処にも存在しないのだから。


それなら、もう一度あの場所にーーー


「お前は何か見たい光景はあるか?今すぐというわけにはいかないが、落ち着いた頃に連れて行ってやろうではないか」


「本当ですか?それなら……ずっと、あの場所に行きたいと思っていました。僕が滅すキッカケを作ってしまった、あの村に……」


遠くを見つめながら、ルクシアはそう呟く。何処か悲しげな彼の横顔を目の当たりにしたか、デュメルレイアは黙って彼の肩を抱いた。


閉じ込められている間、ずっと行かなければと願っていた。恐らく、今はもうそこに住む者は誰もおらず、僅かに村の残骸が残るだけだろう。だが、それでもせめて犠牲になった者達のために祈りたい。ルクシアはそう思いーーーそして、あることに気付いた。


(そういえば、昨日は夢を見なかったような……?)


あの惨劇から毎晩のように見ていた悪夢が、何故か昨晩に限ってはルクシアの精神を蝕むことはなかったのだ。


悪夢を見ない日は一日とて無かったというのに、一体何故なのだろう。恐らくルクシアを取り巻く環境が一変したことが大きな要因と思われるが、それだけであのトラウマを克服したとは考えーーー


「あっ……」


その時、ルクシアの腹からきゅるる、という気の抜けた音が響いた。そういえば、昨日は様々な出来事があったおかげで丸一日何も口にしていなかったのだった。成長期の空腹は、彼の抱える傷心的な空気を全く読んではくれなかった。


「す、すみません、お腹が……」


「はっはっはっ、腹が空くのならば身体はもう大丈夫そうだな。そら、これを食え」


そう言ってデュメルレイアが手渡してきたのは真っ赤に熟れた果実。ルクシアが目覚める前に、彼女が何処かから調達してきたものだろう。


「ありがとうございます。わざわざ取ってきて頂いたみたいで……」


「礼など不要だ。この程度調達することは造作もない。出来ることならば細身のお前にはたっぷりと肉を喰わせてやりたいところだが、ここはまだ王都に近い。迂闊にも火を起こしてお前が生きていることを悟られるわけにはいかん」


この森は王都の近郊にある。恐らくルクシアの殺害を画策した者達には既に死んだと思われているだろうが、用心深くその死体を探している者がいないとも限らない。デュメルレイアの配慮は当然と言えた。


「そうですね……ロジャー達、大丈夫かな。何もされていなければいいけど……」


この期に及んで自分の命を狙った者達の心配が出来るのは、ルクシアの優しさ故だろうか。恐らく二度と会う事は出来ないだろうロジャーの顔を浮かべながら手にした果実を一齧りすると、気力が漲るような甘い果汁が口の中一杯に広がった。


「あっ、美味しい……それに、少し懐かしいような……」


「当然だろう。それは十年前、私の元を訪れたお前に食わせたものと同じものなのだからな。あの頃のお前も大層お気に召したようでな、夢中になって頬張っていたぞ」


「そうだったんですね。だからこんなに懐かしいと……」


まるでその頃を思い返すように、果実を齧るルクシアを見つめるデュメルレイア。空腹だった彼が果実一つを食べ終わるのにそれほど時間は掛からなかった。


「ふう……ごちそうさまです。これでようやく一息つけました」


「そうか。では、そろそろ今後の展望について話をしなければならないな」


「今後の展望……ですか」


自由の身となったルクシアだが、実のところ制約もかなり多い。王都グランダルの第三王子であったルクシアは、過去の大罪もあって領内ではかなり顔が知られている。平穏な暮らしを求めるのであれば、まずはグランダル領から離れることが先決か。


しかし、領内から出たとしても落ち着いた暮らしが約束されているわけではない。川に落ちた時に僅かな荷物は全て流されてしまい、今の彼は完全なる無一文。生活の基盤を作るのには相当な労力を要するだろう。


そして、何よりデュメルレイアの存在もある。本来デュメルレイアの姿は巨大な白竜だが、今は故あって人の姿を取っている。その容姿は竜の部位と力をその身に宿すドラゴニュートという種族に酷似しているが、その種族は己の力の強大さから遥か昔に他種族との交流を断って何処かへと姿を消し、今となっては伝承にその名を残すばかりで近年人前に現れた記録は一切無い。


そんな種族の姿で人里に現れようものならば大騒ぎになることは必至。平穏な生活など到底手に入ることはないだろう。最悪、ルクシアの存在が露呈することにもなりかねない。


「悩ましいですね。街で暮らすことは難しそうですし……いっそのこと、誰も来ない山の中で暮らしませんか?僕はデュメルレイア様と一緒なら……」


「それはダメだ。ヒトの生活圏から隔絶された場所というものはお前の想像以上に過酷で劣悪な環境だ。お前の身体では数ヶ月と持つまい。それに、お前には……」


生物が生きていくには、何かしら生きる理由が必要だ。愛し、愛されるという関係ではまだ弱い。全てを失ったルクシアには、生きるための目的を持たせなければならない。それは人里離れた山奥では決して得ることは出来ないものだ。


ルクシアは今、己の贖罪とデュメルレイアを孤独にさせないという二つの理由で生きている。彼にはもっと多くの生きる理由を見つけて欲しい。それがデュメルレイアの願いであった。


「僕が……何でしょう?」


「…いや、何でもない。とにかく、お前に山暮らしなどさせられん。故に、私の伝手を頼ろうと思う」


「伝手……ですか?」


王都グランダル領内に住む多くの人々を貴賤問わず救ってきた彼女ならば、頼れる伝手を幾つか持っていてもおかしくはない。しかし、頼った先からルクシアの存在が露呈する危険性を考えれば、かなりリスクの高い選択肢とも言えた。


だが、デュメルレイアが認めた人物であれば、その可能性は低いのかもしれない。デュメルレイアが頼ろうと考える人物とは、一体何者なのだろうか。


「それは、どんな関係の方なのでしょうか?もしかしてお友達ですか?」


「うん?うむ、まぁ……友、ではないな。何と説明したものか……少なくとも友人、知人と呼べるほど親しくはない」


「それは赤の他人なのでは……?」


「実を言うと、その者とは命のやり取りをした仲でな。あの時は空を割り、大地を砕く争いの果てに、この私が辛くも勝利を収めたのだ。私の勇姿をお前にも見せたかったものだ」


「ええ……」


果たして、それを伝手と言って良いものだろうか。デュメルレイアと命のやり取りを、しかも彼女を苦戦させるほどの戦いをしたなど、その人物とやらは只者ではないことは間違いない。何やら一悶着ありそうな予感を覚えたルクシアであった。


「とにかく、お前は余計なことを考えず私について来ればいい。顔を合わせさえすれば、あとはどうにでもなるだろう」


「お話を聞く限り、トラブルの予感しかしないのですが……いきなり殺し合いになったりしませんよね?」


「それは心配無いだろう。お前がいるからな」


「は、はぁ……?」


デュメルレイアの意図は読めないが、他に案が無い以上、彼女の提案に乗る他はないだろう。一抹の不安を覚えながら、ルクシアは半ば無理矢理自分を納得させた。


「よくわかりませんが……デュメルレイア様がそう仰るのならば従います。その方は一体何処にいらっしゃるんですか?」


「そう離れてはいない。私の翼で飛べばすぐに着く距離だ」


「そうなんですね。デュメルレイア様と一緒にまた空を飛べるなんて、とても嬉しいです」


「ふふっ……お前にそう言われると、私も気合いが違うというものだ。お前に再び風の心地良さを教えてやろう」


デュメルレイアと共に飛ぶのは十年ぶり。あの時に味わった高い空から見下ろす雄大な景色は、地面から離れることの出来ない人間には決して得られない特別なものだ。


あの頃を思い返して笑みを見せるルクシアだったが、その顔が恐怖に引き攣ることになるとは、今の彼は考えもしなかったーーー

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