貞操の危機は突然に

「…ん、う……っ」


ふるり、と身体を震わせてルクシアの意識は深い眠りから覚醒した。微睡む思考は執拗に彼の意識を再び眠りの世界へと誘おうとしてくるが、素肌を撫でる冷たい空気がそれを許しはしなかった。


「ん、あう……?」


未だに頭が働いていないのか、意味不明の言語を洩らしながらルクシアはしょぼつく瞳を静かに開きーーー


「……え?」


その瞬間、飛び込んできたのは間近に迫るデュメルレイアの顔。瞳を閉じ、唇を突き出して接近してくる彼女から回避する術を、今のルクシアは持ち合わせていなかった。


「ちょ、なっ、デュメルレーーーんむううっ!?」


声を上げる暇もなく、デュメルレイアの唇はルクシアの無防備な唇を捉えた。静かな洞窟内に、ぢゅるるるというデュメルレイアの強烈な吸引力を思わせる音が響き渡る。鬼の吸引力を発揮する彼女と寝藁の間に挟まれ、逃げ場の無いルクシアの手が助けを求めるように天井へと向かって伸び、虚空を掴んでいる。


その音が十数秒ほど続いた頃だろうか、ようやく気が済んだところで、デュメルレイアはちゅぽんと音を立ててルクシアから離れた。


「ふぅ……堪能した。目覚めたか、ルクシアよ?」


「な、何をするんですか、いきなり……っ」


何処か満足げな表情を浮かべるデュメルレイアに対し、吸われすぎて口周りを真っ赤にしたルクシアは息も絶え絶え。意識が真っ白になりかけた刹那、ルクシアが見たのは数年前に虹の橋を渡っていった愛馬の姿。あと数秒離れるのが遅かったならば、冥府で愛馬との感動的な再会を果たしていたかもしれない。


「とある書物で知ったのだが、ヒトは眠った者に対し、接吻をして起こす習慣があるのだろう?しかも、愛する者の口付けは、性悪な魔女の掛けた呪いすら打ち破る力があるという。いやはや、愛の力とは偉大だな」


確かに呪いを解く方法が愛する者の口付けというのは創作の中でもメジャーだが、もっとロマンチックなものであって唇が腫れ上がるほどバイオレンスではなかったはずだ。


永い時を生き、多くの知識を持つ聡明なデュメルレイアだが、創作話を間に受けるほど人間の習慣や常識に疎いところがあるのかもしれない。


「それはあくまでも創作上のお話ですので、僕としては普通に起こして頂けると……」


「この私より遅く目覚めておきながら、随分と不遜な物言いではないか。んん?」


「そ、そのようなつもりではなくて……あっ!?」


ルクシアの両手を掴み、寝藁へと押し付けるデュメルレイア。一糸纏わぬ身体を隠すことも許されず、まるで幼子のような無垢な肢体を晒すルクシアを眼下に見下ろし、デュメルレイアは極上の獲物を前にした肉食獣のように舌舐めずり。その瞬間、ルクシアは背中に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。


逃げなければ、と思った時にはもう遅い。両腕は捕らえられ、両足の動きを封じるように尻尾が巻き付いている。力比べで彼女に叶うわけもなく、ルクシアを見下ろすデュメルレイアの眼差しに宿るのは性犯罪者のそれに近い。このままでは喉が枯れ果てるほどに貪られてしまうことは明らかであった。


「お前のような小生意気な者には、少々仕置きが必要のようだ。くっくっくっ、どれほどこの瞬間を待ち望んだことか。一度や二度で終わるとは思わぬことだな」


「ちょ、ちょっと待って下さい!僕にまだそういうのは早いと言うか……!」


「何をされようとしているのか、というのは理解しているのだな。何も知らぬように見えて、なかなか勤勉ではないか。昨日は傷心のお前に配慮して控えたが……もはや我慢ならん。覚悟するがいい」


「お、落ち着きましょうデュメルレイア様!こんな急にーーーひああっ!?」


顔を寄せるなり、ねっとりとデュメルレイアの長い舌がルクシアの首筋に沿って舐め上げる。びくりと驚いたように身体を跳ねさせたルクシアを、デュメルレイアはさも愉快そうに眺めていた。


「くっくっくっ……小鳥の囀りのように良い声で鳴くではないか。お前の無垢な肢体に、人間の小娘相手では味わえぬ極上の快楽を叩き込んでくれる。従順な子犬のようになるまで存分に我が愛を注ぎ込み、自ら身体を差し出し快感を懇願するようにしてやろう」


「ちょ、ちょっと待って下さい!こんなのおかしいですよ!」


「そうか、注ぎ込むのは私ではなくお前の方だったな」


「そうじゃありません!」


これはマズイ、非常にマズイ。デュメルレイアの思考は煩悩によって支配され、ルクシアを見る目が完全に据わっている。


ルクシア自身、彼女に対して好意を抱いてはいるものの、異性との経験が皆無に等しい純朴なルクシアを相手にいきなり性交渉を図るのは些か段階を踏み越え過ぎていると言わざるをえない。


それに、今はこのようなことをしている場合ではなかった。今後について、考えなければならないことはいくらでもある。こんなところで情欲に耽っている暇は無いはずだ。


何とかこの窮地を脱しなければと、ルクシアは自身の思考をフルスロットルで働かせる。


「ちょ、ちょっと待ってください!お願いですから落ち着いて下さい!」


「いいだろう、お前も心の準備が必要だろうからな。では何秒待つ?二秒か?三秒か?」


「待ってくれる気なんて無いじゃないですか!とにかく、僕の話を聞いて下さい!」


嫌がるところを従順になるまで強引に致してしまうシチュエーションも嫌いではないデュメルレイアだったが、さすがに度が過ぎれば嫌われてしまうかもしれない。


必死に訴え掛けてくるルクシアに、デュメルレイアは少し不服そうな表情を浮かべた。


「往生際の悪い奴め。お前も曲がりなりにも王族だろうが。ここまで来たら腹を括れ。そして私にお前の身体を堪能させろ」


「その……デュメルレイア様のお気持ちは、僕にもよくわかります。僕もデュメルレイア様の事は……好き、なので……」


「そうか。ならば何一つ問題無いな。では早速……」


唇を突き出し、ルクシアへと迫るデュメルレイア。彼女の昂りは最高潮。もはや彼女を止めることは不可能ーーー


「で、ですけど、僕……こういう事は初めてなんです!」


「む……」


ピタリと、ルクシアの言葉によってデュメルレイアの動きが止まる。性交渉の経験が無いことはルクシアの年齢ならばおかしいことではなく、逆にデュメルレイアのやる気に油を注ぐ行為と思われた。


「や、やっぱり、こういうことの初めてはとても大切にしたいんですよ。ですから、もっと場所や雰囲気が整った場所が良いなぁ……なんて」


「ぬ、ぬうう……っ」


表情を歪ませ、自らの理性と情欲の間で苦悩するデュメルレイア。彼女が単にルクシアの身体だけが目当てだったのであれば、一二もなく彼の身体を味わい尽くしていたことだろう。


しかし、デュメルレイアはルクシアの恋人という立場にある。最初の行為で彼の心に傷を付けたともあれば、二度目はもう無いかもしれない。男女の仲というものは、ほんの些細なことで瓦解することもある。抑えきれないほどの愛情を抱えたまま十年越しにルクシアと再会したデュメルレイアにとって、それは何より避けたいものであった。


「…確かに、お前の言い分にも一理ある。私も愛するお前を前に気が急いていたのやもしれん……許せ」


「あ、ありがとうございます。優しいデュメルレイア様のこと……僕も大好きですよ」


「ぬふぅううう……っ!」


どうやら、かろうじて難を逃れることが出来たらしい。地面の上でのたうち回りながら悶絶するデュメルレイアを見つめながら、ルクシアは胸を撫で下ろした。


「はぁっ……はぁっ……愛らしい顔で愛らしいことを言いおって。危うく我を忘れるところだったではないか」


「だ、大丈夫ですか……?」


「うむ、心配はーーー」


何故かそこで沈黙するデュメルレイア。何やら考え込むように視線を落とし、地面を見つめている。


「あ、あの……?」


「…いや、胸が苦しい。身体が震えて寒気もする。今にも気を失ってしまいそうだ」


「は、はぁ……?」


突然何を言い出すのだろうか。考えるまでもなく明らかに仮病なのだが、胸を押さえるデュメルレイアは迫真の演技を続けている。そもそも魔族による大魔法の直撃を受けても傷一つ負わないほど頑丈なデュメルレイアがそんな急病に掛かるはずもない。


「これは恐らく、恋の病というものに違いない。これを治療するには、お前からの濃厚な口付けがーーー」


「すみません、外の様子を見てきますね」


案の定と言うべきか、これ以上付き合ってはデュメルレイアの情欲が再燃してしまうかもしれない。ルクシアは寝床から起き上がると、デュメルレイアから逃げるように裸足で冷たい地面の上を洞窟の外へと向かって歩いていった。

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