最初で最後の約束
「動けないの?何処か怪我をしてるのかな?」
「ち、近付くな!このお方は……!」
「やめよ」
彼女は少年の前に立ち塞がろうとする配下を片手で制する。今は友好的な態度を示しているかもしれないが、自分の正体を知れば一転して救助が虐殺に変わってしまうかもしれない。既に力は失っているとはいえ、自分の首にはそれだけの価値があるのだから。
「おぬしは先に行け。我は……この者に用があるのでな」
「し、しかし……」
「二度も言わせるでない……行け」
「は、はっ……!」
配下の女性は何度も振り返りながら歩き去っていく。共に向かっても良かったのだが、彼女は少年に興味を持っていた。為政者として、貴族として、敵対する魔族を救う選択をしたこの少年を。
「あの、さっきの人は……?」
「ただのお人好しじゃ。魔獣共の餌にする以外、何の役にも立たぬ我をここまで連れてきた物好きよ。まったく……困ったものじゃな」
「そんな言い方したらダメだよ。とても優しい人じゃないか。こんな状況だし、親が子供を置き去りにすることだってあるんだから」
「う、うむ……すまぬ」
今の彼女の姿では致し方ないのかもしれないが、まるで聞き分けのない子供に対するような少年の対応に、彼女は困惑しながら頷いた。
「見た感じ、元気そうだけど……怪我はしてない?ちょっと見せてみて」
「い、いや、怪我などしておらぬ。気にするでない」
「でも、さっき立てなかったじゃないか。我慢しなくていいから」
「じゃから我は……っ、あっ……!」
不意に少年が彼女のローブの裾を捲り上げると、露わになった彼女の右足首が大きく腫れ上がっていた。これは道中、空腹と疲労から油断して転倒した時に捻ってしまったものだ。患部は熱を浴びており、少し動かすだけでも相当な痛みがあるはずだ。
「ひどい……何で言ってくれなかったの?」
「…心配ない、折れてはおらぬ。我はこの程度で弱音を吐くわけにはいかぬのだ」
「変な強がりなんてしなくてもいいんだよ。ちょっと待ってね。兄様が持たせてくれた良い薬があるんだ」
そう言って、少年は肩掛け鞄の中から仄かな虹色の輝きを帯びた透明な液体を讃える小瓶と包帯を取り出すと、包帯を中身の液体で濡らし、慣れた手付きで彼女の患部に巻き付けていく。
すると、液体の冷たさが肌に染み込んでいくかのように、足首に帯びる熱が収まっていく。恐らく、相当高価な魔法薬だったのだろう。足首を固定するように包帯を巻き終えると、少年は満足げに顔を上げた。
「はい、これで大丈夫。しばらく無理に動かさないようにね。すぐにまた歩けるようになるから」
「…すまぬ。本来ならば、おぬしが使うものだったのじゃろう?」
「気にしないで。僕は怪我なんてしてないし、僕の事は皆が守ってくれるから」
そう言って笑う少年を、彼女は静かに見つめていた。
魔族が不倶戴天の大敵であることは人間の共通認識であるはずだ。なのに、何故この少年はこうして手を差し伸べたのだろうか。彼女は少年のことがどことなく気になり始めていた。
「…おぬしは不思議な人間じゃな。魔族を救ったなどと知れれば、おぬしとてただでは済むまいに」
「心配してくれてるの?大丈夫だよ。ここには僕達しかいないから」
「それだけが魔族を救う理由にはなるまい。もし、礼を期待しているのであればやめておけ。我らは身一つで逃れてきた故な。その身体が目的であれば納得も出来るが……まだ色を知る歳でもあるまい?」
「あ、当たり前じゃないか。もう……最近の子っておませさんだなぁ」
「くくっ……なんじゃ、意味を知る程度には勤勉じゃな。結構結構」
顔を真っ赤にしながら否定する少年の姿に、彼女も思わず頬を綻ばせる。こうして笑うことが出来たのは何時以来だろうか。幽閉されて以降、ずっと己の無力感を痛感して沈んでいたような気がする。
こうして相手を和ませるのは、この心優しい少年の持つ一種の才能だろう。荒くれ者ばかりの獣人達をまとめ上げている理由にも納得が出来るというものだ。
「キミに変な誤解をさせたままにしたくないから言っちゃうけど……僕はただ、貴族として領民の人達……僕の大切な人達を守りたいだけなんだ」
「ならば、今の行動は矛盾するのではないか?我ら魔族は、おぬしら人間の敵なのじゃぞ」
「言ったでしょ、僕は守りたいだけだって。領民の人達を傷付ける人達が僕と同じ人間でも、僕は大切な人達のために戦う。だけど、キミ達はそうじゃないでしょ?困ってる人達がいたら助けるのは、貴族の務めだからね」
「あ……」
ああ、そういうことか。この少年は、人間と魔族という種族の違いで相手を見てはいないのだ。ただ、自分の大切なものを傷付けるのかどうか。ただそれだけなのだろう。だから、魔族を前にしても当然のように手を差し伸べることが出来るのだ。
そんな考え方が出来るのは非常に稀有な存在だ。だからこそ、彼女は少年に関心を覚えたのだろう。
「…感謝する。我は永劫、おぬしから受けた恩は忘れぬ」
「永劫だなんて、大袈裟だなぁ。僕は当たり前のことをしただけだってば」
少年は冗談のように捉えているようだが、彼女にとっては真剣そのもの。魔族相手でも救いの手を差し伸べられる少年。それはとても稀有な存在であると同時に様々な障害を呼び寄せることだろう。
いざ困難に陥った時、少年に手を差し伸べる者がどれだけいるか。少なくとも、彼女は彼を助けようと誓った。今この場で、彼女の大切なものを助けてもらったように。
「大袈裟ではない。永久に忘れぬよう、おぬしの名を我に教えよ」
「いいってば。それに多分……二度と会う事はないと思うし、ね」
「ぬう……」
少年の言葉に彼女は口籠る。彼の言う通り、彼女とは文字通り生きる世界が違う。今回の邂逅すら、神が何らかの手違いを起こしてしまったが故の奇跡と言える。今後、再び運命が交錯することは無いだろう。
だが、彼女は諦めきれなかった。どちらかと言えば飽き性の彼女が、これほどまで執着することは珍しい。しかも、それが自身より遥かに年下の人間の少年ならば尚更だ。
「それでもよい。名を教えよ」
「え、えっと……」
食い下がる彼女を前に困ったような表情を浮かべる少年。すると、彼はチラリと慌ただしく動き回る獣人達へと視線を向け、誰も彼の方向へと意識が向いていないことを確認して再び彼女へと視線を戻した。
「…本当はグスタフさんからも安易に名前を出すなって言われてるんだけど、キミだけ特別だからね?ちゃんと秘密に出来る?」
「誰に向かって言うておる。魔族にとって契約とは絶対のもの。決して口外せぬと約束しよう」
「それなら教えるけど……僕の名前はルクシアっていうんだ。覚えた?」
「ルクシア……そうか、おぬしが……」
彼女はその名前に聞き覚えがあった。王都グランダルを治める王族、その三男の名前だ。実父である国王から冷遇され、執政にもほとんど携わることを許されず、ただ領民からの意見要望を集約するだけの閑職に置かれているという。
他の兄弟達はこの戦争でも重要な役割を担っているだろうに、手柄を挙げることすら許されずにお飾りとして王都と戦線を行き来するだけ。彼にしてみれば、彼女達との遭遇はまさに千載一遇の機会だっただろう。
だが、彼は決して手柄を挙げようとはしなかった。不遇な立場に置かれながらも、自身の意思を曲げずに自らの良心に従って行動する少年に対して、彼女は永らく忘れていた感情を呼び起こすこととなった。
「…うむ、覚えたとも。ルクシアよ、もし再び邂逅することがあれば、恐らくおぬしは大変な立場に置かれておるやもしれぬ」
「ええ……縁起でもないこと言わないでよ。大丈夫だよ、グスタフさん達だっているんだから」
「いや、十中八九そうなっておるじゃろう。その暁には……行き場の無いおぬしを迎え入れ、我の伴侶にしてやろうではないか」
「は、伴侶?キミ、ちゃんと意味わかってるの?お友達と間違えてるんじゃ……」
「たわけ。理解しておるわ」
少年も驚いているようだが、彼女もまた自分の口からよもやこのような言葉が出るとは思わなかった。それだけ少年のことを気に入っているということだろうが、伴侶として迎えようと思ったのは初めてのことであった。
「光栄に思うが良い。我の伴侶に迎え入れられるなど、これ以上ないほどのーーー」
「えっと……ごめん、それは出来ないよ」
「えっ……」
生まれて初めて芽生えた彼女の初恋は、早くも失恋の苦味を味わうこととなった。つい先ほどまで得意げであった彼女の顔がみるみるうちに絶望色に染まっていく。
「い、いや、キミにそう言われて凄く嬉しいよ。だけど、僕……ずっと前に結婚するって約束した人がいるから」
「む……それはおぬしの許嫁とやらか?その女はこの我の誘いを無下にして胸の痛まぬほどの相手なのか?」
「ごめん、ごめんってば。キミには悪いとは思ってるよ。だけど、ね……その人は、僕にとって大切な人だから。もう何年も会えてないけど」
「そんなもの、その女もおぬしの事を忘れておるのではないか?」
「あはは……まだ覚えてくれているといいなぁ。もし忘れられてたとしても……僕には忘れられない思い出だから」
「むう……」
そう言って遠い空を見上げるルクシアの表情は、まさに恋をする者のそれであった。そこに彼女の入る余地は無いと思われたがーーー彼女も諦めの良い方ではなかった。
「いや、我は諦めぬぞ。必ずおぬしを我のモノにする。必ずじゃ!」
「え、えっと……困ったな。そ、そうだ、お腹空いてるよね?食べ物を取ってくるから、ちょっと待ってて」
話をはぐらかしながら立ち上がるルクシア。ここで逃せば、戻ってくるのは別の獣人だろう。それを予期したからこそ、彼女はとっさにルクシアの腕にしがみつく。
「わっ!?ちょ、ちょっと、危ないじゃーーー」
バランスを崩すルクシア。彼の頭が下がったところで、彼女は彼の唇に自身の唇を重ねた。それは瞬きをしたかのように一瞬の出来事。すぐに二人の顔が離れたが、その唇には確かな感触が残されていた。
「あ、あの……」
「…諦めぬぞ。我は、絶対におぬしを諦めぬからな」
ルクシアを見上げる彼女の瞳にはうっすらと涙の膜が掛かっている。どんなにここで食い下がろうとも、彼が自分のモノになることはない。これが最初で最後の恋だったというのは彼女も自覚しているのだろう。
それを察したか、ルクシアは微笑みを浮かべながら彼女の頭を撫でた。
「…ありがとう、とても嬉しいよ。もし、もう一度会えたら……その時は、キミのお婿さんにしてもらおうかな」
「…必ずじゃな?絶対じゃぞ。反故にすることは許さぬからな」
「うん、約束だよ」
これは、誰も知らない彼女の最初で最後の淡い恋。二度と会う事のない二人の、叶うはずのない儚い約束。
だが、彼女は数年に渡って苦しむことになる。この時、静かにこの場を離れていく数人の姿を見落としていなければーーーこの恩を、仇で返すことにはならなかっただろうと。
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