舞い降りし翼
「あ……う……?」
寒い。身体が重い。暗闇に沈んでいた意識から覚醒したルクシアが静かに重い瞼を持ち上げると、視界の中に新緑色の景色が広がっていた。草の匂いのする柔らかい風が頬を撫でて、半分闇に沈んだ意識を優しく浮かび上がらせていく。
「生き……てる……?」
気怠い身体に鞭打ち、ルクシアが何とか辺りを見回すと、そこは森の中を流れる透き通った清流の流れる小川。下半身を冷たい水に浸し、ルクシアは川岸に力無く横たわっていた。
どうやら、運良く溺れる前に川岸まで流れ着いたらしい。あれだけの激流に揉まれ、岩壁に叩き付けられながらも生還したのはまさに奇跡としか言い様がない。
「奇跡、か……は、ははは……」
動かない身体で空を見上げながら、ルクシアは乾いた笑みを洩らした。
運良く生き延びたからどうしたというのだ。誰も自分が生きている事を望んではおらず、誰もが凄惨な死を求めている。生きていたところで、自分の命は路傍に転がる石のように無価値。この生に意味は無いのだ。
だが、それを理解していたはずのにーーー自分は逃げてしまった。
命懸けで逃してくれたロジャーの言葉に、諦めていた生きたいという想いを思い出してしまった。生きていても償う方法があるのだと、生きて償い続けなければならないのだと思ってしまった。生きて償い続けていれば、きっとーーーいつか、赦される日が来るのだと思ってしまった。
「何をやってるんだよ、僕は……何を、考えているんだよ……っ」
身の程を弁えない、都合の良い解釈。生き汚い、詐欺師の卑怯者。赦されたいなどと思って良いはずが無い。自分は罪人で、人殺しなのだから。こんな自分本位な考えを起こしてしまう自分が生きていて良いはずがない。
「あ……」
その時、ルクシアは傍らに鞘に収まった小さなナイフが浮かんでいることに気が付いた。恐らく、ルクシアのリュックの中に入っていたものだろう。横たわったまま、ルクシアは目の前のナイフから視線を動かすことが出来なくなっていた。
「…生きてちゃ、ダメなんだ……僕は、死ななきゃダメなんだ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ルクシアはナイフに向かって手を伸ばす。これで全てを終わらせる。ようやく償いを終わらせる事が出来る。人々の願いを果たすことがーーー
「あっ……」
ルクシアの指先が触れた瞬間、軽く押し出されたナイフは再び川の流れに乗って動き出した。ゆらゆらと揺れながら、白波の中に消えるナイフ。それを無言のまましばらく見つめていたルクシアだったが、おもむろに伸ばし掛けていた腕で顔を覆った。
「何で……何でホッとしてるんだよ、僕は……っ」
その声色に籠もるのは自身に対する強い憤り。その激情は心の器から溢れ、涙となってこぼれ落ちた。自分は罪人だ。生きたいなどと思ってはいけないはずなのに、ルクシアは溢れ出した想いを抑え込むことが出来ないでいた。
生きたい。だけど理由が無い。誰にも生きることを望まれていない。救いなど絶対に欲してはいけないものだ。苦しんで、苦しんで、苦しみ続けた果てに朽ち果てることが唯一の贖罪。それを忘れることは、絶対に許されないことなのだ。
「あ……?」
その時、ルクシアのすぐ傍の茂みが揺れた。衛兵達が追い掛けてきたと思われたが、微かに漂う獣臭がその予想を否定する。動けないまま、ただ静かに揺れる茂みの奥を見つめるルクシア。やがて、その正体が露わになった。
ずちゃりと湿った地面を踏み締めて現れたのは、黄色に白が混ざる毛並みをした大型の魔物。その体躯は馬よりも大きく、口元から三日月のように湾曲し鋭く伸びた牙が特徴的な魔物、ブレイドライガーであった。
王都近隣の森に生息する魔物の頂点に君臨する強さを誇る存在であり、その鋭い刃のように研ぎ澄まされた爪牙は強固なプレートメイルをまるでバターのように引き裂いてしまう。
強い縄張り意識と獰猛な気性は人間だけでなく他の魔物にも恐れられ、その縄張りに集落を形成してしまったゴブリンとオークの群れを全滅させてしまったという話もある。
縄張りにさえ入らなければ積極的に襲ってくる魔物ではないのが唯一の救いだが、ルクシアが流れ着いたこの場所は運悪くブレイドライガーの縄張りであったようだ。ブレイドライガーはルクシアの傍まで歩み寄ってきたかと思えば、その鮮度を確かめるように湿った鼻先を近付けて匂いを嗅いできた。
「…お腹減ってる?はは……いいよ、僕で良ければ」
乾いた笑みを洩らし、ルクシアはブレイドライガーに身を捧げるように瞳を閉じる。魔物の餌食となって死ぬのは、自分で死ぬことも出来ない臆病者の自分には相応しい最期だ。
そんなルクシアの意思が通じたか、ブレイドライガーは真っ赤な舌でペロリと舌舐めずり。その口蓋を大きく開きながら、鋭利な牙を彼の喉元へと突き立てようとーーー
「おい」
突然、どこからともなく透き通るような美しい声が響いた。姿の見えない乱入者の姿を捜してブレイドライガーはルクシアから離れて注意深く周囲を見渡し、ルクシアも驚いて閉じていた瞳を開いた。
「今の、声……」
呆然とするルクシアの中で眠っていた古い記憶が揺り起こされる。自分は、この声の主を知っている。いや、忘れるはずがない。あの日、十年前を最後に会うことの叶わなかった彼女の声を。
だが、彼女がこんな場所に現れるはずがない。彼女は王都を守護する立場から、聖域から離れられないはずーーー
ルクシアがそう思考を巡らせた直後、空中から舞い降り、枝葉の騒めきと共に土埃を上げて一人の人物がルクシアとブレイドライガーの間に割り込むように降り立った。
「あ……ああ……」
ルクシアに背を向け、砂埃の中から現れたのは一人の女性であった。すらりと背が高く、腰下まで伸びた長い銀髪を靡かせ、煩わしそうに顔に掛かる髪を掻き上げた下から現れたのは、まるで絵の中から飛び出してきたのような同性でも色を覚えるほどの美貌である。
切れ長の瞳は凛々しくも同時に優しい温かみがあり、その宝石のような優しい輝きに自然と視線が吸い込まれそうになる。まさに人間離れした魔性の美貌ーーーいや、事実彼女は普通の人間ではなかった。
ボンテージアーマーのように豊満な胸元や豊かな腰回りを覆うのは、ダイヤモンドのように煌めくプリズムカラーの甲殻。肘と膝下から先は細かな鱗によって覆われており、そして臀部の上から伸びる長くしなやかな尻尾が鞭のように大地を打ち、銀髪を掻き分けて頭の両側から突き出した二本の角が天を貫くように伸びている。
その姿は、最強の生物であるドラゴンを彷彿とさせる。だが、その認識は決しては誤りではない。何故なら、彼女こそ王都グランダルを古くから見守り続けてきた古竜の守護者。人と縁を結び、邪を払う聖なる翼。守護竜、デュメルレイアなのだから。
乱入者を前に姿勢を低く身構えるブレイドライガーだったが、デュメルレイアとの格の違いを本能で察しているのか飛び掛かる気配は無い。しばらく沈黙のまま睨み合いをしていた両者だったが、デュメルレイアが両翼で立ち込める砂埃を吹き飛ばして口を開いた。
「…早々に去れ、獣。我がつがいを喰らおうとした行為は腹立たしいものがあるが、私に弱者の命を悪戯に奪う趣味は無い。それに……今は何より、私はこの者に用があるのでな」
ブレイドライガーにそう言い放つなり、デュメルレイアはルクシアへと向き直る。十年前と変わらない姿がすぐ目の前にある。ルクシアは無意識の内にデュメルレイアへと手を伸ばしていた。
「デュメル、レイ……あっ」
ルクシアがその名を呼ぶよりも早く、デュメルレイアは横たわる彼を軽々と抱き上げて抱擁する。ルクシアの小柄な身体が柔らかなデュメルレイアの肢体に包み込まれ、濡れた衣服越しにも温かな体温が伝わってくる。デュメルレイアは胸に抱いたルクシアの身体を、その存在を確かめるように抱き締めた。
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