第3話
その日の夜。
スマホのメッセージアプリを開き、かつて火傷を負わせてしまった幼ななじみのアカウントとにらめっこをしていた。
メッセージ画面は、まっさら。もともとお互い欲しくて交換したわけでなく、中学進学時に連絡網として学校側に強制的に交換させられたものだったからだ。結局、一度も起動しないまま卒業したが、今でも消すことができずにいた。
『後悔してるなら、謝ったらいいんだよ』
昼間の彼女の言葉に押されるように、指先がぽっと画面に触れる。
「あっ……」
画面が発信中に切り替わり、心臓が暴れ出す。
パニックになり、バツ印を押そうとしたとき。
『汐風くんの悪いところは、勝手に自己完結しちゃうところだと思うよ!』
もう一度千鳥さんの声が聞こえて、思いとどまる。
そっと耳元にスマホを持っていく。しばらく発信音が響いて、そして、音がプツッと切れた。
『もしもし?』
「あ……」
久しぶりの親友の声に、それまで考えていた言葉がすべて吹っ飛んで、頭が真っ白になった。
「あ、あの、錦野……だけど」
とりあえず名乗り、口を噤む。
『あぁ……うん。どうしたの、いきなり電話なんて』
戸惑うような声が返ってきて、僕は少し早口になる。
「あぁ、うん……あの、どうしてるかなって」
『高校?』
「うん」
『楽しいよ。しおは? 県外に行ったって、噂で聞いたけど』
「うん。神奈川」
『……そっか』
楽しいか、とは聞かれなかった。
「あのさ、今さらなんだけど……腕、大丈夫?」
その言葉だけで、親友は僕がなにを言いたいのか分かったようだった。
「……ごめん。ずっと、謝れてなくて」
震える声で続ける。
「今さら謝ったって、遅過ぎることは分かってる。許してほしいなんて思ってない。ただ……」
『違うよ』
しんとした声が返ってきて、僕は続けようとしていた言葉を飲み込む。
『謝るのは、俺のほう。俺こそずっと謝りたいって思ってた』
返ってきた予想外の言葉に、僕は戸惑う。
「なんで、
久しぶりに呼ぶ親友の名前は、なんだか慣れない。
『中学のとき、俺たちすっかり疎遠になってたのに、しおはからかわれてた俺を助けてくれただろ。それなのに俺は、孤立していくしおを助けられなかった。……いや、助けなかったんだ。またいじめられるかもって思ったら、怖くて』
「……そんなことどうだっていいよ」
そもそも孤立したのはこの力の噂が広まったからであって、凪のせいではない。
『よくない。俺はずっと引っかかってた。あのとき庇ってくれてありがとうって、守れなくてごめんって、ずっと言いたかった。……けど、いざ声をかけようと思うと、周りの目とかいろいろ考えちゃって……話すのが怖くなって、結局なにも言えないままだった。……マジごめん』
「……凪」
『あのときちゃんと向き合ってたら、今もまだしおと友だちでいられたのかなって、ずっと後悔してたんだ』
「後悔……してた。僕も」
『しおが連絡くれなかったら俺、ずっともやもやを引きずったまま後悔し続けてたと思う。正直、もう連絡なんて来ないと思ってたし』
僕だって、そうだ。
『ねぇ、なんで連絡くれたの?』
「……こっちで出会った子に言われたんだ。後悔してるなら謝れって。謝って過去がなくなるわけじゃないけど、少しはすっきりするかもしれないって。たぶん、そう言われなかったら僕も連絡なんてできなかったと思う」
『いい子だな、その子』
「……まぁ、ちょっと変わってるけどね」
『もしかして彼女?』
「ち、違うよ!」
慌てて否定すると、
『でも好きなんだな。その子のこと』
「なんでそーなんの」
にやつく凪の顔が浮かび、げんなりする。
『だってアドバイスされたってことは、じぶんのことその子に話したってことだろ?』
「……それは、まぁ」
『それだけ、心を許してるってことじゃん』
そうなのだろうか。よく分からない。
『なぁ、しお』
「なに?」
『今度、遊ぼーぜ』
「……うん」
しばらく話すうちに、僕たちはいつの間にか小学生の頃のように笑い合っていた。
通話を切り、ベッドに身を投げ出す。静寂が戻った部屋の中、僕はふぅ、と息を吐きながら胸を押さえる。
心臓の辺りが、なんだかぽかぽかするような気がして、僕はふわふわとした気分のまま目を瞑った。
***
「汐風くん見てみてーっ! 変な貝殻見つけた!」
蒼ざめた空の下、広がるのは果てのない水平線。
創立記念日で休みの今日、僕は桜と海に来ていた。
浅瀬の海に足を浸してはしゃぐ桜を、砂浜から眺める。
あれから僕たちは少しづつ距離を縮めて、今では名前で呼び合うほどに仲良くなった。
でも、べつに付き合っているとかではない。
今日だって、待ち合わせをしたわけではなかった。神社に行けば必ず彼女が桜の木のところにいて、目が合えば話しかけてきてくれるから、だからいつもなんとなく一緒にいる。
ふとスマホを見て、ハッとする。
「桜、そろそろ帰る時間じゃない?」
「今何時?」
「十一時半」
「あーそっかぁ」
名残惜しそうにしながらも、桜は素直に海から上がった。
「そろそろ帰らなきゃ」
「じゃあ、送る」
「ありがと!」
桜は、大学病院に入院している。彼女曰く、午前十時から正午辺りまでなら外出していいそうで、だから会うのはいつもこの時間と決まっているのだ。
彼女がどんな理由で入院しているのか、僕は知らない。彼女が語りたがらないから、聞かない。……というのは建前で、聞けないのだ。怖くて。
桜を病院へ送り届けたあと坂を下っていると、凪から電話がかかってきた。凪の高校は今が昼休みなのだろう。
なにしていたのかと訊かれ、僕は素直に桜と会っていたことを話した。
すると、
『はぁ? そんな会っててなんでまだ付き合ってないの? さっさと告れよ! 好きなんだろ?』
「……まぁ」
『おーい、聞こえないぞ』
「好きだけど。でも、桜のこと、まだよく知らないいし。桜が僕をどう思ってるかも……」
『両想いじゃなきゃ告白しないのかよ』
「だって、もしふられたらぜったい気まずくなるだろ」
もしかしたら、関係が終わってしまうかもしれない。
『大丈夫だよ。ぜったい両想いだろ』
「……そうかな」
凪に背中を押され、すっかりその気になった僕は、そのまま夜中まで告白大作戦を考えるのだった。
翌週の日曜日、十時に紫ノ宮神社に向かう。
手には、小さな紙袋。
凪と話し合った結果、プレゼントとともに告白するという結論に至ったのだ。
昨日、駅ビルの雑貨屋で悩みに悩んだ末、選んだのは黒猫が桜の枝をくわえているキーホルダー。買った今も本当にこれでよかったのか、よく分からない。でも、彼女のイメージは桜の花と黒猫だったから、これ以外ピンとこなかった。
「大丈夫。黒猫好きっていうのは確実なんだし」
そう声に出してじぶんの心に言い聞かせ、僕は神社へ向かった。
銀杏並木の参道を抜けると、いつもの場所に桜がいた。
「桜!」
「あー汐風くん! 君、昨日来なかったでしょー」
桜は僕に気付くなり、ぷんすか怒った様子で駆けてくる。
「昨日は用事があったんだよ」
「用事ぃ?」
じとっとした視線を向けてくる桜に苦笑しつつ、僕は能舞台に寄りかかった。それを見て、桜も僕のとなりに来る。
「昨日は君が来るの待ってたら、雨が降ってきたんだよ」
「え、それは災難だったね」
「ううん、ぜんぜん! 嬉しかったよ。君には会えなかったけど、虹が見えたから」
「虹……」
空を見上げる。彼女といるときの空は、いつも青々としている気がする。
「生まれて初めて見たんだ、虹!」
生まれて初めて……。
黒猫も、虹も。
彼女の言葉の節々には、いつも引っかかる。彼女はいったい、これまでどんな生活を送ってきたのだろうと。
やっぱり知りたい。彼女のことを、もっと。
そう、強く思った。
どくんと心臓が弾む。心臓が全身に血を巡らせるためのその一音は、まるで僕の背中を押すかのようだった。
「……あのさ」
「んー?」
「これ、あげる」
後ろ手に隠していた紙袋を彼女の前に突き出した。
「えっ、なになに?」
桜は瞳をきらきらとさせて、紙袋を受け取る。まるで、ずっとほしかったおもちゃを初めて与えられた子どものようにはしゃぐ桜に、やっぱり買ってよかったと心から思う。
桜は、鼻歌交じりに紙袋からキーホルダーを取り出した。
「わぁっ黒猫! しかも桜だっ!!」
開けていい? のひとこともなく紙袋を破る彼女があまりにも彼女らしくて、屈託のない笑顔を返してくれる桜が可愛すぎて、僕は気付いたら、
「好きなんだ」
と漏らしていた。
口走ってからハッとして、桜を見る。すると桜は思いがけない顔をしていた。
まるで、きれいなガラスにヒビが入ったときのような。
怯えるような、心もとない顔。
どうして?
「……ごめん」
「え?」
「私……ごめん」
桜は僕の胸にキーホルダーを押し付けると、神社を飛び出していってしまった。
「え……」
どうして? さっきまであんなに嬉しそうに喜んでいたのに。
手元に残された黒猫を見下ろして、僕は放心した。
どんよりした面持ちで家に帰ると、ちょうど蝶々さんが昼食を作っていた。
「おかえりしおちゃん」
「……ただいま」
僕の暗い声音に、蝶々さんが振り返る。
「……おかえり」
ふんわりとした優しい微笑みが僕に向けられる。
「あの、蝶々さん。これ、あげます」
「あら、可愛い」
渡されたキーホルダーを見て、蝶々さんは静かに息を吐いた。
「……そっか。ちゃんと青春してるのね、しおちゃん」
涙で視界が滲む。服の袖でごしっと目元を拭う。ぽん、と頭の上に蝶々さんの優しい手のひらがのった。
「ちゃんとってなんですか……てか、青春のひとことで片付けないでくださいよ……」
言い返しているこのときも、ぽろぽろと涙が溢れてくる。
「ふふ、ごめんごめん」
蝶々さんは僕の肩に手を置くと、そのままぐいっと押してきた。
「さ、ご飯食べよう。すぐできるから、ちょっと座って待ってて」
促されるまま、椅子に座る。
正直、食欲なんてこれっぽっちもない。でも、蝶々さんがわざわざ出してくれた食事を今さら断ることもできず、無理やり口に運んだ。鼻が詰まっているせいで味なんてぜんぜん分からなかったけれど、「美味しい」と言ったら蝶々さんは笑っていた。
その日の夜、凪から電話がかかってきた。昼間、メッセージを送ったのだ。
「ふられました」と、ひとことだけ。
画面を見ながら、出ようか迷う。今出たらまた涙腺が緩んでしまいそうで、怖かった。でも、先にメッセージを送ったのは僕だ。少し間をおいてから通話ボタンを押す。
「もしも……」
『しおー! ふられたってマジか!?』
とんでもなく大きな声が耳の中で響いて、思わずスマホを遠ざけた。
「うるさ……」
『しお、ごめん。マジでごめん! 俺がけしかけるようなこと言ったからだよなぁ』
「違うよ。僕が言いたかったから言ったんだよ。凪のせいじゃないってば」
『でも……』
その後しばらく電話口の凪は泣きべそをかいていて、僕はなだめるのに必死で、泣く暇すらなかった。
「……つか、なんで凪が泣いてんだよ」
『だってぇ……』
すんすんしている凪の声を聞きながら、僕は初めて、友だちってこんな感じだったっけと思った。
「……言ってよかったな」
気付いたら、口からそんな言葉が漏れていた。
『は? なにを』
「告白。だって、凪がこんなに泣いて慰めてくれるとは思わなかったから」
『俺だって泣く気なんてなかったよ。でも、お前のこと考えてたら勝手に涙が出てくるんだよぉ』
「大袈裟だな」
笑ってはいけないのだけど、凪のふにゃふにゃした声がおかしくて笑いそうになっていると、
『なぁしお。俺さ』と、凪が話し出した。
『俺、しおが連絡くれたとき、すごく嬉しかったんだよ』
「ん?」
『俺との思い出なんて、まるごとなかったことにされてるんだろうなって思ってたから』
「…………」
『でも、話を聞いたらしおはずっと俺のことを考えてくれてた』
「当たり前だろ」
『うん……でもそれ、言わなきゃ分かんないんだよな』
「え……?」
『しおに教えられてから、俺、いろいろ話すようになったんだ。親とか友だちとかとさ』
「そうなの?」
『うん。俺思うんだけど、今のしおと桜ちゃんは、昔の俺としおなんじゃないかな。しお、言ってたじゃん。桜ちゃんのことなにも知らないって。なんとなくだけどさ、桜ちゃんも、しおみたいに言いたくても言えないことがあるんじゃないの。もしそうなら、きっとひとりで秘密抱えて、苦しんでるんじゃないかな』
ふと、桜がかつて呟いていた言葉を思い出した。
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される桜に』
『意味があるの、ぜったい。どんなものにも』
『君は、必要な人間だよ』
……そうだ。桜はずっと、桜の花を見上げていた。
焦がれるような眼差しで。
怯えるような眼差しで。
生きる意味を探しているような、切なげな横顔で。
いつも、昼間にだけ現れる不思議な女の子。
あの場所で、桜はなにを思って……。
「凪、ありがと。僕、もう一回桜と話してくる」
『おう。頑張れ』
通話を切り、部屋を出ると、すぐ目の前に蝶々さんがいた。
「探し物はこれかな」
差し出された手にあったのは、黒猫と桜のキーホルダー。
「すみません」
頭を下げつつ受け取ると、蝶々さんが言った。
「良い友だちができたのね」
「はい。親友です」
僕は笑顔で、そう答えた。
神奈川に来て、僕は初めてひととかかわることの尊さを知った。
ひとりで生きていけると思っていた。
でも、そんなことはなかった。
気付いたらいつも、だれかそばにいてくれるひとがいないかと探した。
ひとりは寂しかった。
だれかと語らいたかった。
意見が聞きたかった。
結局僕は、ひとりではなにもできない。
神奈川へ来られたのは、蝶々さんがいたから。
学校へ通えているのは、両親がいるから。
学校が窮屈でないのは、凪や、桜や、蝶々さんが……相談できるひとがいるから。
毎日が色鮮やかに見えるのは、桜がいるから。
ひとりじゃないから、生きていられる。
桜もそうだ。
あの日桜が僕を救ってくれたように、桜も声を上げている。
助けて、と叫んでいる。
……会いたい、桜に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。