第2話
『個性』という言葉を聞くたび、僕はいつも疑問を抱いていた。
だって、どこまでを個性と呼ぶのだろう。
じぶんの意見をはっきり言うことは、一般的には美徳とされているけれど、社会ではそうではない。
右にならって、『みんなと同じ』ほうがぜったいに生きやすい。
じぶんの意志を持ち、『ひとと違う』ことは、否定されがちだ。
それなら僕は、いったいどうしたらいいのだろう……。
叔母の家に来てから、一ヶ月が過ぎた。ずっと気が重かった高校生活は、始まってみれば、案外静かで淡々としていた。部活に入らず、必要最低限の関係を築いてしまえば、高校生活はそれほど居心地が悪いものではないのかもしれない。僕自身のことをクラスメイトが嫌うほど知らないから、もいうのもあるかもしれないが。
「しおちゃん、新しい学校はどう?」
僕は今、叔母である
「まぁ、ふつうです」
答えてから、あさりの炊き込みご飯を口に入れる。
「しおちゃんが高校生かぁ。あんなに小さかったのに、感慨深いなぁ」
「大袈裟ですよ」
蝶々さんは、母の妹だ。歳はたしか、結構離れていたから三十代半ばくらいだったはずだ。
正直、母とはぜんぜん似ていない。細くてきれいで、元医師だから頭もいい。
上品に動く口元だとか密やかな喉元を眺めながら、そういえば幼い頃は蝶々さんのことを人形だと思い込んでいた頃があったなと思い出した。
きれいにカールした長いまつ毛とか、白くて透き通った白目だとかがあまりにも作り物めいていて、だから母が蝶々さんにご飯を出したときはとても慌てた。それで僕が蝶々さんを人形だと思っていることが発覚して、両親にめちゃくちゃ笑われた。
もちろん、蝶々さんも驚いた顔をしていたけれど、笑いはしなかった。
蝶々さんはいつだって優しい。子供であっても大人であっても、ぜったいに態度を変えない。からかうようなことも言わない。
僕の悩みを一晩中だって聞いてくれるし、僕の感じたことや意思ををぜったいに否定したりしない。
今回、僕が神奈川の高校に通えることになったのも、蝶々さんが両親を説得してくれたおかげだ。
蝶々さんは、いつだって僕の味方になってくれた。だから僕は、蝶々さんにだけは素直になれた。みっともない感情でも吐き出せた。
僕にとって蝶々さんは、なくてはならない、酸素のようなひとだ。
母がいやだというわけではないけれど、もしこのひとがじぶんの母親だったら、と思ったことは何度かある。
ぼんやりとしていると、蝶々さんが顔を上げた。
「今日はなにか予定あるの?」
蝶々さんは菜の花の胡麻和えを口へ運びながら、ひっそりと微笑んだ。
「もし予定がないなら、街を散策とかしてみたらどうかな? ここに来てからほとんど外出てないでしょ?」
「……そうですね。そうします」
蝶々さんは、僕がひとと関わることを避けていることも、その理由も知っている。だからあまり口うるさいことは言わない。それでもたまに、こうして気を遣ってくれることがある。申し訳なく思う反面、先回りしてくれるその優しさはありがたかった。
「そういえば、坂の途中の紫ノ宮神社って、すごくきれいなところですよね。能舞台とか、大きな桜の木もあって」
僕の話に、蝶々さんは一度目を丸くしてから、
「あぁ、あの神社ね、
「えっ! そ、そうなんだ」
じわじわと恥ずかしさが込み上げる。
「縁結びの神様が有名なの」
「あぁ、だからユカリ……」
「私もよく行くけど、しおちゃんもお参り行ってきたらいいよ」
「え、いや、僕べつに縁結びとか、恋愛とか興味ないし」
慌てる僕に、蝶々さんは穏やかな口調で言う。
「あら。縁結びは恋愛に限った話じゃないわよ。ひととひとを繋ぐ縁には、ほかにもたくさんあるでしょ。友達との縁とか、より良い就職先とか。巡り会いってね、良くも悪くもひとを変えるのよ。だからとても重要なの」
「…………」
「しおちゃんのひとりでいたいっていう気持ちも分かるわ。ひと付き合いって煩わしいからね……他人は勝手に期待したり評価したり、失望する。いやになるよね。でも、マイナスなことばかりでもないの。しおちゃんはまだ、本当に好きなひとと出会ってないだけ」
陽だまりのように優しい声だった。
「……蝶々さんは、出会えましたか? 本当に好きなひとに」
おずおずと訊ねると、蝶々さんは小さく頷いた。
「出会えたよ。もうしばらく会っていないけど、彼女はずっと、私の特別なひと」
「え……女のひと?」
少しだけ前のめりになる僕に、蝶々さんはひっそりと笑う。
「あ、べつに恋ってわけじゃないわよ。いわゆる親友ね」
「あぁ……」
そういえば、と思う。
昔、母から聞いたことがある。蝶々さんには、中学生の頃とても仲がいい親友がいたそうだ。けれど、その子は中学三年の冬、突然失踪して行方が分からなくなってしまったらしい。すぐに行方不明届が出されて、家族も蝶々さんも散々探したけれど、とうとう見つからなかったとか。
おそらく、蝶々さんが語った『特別なひと』というのは、消えてしまったその親友のことなのだろう。
蝶々さんはさっき、『しばらく会っていない』と言った。まるで、そのうち会うつもりでいるような言い回しだ。
蝶々さんはきっとまだ、その親友が帰ってくるのを待っているのだろう。
「あ、しおちゃん、菜の花の胡麻和えは?」
蝶々さんがおもむろに小鉢を僕に出す。
「あ、もういいです。こっち、もらいます」
やんわり断り、代わりにその隣の卵焼きをとる。実を言うと、菜の花は口の中に広がる独特の苦味が苦手で、胡麻和えはひとくちも食べていない。たぶん、蝶々さんは気付いている。
僕は残りのご飯をお箸で挟み、ひとくちで食べる。醤油とあさりの風味が広がった。最後に卵焼きを食べ、箸を置く。
「ごちそうさまでした」
食事を終えて部屋に戻ると、上着を持って外へ出た。
ふらふらと坂を下っていると、例の神社――紫ノ宮神社の通りにつく。道の先に神社が見えた。鳥居の下に例の黒猫を見つけ、足を止める。
黒猫は僕を見て、「よお」とでもいうようにひとつ鳴くと、そのままてんてんと跳ねるような歩き方で神社の奥へと入っていく。
鳥居を見る。
「縁結び……」
この前来たときはお参りはしなかったし、せっかくだから寄っていこうかな、と思い、僕は通りへ入った。
石畳が敷かれた参道の両脇には、淡い色の葉をつけた銀杏並木。銀杏の木漏れ日が落ちる参道を抜けると、静けさの落ちた境内が広がっている。
お賽銭を投げ入れて、鈴を鳴らす。
「…………」
お参りを済ませて来た道を戻ろうと回れ右をすると、能舞台が見えた。
あの日満開だった桜は、だいぶ散ってしまっているが、まだまだ美しい。
「にゃあ」
黒猫の声がした。見ると、黒猫が舞台の上で我が物顔で毛繕いをしている。そっと近付くと、花びらが能の舞台の床に絨毯のように敷き詰められた美しい光景が目を焼いた。
ちらりと辺りを見回して、あの子がいないことを確認する。
……いや、べつに会いたいわけじゃないし、がっかりなんてしていない。ただ、なんとなくいそうな気がしたから、ちょっと確認しただけだ。
……と、なぜかいいわけめいたセリフが脳内を過ぎって、頭を振る。
「にゃあ」
黒猫が鳴いた。
そっと、驚かせないようにそばに寄り、舞台に背を預ける。
黒猫と同じような感じで、ぼんやりと桜を見上げた。
もうすぐ、春が終わる。
ここへ来ることが決まったとき、蝶々さんにひとつだけ言われたことがある。
『ひとりになるためにここに来るのはだめ。ここに住むからには、ちゃんとひとと関わること』
県外の高校を選んだのは、知り合いがいないからだ。
すべてをリセットしたかった。地元の人間は、みんな僕のことを知っているから。
蝶々さんには悪いけど、友達を作る気はなかった。僕はただ、ふつうの人間としてふつうの学校生活を送れればそれでいい。これからも。
ぼんやりしていると、新しいなにかをもたらすかのごとく春風が、桜の枝をざわっと揺らした。花びらが僕に向かって降り注ぐ。
降り落ちる花びらを見上げていると、背後でざりっと砂利を踏み締める音がした。
振り向くと、そこにいたのは春そのものを連れた女の子――。
「あーっ!! 汐風くんだっ!」
見覚えのある影に小さく声を上げた瞬間、弾けるような声が聞こえた。
千鳥さんだ。千鳥さんは、初めて会ったあの日と同じ、ノースリーブの白いワンピースを着ている。ちょっと寒そうだ。
「……あの、前も思ったんだけど、その格好、寒くないの?」
「え? ぜんぜん?」
ふつうじゃない? そうケロッと返され、僕は「そうなんだ」としか返せなくなる。
「まさかまたここで会えるなんてすごくない!? 汐風くんって、もしかしてここの近くに住んでるの?」
「……まぁ、この坂の途中に家がある」
「へぇ! そうなんだ! 奇遇だね、私もだよ!」
「え、そうなの?」
「うん! 坂の上のほうに、
千鳥さんはそう言って、銀杏の木の先のほうを指さした。
「……え、病院に住んでるの?」
「うん! でもね、十時は抜け出していい時間なんだよ!」
「え、抜け出していい時間ってなに」
ぜったいそんな時間はないと思うんだが。
「だって病院って、退屈なんだもん」
てへ、と、千鳥さんはペロッと舌を出して笑った。
「いやいや……それまずいでしょ。主治医の先生とか知ってるの?」
「いいんだよ! 私、どこも悪くないもん!」
「どこも悪くなかったら、入院なんてしないでしょ。早く戻りなよ」
「大丈夫! 先生には最近は安定してるって言われてるし!」
「……なら、いいけど」
「それより見て、この子! 今日もここにいるの。昨日も一昨日もここにいたんだよね。もしかしたら、この辺に住んでるのかな?」
と、千鳥さんは舞台の上でころころと転がっている黒猫を見て楽しそうに言った。
「さぁ、野良かどうかも分からないし。この子、まだ仔猫だから母猫も近くにいるかもだし」
「え? この子、仔猫なの?」
「……そういえば、猫見たことなかったんだっけ」
「うん」
ふと思った。もしかして彼女は、ずっと入院生活を送っているから猫を見たことがなかったのだろうか。
もしそうなら、彼女を少し不憫に思う。
「辛くないの?」
口走ってから、ハッとした。聞いてはいけないことだったかもしれない。
ちらりと千鳥さんを見ると、彼女は僕の言葉に特段気を悪くしたふうでもなく、首を傾げた。
「どういう意味?」
「……あ、いや、その……入院って、したことないからわからないけど、いろいろ制限とかされるんでしょ?」
千鳥さんは顎の辺りに手をやって、のんびりと空を見上げた。
「うーん、そうなのかなぁ? 私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや」
のんびりとした声で言う千鳥さんを、僕は少しだけ不憫に思った。
この子には、自身の生活を悲しむ余地すらないんだ、と。
「これが私の日常だもの! お姉ちゃんはすごく優しいし、先生も看護師さんも優しくていろいろ教えてくれるから大好き!」
「……お姉さんがいるんだ?」
「うん! お姉ちゃんが私の名前付けてくれたの」
千鳥さんは、桜を見上げながら言った。
「へぇ……」
お姉さんが名付け親ということは、千鳥さんとは歳が離れているんだろうか。
「あのね、ソメイヨシノってね、もとは一本の木から生まれたんだって」
ぼんやり考えごとをしていると、千鳥さんが桜を見上げて言った。
「桜ってすごくきれいだけど、実を結ばないから子種を増やせないんだって。でも、世界中のどの花より有名で、人種を越えて愛されてるでしょ? それってすごいことじゃない?」
言われてハッとする。
「……そういえば」
桜って、たった一本の木から広がったんだ。
「私もね、そうなりたいって思ってるんだ」
「……え、増殖したいってこと?」
ぎょっとして千鳥さんを見ると、彼女はぷはっと息を吐いて笑った。
「あははっ! まさか! 違うよ。そうじゃなくて、花としての役割がなくても、みんなから愛されるひとになりたいってこと」
そう言って、千鳥さんは桜を見上げる。つられるように、僕も桜へ視線を流した。
「……桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に」
「……桜に」
「病院には桜がないから、桜が見たくなったらいつもここに来るの。この花を見たら、この世に必要のないものなんてないんだって思えるから」
その言い回しがどこか引っかかって、僕は再び千鳥さんを見た。桜を見上げる千鳥さんの瞳は、どこか寂しげに揺れている。
「意味があるの、ぜったい。どんなものにも」
「……そうだね」
千鳥さんが僕を見る。
「君は?」
「え?」
「どうして俯いてるの?」
戸惑いがちに視線を泳がせる。
「初めて会ったときから、君はなにかに怯えてるみたい。君は、なにに怯えてるんだろう」
怯えているのだろうか。
もし、僕がなにかに怯えているのだとしたら、それはきっと、
「……学校」
だろうか。僕にはぜったいに知られてはいけない秘密があるから。この秘密だけは、三年間なにがあってもぜったいに守り切らなければならないから。
「どうして?」
「…………」
「学校、楽しくないの?」
「楽しくないよ。授業は退屈だし夢もないし……それに、僕には一緒に遊ぶ友だちもいないから」
「そんなの、今はでしょ? これから作ればいいじゃない」
まっすぐ過ぎる眼差しに、僕はいよいよなにも言えずに黙り込む。
「君はまだ十五歳だよ! それに、友だちなら私がいるじゃん!」
そのセリフに、ハッとする。
「友だち?」
「うん! 私たち、もう友だちでしょ?」
それはまるで、どこまでも澄み切った水のように。千鳥さんは、純粋な眼差しで僕を見つめる。吸い込まれそうになって、僕は反射的にその視線から目を逸らす。
「……君は、僕を知らないからそんなことを言えるんだよ」
「じゃあ教えてよ。君のこと。君はどんなひと?」
そう、千鳥さんは直球に訊いた。
「どんなひとって……君には関係ないよ」
「私はクラスメイトじゃないよ。怖がらないで、話してよ」
しばらく黙り込んだあと、僕はしかめっ面のまま呟くように話し始める。
「……昔、同級生と喧嘩になって、怪我を負わせたことがある。僕が一方的に怪我させた。そのあとも、何度かトラブルを起こしたことがあって、友だちはいなくなった」
「…………」
「……僕はそういう人間」
ひんやりとした風が僕たちの間をすり抜けて、さわさわと梢を揺らす。
ふと、千鳥さんが瞬きをした。
「……あのぉ、君、いちばん重要なことを言い忘れてる気がするんだけど」
「え」
「大切なのは、喧嘩した理由だと思うんだけど」
「……理由?」
「どうして怪我させちゃったの?」
訊かれて、考える。
考えながら顔を上げると、千鳥さんの大きな瞳と目が合った。どこか蒼ざめたその瞳に、僕は目が離せなくなる。
「……僕は、ひとと違う力を持ってるんだ。怪我は、そのせい」
「ひとと違う力……」
僕はこれまで、蝶々さんにしかこの力のことを話したことはなかった。話したいと思ったことなんてなかった。
それなのに、なんでだろう。気付いたら、口が動いていた。
「それって、どんな?」
興味本位じゃないと分かる真剣な眼差しに、僕の中の迷いが消える。
僕は人差し指を空に向けて、念を込めた。すると指先に、ぽう、と小さな火が点る。
千鳥さんが目を瞠った。
「幼なじみとちょっとしたことで喧嘩になって、そのとき突然手から火が出て……手に、火傷を負わせた」
千鳥さんはしばらく驚いた顔のまま、僕の手を見ていた。
「それ以来、僕はひとりでいるようになった。力の制御の仕方が分からなかったから。だけど中学のとき、クラスメイトがいじめをしていて、僕はたまたまその場に居合わせて……いじめられっ子を助けようとしたんだ」
いじめられていたのは、かつて怪我させてしまった親友だった。
僕たちはあれ以来話すことはなく、他人になっていた。だから、親友がいじめられているなんて僕はこれっぽっちも知らなかった。だから、中学で同じクラスになり、その場面に居合わせたときはすごく驚いた。
動揺して、咄嗟に知らないふりをしようかとも思ったけど、できなかった。あのときの罪滅ぼしができると思った。
「でも結局、騒ぎを大きくしただけだった。それからはもう、噂が広まって、僕と仲良くしようとするひとはいなくなった」
千鳥さんはなにも言わず、静かに僕の話に耳を傾けている。
「……僕は、だれかといるとぜったいにそのひとを傷付けちゃう。だから、ひとりでいるべき人間。……いや、この世に存在しちゃいけない人間なのかもしれない」
そう吐き捨てると、あのさ、と千鳥さんが控えめに口を開いた。
「……あのさぁ。君は傷つけたことばかりを重要視しているようだけど、違くない? 守ったんだよね? いじめられてた子を」
「え……」
「汐風くんは、いじめられっ子を助けたんだよ。怪我させちゃったことはたしかにダメなことだったかもしれないけど、それは君がたまたま特別な力を持ってたからであって、君のせいじゃない。いなくていいわけない。君は、必要な人間だよ」
その言葉は、まるで真冬の寒空に落ちた太陽の光のように、冷え切っていた僕の心を溶かしていく。
「そもそもどうして汐風くんが悪いことになるのかな」と、千鳥さんは不満そうな顔をして言った。
「いつも思うの。週刊誌とかでもさ、女優さんの人柄が話題になるでしょ。この女優は気さくだとか、この女優は性格最悪とか。みんなそれを当たり前のように信じたりするけど、それって変だよ」
「どうして?」
「だって、ひととひとって相性でしょ。そのひとの性格が悪いんじゃなくて、たまたま取材したひととか、話を暴露したひととその女優さんの性格が合わなかっただけじゃないかなぁ」
合わなかった、だけ……。
「だから私は、噂よりもじぶんで見たものを信じたい。もし君が学校で悪く言われるなら、私が否定するよ。私が知ってる汐風くんは悪者じゃない。私に猫を触らせてくれた優しいひとだよ。いじめられっ子を助けたヒーローだよ、って。だからそんな顔する必要なんて少しもないよ。顔を上げて」
ほろ、となにかが頬に触れた。それは、桜の花びらだった。花びらが濡れている。
あぁ、泣いてたんだ、と思った。
――春はパステル色。
駅の広告かなんかにあったキャッチコピーをふと思い出す。桜の木を見上げ、隙間から降り注ぐ淡い陽の光に目を細めながら、あれは本当だったんだな、と思った。
「さてとっ! そろそろ戻らなきゃ」
沈黙を破るように、千鳥さんが舞台からぽんっと降りる。
「じゃあね、汐風くん!」
千鳥さんはくるりと僕に背中を向けて歩き出した。……かと思ったら、千鳥さんが振り返った。
「汐風くん!」
「なに?」
「さっきの過去の話だけど。間違えた行動をしたと思ったなら、謝ればいいんじゃないかな! 汐風くんの悪いところは、勝手に自己完結しちゃうところだと思うよ」
ずばっと言われ、背筋を伸ばす。そんな僕を見て、千鳥さんはころころと笑った。
「未だに悩んで後悔してるなら、謝ったらいいんだよ! それで関係が元通りになるわけじゃないかもしれないけど、少しはすっきりするかもしれないよ」
「……うん」
頷くと、千鳥さんはすっと手を伸ばした。彼女の伸ばした指先は、僕の上を指している。
「俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから! それじゃあね!」
駆けていく千鳥さんの後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと瞬きをする。
視界を彩るのは、彼女の白いワンピースと、舞い散る桜の花びら。足元に視線をやると、視界が薄紅色に染まった。
「……桜だらけだ」
なんだか胸の辺りがむず痒くなってきた。
こんなにも春を感じたのは、初めてのことだった。
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