第1話
僕には、だれにも言えない秘密がある。
その秘密に気付いたのは、小学四年生のときだった。
当時の親友と下校中、ちょっとした喧嘩になった。
小学生男子にありがちなからかい合いの末、ヒートアップして喧嘩に発展してしまったのだ。
言い合いから取っ組み合いになり、親友より体格が劣っていた僕はとうとう半泣きになった。
そして、叫んだのだ。
「お前なんか、いなくなればいいんだ!」
その直後、親友の手が燃え上がった。
ぼうぼうと恐ろしい音を立てて、オレンジ色の炎が親友の手を焼いていく。
「うわぁああっ! なっ、なんだよこれ!?」
熱い、熱いと、パニックになった親友が暴れ出す。
「熱いっ! 助けて、助けて!!」
僕はパニックになりながらも周囲を見た。近くにあった家に、雨水が溜まったバケツを見つけた。
急いで取ってきて、親友の手にかける。
水が命中したおかげですぐに火は消えたけれど、気付いたら僕も親友もずぶ濡れになっていた。
あれ以来、僕は孤独になった。
僕の、だれにも言えない秘密。
僕は、炎を操ることができた。
***
――三月中旬。
春一番が吹いたその日、僕は、叔母の家がある神奈川県の海沿いに来ていた。
『春はパステル色』なんて、よく分からないポスターのキャッチコピーを横目に改札を出ると、冷たい海風が吹き付けてきて、僕は思わず目を細めた。
叔母の家は、たしか駅前の通りをまっすぐ行った坂の途中にあったはずだ。
駅に着いたら電話をしてと言われたけれど、おそらく歩いているうちに道を思い出すだろう。そう思いながら、駅に着いたとメッセージだけ送って、ごろごろとキャリーケースを引いて駅を出た。
駅から続く上り坂には、観光客向けのお店や若者に人気のコーヒーチェーンなどが両脇に並んでいる。
見上げた先、坂の一番上には、これから僕が通う高校が立っている。
この春から僕は、神奈川県にある私立高校、
水彩高校を選んだ理由は、特にない。強いて言えば、家から適度に遠く、通うのが困難だったから。
ただ、親には本当のことは言えないので、校風に惹かれたからと嘘をついた。
ネットには、比較的生徒の個性を尊重する自由な校風と、制服が可愛いところが特徴だと書かれている。
校風はありがちだし、制服だって可愛いとは言っても、ネットで見た限り男子はふつうの学ランだし、女子もいたってふつうのセーラー服にしか見えない。
でも、そんなことはどうだっていい。僕はただ、あの街を出られたらそれでよかったのだから。
坂を登っていると、少し先の道路の真ん中に、黒い物体が見えた。
「……?」
なんだろう、と目を凝らす。
すると突然、黒い物体に大きな金色の目が見えた。ぱちぱち、と瞬きをするそれを見て、なんだ、と息をつく。
「猫か」
見たところ、まだ仔猫のようだ。黒猫は道路のど真ん中で、呑気に耳の後ろを脚でかいていた。脇に避ける気はなさそうだ。車の通りが少ないとはいえ、道路の真ん中にいるというのに。
少しひやひやして、
「おーい、そこ、道路だから危ないぞ」
と声をかけてみると、黒猫はぴたりと動きを止めた。
おもむろにこちらに向かって、
「にゃあ」
と鳴いた。
そしてまた、のんびりと毛繕いを始める。猫語で「うるせえ」とでも言われた気分になった。いけ好かないお猫さまだ。
ほっとこう、と思い直し、再び歩き出す。しばらく坂を登っていると、てんてんてん、と目の前をなにかが横切った。見ると、あの黒猫だ。
「……あ、お前」
歩き方がうさぎのようにぴょんぴょん跳ねるようで、思わず笑みが漏れる。
「なんだよ、お前。着いてきたのか?」
もう一度話しかけてみると、黒猫はちらりと僕を見て、再びてんてんと歩き出す。黒猫は、意志を持ってどこかへ向かっているように見えた。
着いてこい、的な?
なんとなく気になってついて行ってみることにした。黒猫は坂を迷わず上り、途中、通りを曲がって、狭い横道を進んでいく。そのまま黒猫を追いかけていると、次第に汗ばんできた。上着を脱ぎ、小脇に抱えて再び黒猫を追う。
ふと、顔を上げると、道の先に小さな神社が見えた。
大きな朱色の鳥居には、『
「シノミヤ神社……?」
きれいな名前だな、と思いながらそろりと敷地の中に足を踏み入れた。
苔むした石に落ちる木漏れ日、松の枝でさえずる小鳥、香しい芳香の花々。
鳥居を抜けた先にあったのは、現実離れした美しい世界だった。
気付いたら、ため息が出ていた。
右手に、能舞台が見えた。能舞台の脇には、大きな一本の桜の木がある。上から覆うように枝が広がり、薄紅色の桜が舞台を彩っている。
口を開けたまま満開の桜に魅入っていると、「にゃあ」という声が聞こえた。
「……あ、お前」
見ると、黒猫は我が物顔で舞台に上がっていた。あろうことか、ころころと背中を舞台の床に擦り付けている。
ふと、視界の端になにか動くものを見た気がして、舞台の縁に目をやる。
風に舞った桜の花びらが数枚、空へ抜ける。
息を呑んだ。
桜の木の下に女の子がいた。
風にさらわれる絹糸のような黒髪に、雪のように白く滑らかな素肌。ノースリーブ型の桃色のワンピースはフレアスカートになっていて、裾の白いレースが風にさらわれるたび、魚のひれのようになびいていた。
神様がもし、春をひとの姿にしたとしたら、きっと彼女のような容姿をしているのだろう。そんなことを思ってしまうほど、桜の下に佇む女の子は美しい。
ふと、目が合った。
形のいい赤い唇が、なにかを放ったような気がしたが、どうだろう。
風が葉を鳴らす音が耳を抜けていく。美しい光景に言葉もなく見惚れていると、女の子はくるりとこちらを向き、歩き出した。
僕の前へとやってきて、
「やぁ」
と、まっすぐに僕を見上げてくる。
女の子が瞬きをする。くっきり二重の瞳を縁取るまつ毛は長く、瞬きのたびぱちぱちと音が聞こえてくるようだった。白目は青白く澄んでいて、唇は果実のように赤くみずみずしい。
「君、ひとり? こんなところでなにしてるの? 観光?」
一昔前のナンパを受けたような気分になり、思わずあとずさる。
「あ……いや、猫を追いかけてて」
「猫?」
首を傾げる女の子に、僕はちらりと彼女の後方の舞台を見る。僕の視線に気付いた女の子は振り向き、舞台の上に転がる黒猫を見た。
「わっ! 猫だっ! 可愛い!!」
女の子は弾けた声を上げて、黒猫の元へ駆けていった。勢いよく迫ってくる女の子に、黒猫は一瞬身構えたものの、悪意はないことを悟ったのか、すぐに警戒を解き、毛繕いを始めた。
女の子は黒猫の前まで行き、その頭へ手を伸ばそうとして、やめた。
くるりと振り向き、僕を見る。僕は反射的に身構えた。
「ねぇ君、この子、抱っこすることできる?」
「え?」
「私、猫見るの初めてなの。触りたいけど、ちょっと怖いっていうか」
「え、猫が初めて?」
そんなひといるのか、と驚いていると、女の子は続けて言う。
「ねぇ、この子抱っこしてみせてよ」
「僕が?」
「うん! お願いお願い!」
仕方なく、女の子と黒猫の元へ向かう。
脇に手を入れ、優しく抱き上げると、黒猫は前ならえの姿勢になった。思いのほか大人しい。
昔飼っていた猫を思い出して、少し懐かしくなった。
僕は黒猫を前ならえのまま、女の子にずいっと差し出す。
「はい、どうぞ」
「わぁあ、可愛い! 待って、そのままね、そのまま……」
ちょん、と女の子が指の先で黒猫の眉間を撫でた。黒猫は目を瞑り、ごろごろと喉を鳴らしている。
「きゃあ〜!! 可愛い!」
甲高い声に、黒猫の耳が後ろ側へぺたっとなった。彼女の声に驚いたのだろう。瞳孔も少し開いている。
「あんまり高い声出したら猫が驚くから、静かにしてあげて」
「あっ、そっか。分かった」
女の子は僕の指示を素直に受け入れ、黒猫を可愛がっている。どうやら彼女は黒猫を触りたいだけで受け取る気はないようだった。このまま前ならえをさせておくのも可哀想なので、抱き方を変える。
「猫ってすごいふわふわなんだねぇ。耳のうしろとかすごいさらさらしてるー」
本気で感動している様子の彼女に、僕は思わず訊ねた。
「……本当に猫見るの初めてなの?」
「うん、初めて」
僕の問いに、彼女は黒猫へ視線を落とし、ふにゃっとした顔のまま答えた。
「野良猫を見かけたこととかもないの?」
「テレビでは見たことあるんだけどね! あ、でもライオンとかゾウならナマで見たことあるよ、動物園に連れて行ってもらったことはあるから! でも、猫は動物園にいないじゃん?」
そりゃいないだろう、と心の中でツッコミを入れる。
「いたっていいのに」
「……いや、まぁ……」
たしかに、動物園に猫はいない。だって、いたところで猫なんてなんの真新しさもないし、わざわざお金を払って猫を見に来る客はいないだろう。
……と思うけど、彼女の疑問も分からなくもない気がした。
「……そんなこと、疑問に思ったこともなかった」
ぽつりと呟くと、彼女はころころと笑った。
「そっかぁ」
「…………」
柔らかな雰囲気の彼女を見つめながら、なんというか、不思議な気分になる。
「あ、ねぇ、君、名前なんて言うの?」
パッと彼女が顔を上げ、僕を見た。至近距離で目が合い、どきりとする。
「えっ、あ、僕?」
「うん。私はね、
「……僕は、
とりあえず苗字だけ答えると、彼女――千鳥さんは、なにかを待つように微笑んだ。彼女の意図に気付いていないわけではないけれど、それでも僕が黙りこくっていると、じわじわと千鳥さんの眉間に皺が寄っていく。
「え、もしかして下の名前は教えてくれないの? あ、もしかして、ニシキノって名前?」
「……いや、違うけど……」
「じゃあ下の名前、教えてよ!」
まっすぐな眼差しで見つめられ、ため息をつく。
「……
「汐風? ……え、汐風っていう名前なの?」
驚いた顔をして振り返る千鳥さんに、少し暗い気分になる。
だから言いたくなかったんだ。汐風なんて、変な名前だから。
小学生の頃、クラスメイトにからかわれたいやな記憶が飛び出して、胸の辺りがざわざわした。無意識のうちに手に力がこもっていたらしく、それまで僕の腕の中で大人しくしていた黒猫がぴょんと僕の手をすり抜けて逃げていった。
「……あ、じゃあ、僕はこれで」
逃げるように、僕も千鳥さんに背を向けた。
「あ、待って!」
服の袖をパシッと掴まれた。
振り返り、小さく「なに?」と答える。少しぶっきらぼうな言い方になった。僕の反応に、千鳥さんは少しだけ躊躇う素振りを見せてから、言った。
「いや、あのさ……もったいぶるからどんな名前かと思ったけど、汐風ってすごくきれいな名前じゃん」
「……え」
思っていた反応と違うものが返ってきて、僕は思わず足を止めた。
「君がなにを気にしてるのか知らないけど、汐風って、すごくいい名前だと思うよ。海があるこの街にぴったりじゃない」
「……べつに、そんなことないでしょ。そもそも僕、ここの人間じゃないし」
「え、そうなの?」
見ず知らずのひとに言うことではないと思いながらも、今さら引けなくなって続けた。
「高校に通うために、引っ越して来ただけ」
「そっか。ならまた会えるかもしれないね! そのときはよろしくね、汐風くん!」
そう言うと、千鳥さんは笑顔で手を振り、僕より先に神社を出ていった。
まるで嵐のようなひとだったな、と僕は小さく苦笑する。
「……変なひと」
ぽつりと呟いたとき、ポケットの中のスマホが振動した。画面を見ると、叔母だった。
「あっ」
そういえば、駅に着いたと報告してからしばらく経つ。心配してかけてきたのだろう。僕は慌てて神社を後にした。
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