『吸血侯』か

「うわっ! げほっ、げほっ……」

 コウモリから出た靄はイリスと呼ばれた幼女をも包み込み、イリスは激しくむせた。


「おお、すまぬすまぬ。少々サービスしすぎたようじゃ」

 靄が薄れていき、その中から人影が現れた。


 とんでもない美少女だ。

 神秘的な青紫の髪に赤紫の瞳。まだあどけなさを残す丸顔は庇護欲をそそる。身にまとっているいかにも高級そうな白黒のドレスがよく似合っているが、ドレスに着られている感じは全くなく、ドレスは常に少女の引き立て役に徹している。


 イリスよりも少し背の低い少女は、見上げるようにイリスの顔をじっと見た。

 上目遣いのその顔に嫌でも引き寄せられる。


「そなたが異世界から召喚されたという、勇者イリスじゃな? 探したぞ」

 イリスは目の前の少女を慎重に観察した。とはいえ、この少女が何かイリスに害を与えようとしてもイリスはどうにもできなかったのだが。イリスは見た目のまま、十歳児程度の身体能力しか持っていない。


「あんた、何者だ?」

 むやみに情報を与えるべきでないと判断し、敢えて質問に質問で返した。


 その事に少女は眉をぴくりと動かしたが、特に気分は害することはなかったようだ。

「ふむ。人に名を聞く前に名乗るのが礼儀というものじゃの」


 ぷっくりと膨らんだ桜色の唇――そこから放たれる少し舌っ足らずでソプラノの声は見た目通りのかわいらしさであったが、紡ぎ出される言葉は古風でどこか老獪ですらあった。


「わしの名はルーヴェンディウス。ルーヴェンディウス・エル・ヴィル・ザ・ヴァンプじゃ」

 その名乗りにイリスは険しい表情をさらに険しくした。


「ルーヴェンディウス――『吸血侯』か」

「ふふ……、そう呼ぶ者も最近はおるようじゃの」

 嘲りを込めた言葉に、ルーヴェンディウスは肩をすくめて乾いた笑いをした。


 吸血侯ルーヴェンディウス。かつて魔王リリムに忠誠を誓い、全軍を任された身でありながら、“神”の降臨とともに真っ先に“神”に下った裏切り者。『使徒』のひとり。旧帝国民――特に『異教徒』達からは、彼女の推薦で『僕』が増えることを、吸血鬼が人の血を吸い眷属を増やすことに皮肉り、『吸血侯』と呼んだ。


 その事実はリリムもテレビを通じてよく知っていた。『異教徒』達が仇とし、何度もその軍勢に挑んで辛酸をなめているからだ。


「その『吸血侯』がこんな絶海の孤島に何の用だ? リリムにとどめを刺しに来たのか?」

 皮肉を込めて言ったつもりだった。――が、


「やはり、リリムたんはここにおるのじゃな!?」

 しまった、と思う間すらなくスーヴェンディウスが迫ってきた。「ち、近い」と言うイリスの息がかかるほどの至近距離だ。


「わしの心は常にリリムたんとともにある。〈魔王因子〉でなくリリムたん本人に忠誠を誓っておる。“神”に従うふりをしているのも、すべてはリリムたんの愛する民に被害が出ぬようにするためなのじゃ」

 ルーヴェンディウスはうつむき、絞り出すように言葉を紡ぎ出した。


「従うふり……。なるほど。世間では魔王の血を吸って生きながらえる『吸血侯』なんて言われてるみたいだが、オレはどうも辻褄が合わないと思ってたんだ。これで合点がいった」


 イリスが理解を示すと、ルーヴェンディウスはほっとしたようにイリスを見た。その顔は安堵に目を潤ませているかのようだった。


「わ、わしは……」

 ルーヴェンディウスの強く握られた握りこぶしが震えている。それが彼女の感情を雄弁に物語っていた。


「わしはリリムたんを助けに来たのじゃ!」


 これがイリスを騙すための演技だとは思えなかった。何より、そんなことをしてこの吸血鬼にメリットが感じられない。イリスは全くの無能だし、魔王リリムに至っては表で塩の像と化しており意識があるかどうかすら疑わしい。


 そう。魔王リリムは五年前、この地で“神”との戦いに敗れ、塩の像にされていた。

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