第9話 リリー・ブリューメ

 門前でマリアと別れると朧げな記憶を頼りに歩き始めた。昔、よく利用していた〈リリー・ブリューメ〉は先ほどマリアが言った通り、冒険者向けの安宿である。その一方で、出会い茶屋の様にも使えるかなりヤクザな宿であることは間違いがない。しかし、宿を運営するマスターの人が良く、マスターを慕ってそこを使い続ける者も多い。かくいう、私も領校在学中は非常に重宝したものだ。寮は二人部屋だったし、壁も薄かったから……。まあ、学生時代の私の行状はさておき。

 旧市街の方は変わっているっちゃ変わっているがそこまで変わっているようには見えなかった。道端では屋台が料理を売り、宿屋は熱心な呼び込みをする。少なくとも、私が知っているシモンの空気はそこに残っていた。


「ここか」


でっかい樽を店の前に飾っている酒場のすぐ横の道を行った所に〈リリー・ブリューメ〉はある。アルコールと煙草の匂い、それにいくつかの宴会料理の匂いを嗅ぎながら路地を行くと、鄙びた看板に『OPEN』の札を下げたレンガ造りの家が見えて来た。普通の一軒家として見るならば大分豪勢な部類に入るが宿屋として見るならばこじんまりとして見えるという微妙なサイズの建物だ。

 無骨な金属の把手を引きながら中に入るとアルコールの匂いが充満していた。一階はレストラン兼酒場になっていて、陽が落ちる頃には冒険者がグラス片手に大騒ぎしているのが常である。


「お邪魔します」


カウンターの中に居た老女に声をかけると驚いた様子になった。


「まあ、アンナじゃないかい。随分と久しぶりだねぇ」

「御無沙汰しております。マスター」


そう言うと私は酒場を横切って老女の所に向かった。随分と老け込んではいるが、この老女こそが〈リリー・ブリューメ〉のマスターだった。


「いや、別嬪さんになって。今日はスピカは一緒じゃないのかい?」

「……ええ。ちょっと」

「なんだ、歯切れが悪いじゃないかい」


ま、いいけどね。とマスターは話を切り上げた。この婆さん、他人の懐に躊躇いなく手を突っ込んでくるが引き際は心得ているのである。そこが、好かれる所以でもあるのだが。


「にしても、今日はどういう風の吹き回しだい?領主様の娘御は王都から帰って以来大病を患って領主館に引き籠っていると評判だよ」

「あははははは、お騒がせしております。…………部屋は空いてますか?」

「うん?ああ、いいともさ。シングルでいいかい?連れもいないようだし」

「はい。お願いします」


私はマスターからカギを受け取ると二階の客室に向かった。鍵についているストラップを見ると”3”と焼き印されている。廊下を上がり切ると3と書かれた扉が目に入って来た。ちらり、と奥を見ると10、と焼き印を押されたネームプレートが目に入った。昔、よく使っていた部屋である。


「ま、関係ないよね」


 本当は10号室の方がよかったが一人客なのにツインの部屋を占領するのは悪い気がしたのだ。……あるいは、過去の行状を直視するだけの勇気がないか。私は浮き上がってくる思考から逃げるようにして、カギを回した。

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