百合ってなんだろう?
「なんか、どっと疲れた気がする……」
練習試合の日の夜。お風呂に入ってさっぱりしてベッドの上。
翠は自宅通学だ。
真綾も家から通っているらしい。梨樹と葵は寮生活だそうな。寮も気楽だろうけれど、門限とか気を遣うことも多い。
真綾と同室になれるなら寮もありか。
「桜庭さんは今頃なにしてるんだろ」
あの子の顔をついつい思い浮かべてしまう。
入学式で出会って。喧嘩をして仲直りして、指とはいえキスまでしてしまった。契るような、誓うような。あの時の気持ちは一生忘れられないかもしれない。
女の子同士なんてよくわからないけれど。
……嫌な気分では、決してなかった。
はう。
息を吐いてスマホを持ち上げた。連絡先は交換してある。グループチャットアプリを立ち上げて短い文章を打ち込み、送信。
『今日はありがとう。これからもよろしくね』
小鳥の可愛いスタンプ付き。
一秒、二秒。既読がつくのを待っている自分に気づいて「うあー!」とじたばたする。隣の部屋にいる妹から「お姉ちゃんうるさいー」と言われて「ごめんー」と謝った。
なんでこんな初恋中みたいなことを。
首を振りつつ画面に視線を戻すと、いつの間にか既読がついていた。見てくれた。そんな小さなことが嬉しい。
すると今度はなんて返事が来るか気になって、
「あっ、来た!」
ぽっ、と、画面が更新。
嬉々として覗き込んだ翠は「んん……?」と眉間にしわを寄せた。
『裏切ったりしたら許しませんから』
「うーん……。桜庭さんってちょっと重くない?」
そういう古風なところも可愛いんだけど、とにこにこしながら、翠はベッドにごろんと横になった。
◇ ◇ ◇
「小鳥遊さんは百合についてもっと勉強するべきだと思います」
月曜日の放課後、リクロス同好会にて。
全員が集まるなり真綾が毅然と宣言した。顔が良いのできりっとした顔をしても様になる。ついでに迫力もある。
言っていることがリクロス関連の強化メニューなのもなんとなくわかるのだけれど、
「勉強ってなにするの? ……まさかまたキス⁉」
「しません! キスはそれほど軽々しくするものではありませんから!」
「んー。そもそも翠ちゃん、百合がなにかわかってる?」
「? 女の子同士の恋愛ですよね?」
女性同士限定の同性愛。あの時のクラスメートの話ぶりからしてもそうなのだろうと思っていたのだけれど。
「翠の理解は間違ってないけど正確でもないかな」
「リクロスも奥が深いけど、百合も奥が深いんだよ。女の子同士の恋愛はもちろん百合に含まれるけど、わたしは友情や姉妹愛だって百合に含まれると思ってる」
「じゃあ、いったい百合ってなんなんですか?」
「愛だよ!」
「愛」
すごくきらきらしていて、温かくて、それでいて深い言葉だ。
とらえどころがないとも言う。
難しい顔をしていると梨樹は「難しく考えなくていいよ」と笑った。緩い三編みに眼鏡モードだと勉強のできる優等生に見える。
「翠ちゃんが真綾ちゃんを想う気持ちも愛。双月さんたちの想いも愛。どっちも百合。それでいいんだよ」
「ボクから梨樹への想いも愛かな?」
「もちろん愛で百合だよっ!」
王子様とお姫様の抱擁。うん、この二人が仲良しなのはまったく疑っていない。
さて、話を戻して。
「桜庭さん。どうやったら百合って勉強できるの?」
「それはもちろん、本を読むのが一番です……!」
真綾の目がいつになく燃えている。
彼女は部室にある本棚の前に立つと左手で蔵書を示して、
「やはり、ここは聖典とも言うべきあの小説を」
「あのー、桜庭さん? わたし小説ってあんまり読まないからできればマンガとかがいいんだけど……」
「小鳥遊さんは注文が多すぎます。……あの時はあんなに素敵でしたのに」
「え? あの時がなに?」
「あ、翠が主人公っぽいことしてるね」
「もちろん百合もののマンガもいっぱいあるよっ! わかりやすいからわたし的にもオススメかなっ!」
確かに本棚にはマンガもかなりの量ある。
複数の本棚があるのに溢れそうになっているのだから百合恐るべし。っていうかそれだけの種類のマンガを今まで翠は全部スルーしていたのか。
「マンガか。どれがいいかな。ボク的には恋のわからない女の子同士の生徒会百合とか」
「私は疑似女子校喫茶の複雑な百合関係が……」
「わたしは女の子向け風俗の話がいいと思うなっ」
三人がそれぞれに自分のオススメを語りだした。ありがたい。ありがたいけれど、最後の風俗うんぬんはやっぱりえっちなやつなのでは。
真面目な顔で「すれ違い」とか「人の心」とか言っている真綾のオススメもなんか難しそうだし、ここは葵のオススメに乗っておくべきか。
心がどうとか昔の新聞小説だったらしいどろどろした純文学だけでお腹いっぱいである。
「じゃあこれ、借りていってもいいですか?」
「いいけど、全部持って帰るとちょっと重いよ?」
「本って一冊なら軽いけど増えると途端に重く感じますよね。教科書も」
「ボクは電子で買ってるから重くはならないけど、人に貸せないのは不便だね。まあ、一人一冊買えって話なんだろうけど」
「本の貸し借りも古き良き文化だからねー」
「うーん、とりあえず今のうちに読んで数を減らすことにします」
梨樹が「じゃあお茶を淹れるね」と立ち上がった。
飲み物は梨樹がレモンティー、葵がコーヒー(ブラック)、真綾がストレートティーで翠がコーヒー(ミルクと砂糖たっぷり)だった。
すっかり色の変わったカップ内を見つめて真綾が不思議そうに、
「それではもうカフェオレなのでは?」
「カフェオレが好きなんだもん。甘いやつ」
「好みは人それぞれだよねー。でも翠ちゃん。お菓子もあるよ?」
「しまった! また西園先輩の罠にかかった……」
「油断してるほうが悪いんだよー」
「どうして部内で騙し合っているんですか……」
普段の活動がマンガを読んだりお茶をしたりになる理由がわかった。誰かの百合を見て、読んで、理解することも特訓の一つなのだ。……だらだらしているようにしか見えないけど!
葵のオススメマンガも文句なく面白い。
「なんていうか、あれですよね。少女マンガの相手役が女の子になっただけっていうか」
「だけ、という言い方は好みではありませんが」
「あはは、そうだね。ボーイ・ミーツ・ガールがガール・ミーツ・ガールになっただけ。なにも不思議じゃない。そう捉えるのもいいと思うよ」
「そっか。本当に、難しく考えなければいいんだ」
恋のわからない新入生が、恋のわからない先輩と出会う。二人は奇妙な絆を形作り──そして、それはやがて恋へと変わっていく。
「すっごくいい話なんですけど!」
「いい話だよねー。共感できない?」
「ものすごく共感できます」
翠は別に「わからない」という不安は持っていない。けれど恋愛をしたことがないのは主役の二人と同じだ。進みたくても進めないもどかしさ。女の子同士というものに抱く不安も翠の中にある。
どっちの気持ちもわかる、というのも大きいかもしれない。
普通の恋愛マンガは片方が男性。翠にはやっぱり男よりも女の気持ちのほうがわかる。ここでいうわかる、というのは理解だけじゃなくて共感の話。
二人分、サブキャラも含めたらもっとたくさんのキャラクターの想いが「わかって」しまうから心が揺さぶられて、苦しさと温かさが両方来る。
「た、小鳥遊さん。涙が……!」
「ふえっ?」
気づくと鼻声になっている。感受性を揺さぶられすぎて泣いてしまっていたらしい。あはは、と笑って涙をぬぐう。
梨樹がくすくすと笑って、
「翠ちゃんは感受性が強い子なんだねー」
「そうですね。わたし、人の気持ちに入り込みすぎちゃうところがあって。悩み相談とか受けると疲れちゃうので、親しい友だちはたくさん作れないんです」
「真綾はそうならないように親しい相手を作らないタイプだよね」
「……別に、私は友達が欲しいとも思っていませんから」
むっとしつつ翠をちらちらと見てくる、翠のお姫様。
「たくさん友達はいらないけど、わたしとは友達でいてくれる、ってことでいいのかな?」
「なっ⁉ 違……いませんけど、小鳥遊さん、あなたという人は!」
「あははー。やっぱり翠ちゃんたちがいると賑やかだね」
「うーん。翠はやっぱり人たらしだね」
梨樹と葵こそ相当なものでは?
◇ ◇ ◇
「おはようございます。……どうなさったのですか? 随分と眠そうにされていますが」
「マンガを読んでたら止まらなくなって夜ふかししちゃったんだよー!」
「……ああ、それで。変な時間にメッセージが送られて来ているな、とは思いましたが」
朝のHR前の歓談。
眠い目をぱちぱちしながら愚痴れば、真綾は「仕方ないですね」という顔で応じてくれた。なお、彼女はぐっすり寝ていたようで、感想直後のハイテンションなメッセージには今朝淡々とした返信が来た。
「楽しんでいただけたようでなによりです」
「うん、すっごく面白かった! 偏見が解けたっていうか、新しい世界がひとつ開いた感じ!」
知らないジャンルに挑戦するのは勇気がいるもの。
昔少年マンガを読む時も、そういうのが好きな子からオススメされて読めるようになった。要は百合もそういうことなのだ。
思いきって飛び込んでしまえば知らなかったことがいっぱい待ち受けていたりする。
良かった作品の感想を言うのも楽しい。
HRを挟んでも言い足りず真綾に聞いてもらっていると、クラスメートの一人が寄ってきた。
「あの、本のお話ですか?」
「そうだよ! ……あ、本って言ってもマンガなんだけど。借りて読んだらすごく面白くて!」
タイトルを教えつつ、返すために持ってきた実物を取り出して見せると、
「でもそれ、変態が読むやつだよね?」
「────」
尋ねてきたのとは別のクラスメートからの、声。
振り返れば、いたのは例の子。翠に真綾との付き合いを控えるように言ってきた子だった。
彼女は怪訝そうな顔──汚いものでも見るようにマンガを見つめて、
「女の子同士なんて変だよ。おかしいよ。普通じゃない。マンガだからってそんなの人に読ませて、桜庭さんは小鳥遊さんを仲間にしたいだけなんじゃないの?」
翠は、絶句してしまった。
唇が震える。どうにかそれを動かして、
「……どうして、そんなこと言うの?」
苦しい。人の気持ちに入り込みやすい性格は、なにも愛や善意にだけ反応するわけじゃない。悪意も、人並み以上に取り込んで、理解しようとぐるぐる巡らせてしまう。
気持ち悪い。
軽々しく人を悪く言う気持ちなんて理解したくない。でも、わかる。翠だって理解できなかった。むしろ、まだしっかり理解できたわけじゃない。
だから、まるで自分が言っているみたいでなおさら気持ち悪い。
「どうして、おかしいって決めつけるの? ただ好きになったのが女の子だってだけで、そんなにいけないことなの?」
「っ」
声を荒げたつもりはない。
けれど、相手の子は気圧されたようにびくっと身を震わせた。自分を奮い立たせるように唇を結んで、それから、
「……やっぱり、小鳥遊さんもそういう人だったんだ」
最初に声をかけてきてくれた女の子が険悪な雰囲気に「ごめんなさい」と言って離れていく。非難してきた子も言うだけ言うと授業の準備を始めてしまい、翠は、気持ちのやり場を失ってしまった。
ひそひそという話し声。
翠はマンガを鞄にしまうと、ため息と共に言葉を吐き出した。
「ごめん、桜庭さん」
「小鳥遊さんが謝ることではありません。……ですが、これでわかったでしょう?」
真綾の表情にはなんの感情も浮かんでいなかった。こんな騒ぎは慣れていると言うように淡々と、冷たく、あっさりと。
「誰もが話せばわかってくれるわけではないし、少数派というのは多数派から排斥されるものなのです」
そんなのはおかしい。
おかしいけれど、個人に気持ちをぶつけて、果たして解決する問題なんだろうか。
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