はじめてのリクロス

 得点と併せて表示された制限時間があっという間に30秒減ってしまう。

 慌てた翠は上ずった声を出して、


「さ、桜庭さん。とにかく配役を決めよう!」

「落ち着いてください。なにも演技だけが戦い方ではないとお話したでしょう?」

「そう言われても……」


 対戦相手の二人も戸惑うように視線を巡らせている。

 やっぱりこれとっつきにくい競技なんじゃ、と思っていると、


「……いつも通りやればいんだよね、弓弦ちゃん?」

「いつも通りやればいいよ、美兎ちゃん」


 翠たちに一度視線を向けてから──他者の存在を意識から追い出すようにお互いだけを見つめ直した。

 半歩。

 踏み出したことで二人の距離が近づき、お互いの肩へと手がそっと添えられる。

 身長までそっくりな二人は正面から顔を近づけ合い、同時に逆方向へ顔を傾けて、


 ──ちゅっ。


 唇が、一秒にも満たない時間触れ合う。

 刹那のキスを終えた弓弦と美兎が微笑と共に視線を交わすのを、翠は「わ……っ⁉」と息を呑みながら直視した。

 リアルでキスを見るのは初めてかもしれない。

 しかも、女の子同士。

 顔が真っ赤になる。身体まで熱くなってきた感じだ。


「さ、桜庭さん。あれ、キス……っ! しかも女の子同士で、姉妹で……っ!」

「落ち着いてください。興奮して倒れたら負けですよ。それにキスくらい欧米では挨拶です」

「ここ日本だし、好きな人以外とキスなんてっ!」

「好き同士なら問題ないのでしょう? ……それに、近親ならばむしろ同性のほうが健全かと」


 よくわからない会話をしているうちに残り3:30に。いつの間にか相手チームの得点も急上昇している。


「双子は姉妹の上位互換。さらに名前呼び、身体接触、そしてキス。かなり高得点のコンボです」

「得点ってそういうことだったの⁉ フィギュアスケートの技っていうか……!」


 翠たちの得点も何故か多少増えているものの微々たるもの。これでは負けてしまう。相手チームをひっぱたいて止めればいいのか。

 梨樹には「才能がある」なんて言われたし、いざ本番になってみればすごい活躍ができるかも、なんて思ったりもした。


 ──現実はなんて残酷だろうか。


 才能があると言うなら双月姉妹のほうだ。あんなふうに女の子同士でキスできるのはそれだけで才能と言って良い。少なくとも翠に同じことをする勇気はない。

 別に翠自身は勝てなくたっていい。

 けれど、パートナーになった真綾の初陣がなにもしないまま終わるのは嫌だ。彼女にも、どうせなら梨樹と葵にも「勝ちました」って言って安心して欲しい。


 そんな、焦る気持ちは、制服の袖と共に引き留められて。

 残り3:00。


「小鳥遊さん。私にはあなたに言わないといけないことがあります」


 青い瞳に吸い込まれる。

 真綾の表情は真剣で、だからこそ「今じゃなくても」と思う。常に表示された時間と得点がさらなる焦りを産む。

 こうしている間にも双月姉妹は二度目、三度目のキスを交わしていて、その時間と熱量はどんどん増しているようにさえ見える。

 梨樹たちはどんな表情をしているのか。

 マスキングによって見えづらくされていて良かったと心から思う。

 そんな思考を、頬に触れた右手の感触で引き戻されて。


「入学式の日。掲示板の前であなたに出会った時、私は運命だと思いました」


 告げられたのは思いがけぬ内容だった。

 目を見開いて硬直する。「そんなの、わたしだって」意識しないままに言葉が漏れる。むしろ運命と言うなら翠のほうだ。


「わたしだって、桜庭さんとの出会いを運命だと思った。この子と仲良くなりたいって」


 翠の目を見つめたまま真綾が微笑む。

 双月姉妹と違い、二人の目線の高さは違う。翠のほうが少し高くて、真綾は翠を見上げるような形になっている。


「同じクラスだったのも運命です。すぐに喧嘩をしてしまったのも、きっと運命だったのでしょう」

「わたしは喧嘩なんかしたくなかった」

「ですが、あれがなければきっと、あなたはリクロス同好会には来てくださらなかった」


 そうかもしれない。

 結果的にはあれが二人を再び結びつけたのかも。糸を結んだキューピットはかなり、というかあからさまに強引だったけれど。

 同好会に入ったこと自体はもう後悔していない。競技の内容はともかく。


「あなたのような人は初めてです」

「初めて? ……わたしなんてどこにでもいる普通の女の子なのに」


 くすっ、と、真綾が音と共に息を漏らした。


「小鳥遊さん。『どこにでもいる普通の女の子』。物語の中で使われる場合、それはたいてい、主人公に用いいられる形容なのですよ?」

「それは」


 どういうことなのだろう。

 普通だからこそ物語めいた出会いができる? 真綾に出会えたのも、翠が普通だったから?


「わたしなんて、男の子にモテたこともなくて」

「お友達には事欠かなかったのではありませんか?」


 幼稚園から中学校まで女友達は必ずいた。交友関係は広かったけれど、親友と呼べるのはいつもだいたい一人だけ。その子とは暇さえあれば一緒にいてとりとめのない話をした。

 今は──というか、これからは真綾がそんな親友になってくれたら。


「恋愛の経験だってなくて」

「私も、恋愛は未経験です」


 愛も恋も、本物はまだ知らない。

 翠と真綾は双月姉妹にくらべたらぜんぜん未熟で、未経験で、友達との関係を前に進めることさえ恐れている。

 真綾の小さな唇がゆっくりと動いて、


「私は今までお友達がほとんどいませんでした。きっと私が我儘で、傷つきやすくて、思い込みやすい性格だからです」

「うん、それはそうかも」


 頷いて答えると、真綾はむっとした顔になった。


「でも、わたしは桜庭さんのそういうところも可愛いと思う」


 残り時間は1:00。

 得点は目に入らない。今はとにかく、時間内に想いを伝え合うことだけが大事に思えた。そう思えるように真綾が導いてくれた。


 ──この子が、大事だ。


 彼女との繋がりを壊したくない。それだけをただ、強く思って。


「好きだよ。桜庭さんのこと、好き」


 桜のつぼみが開くように、美しい女の子の顔に華が咲いた。


「私も、小鳥遊さんのことが好きです」


 柔らかくて小さな両手が、翠の右手を持ち上げる。

 指で解くように導かれたのは人差し指。

 入学式の日。小さな怪我をして、真綾に絆創膏を貼ってもらったところ。

 とっくに怪我は治って絆創膏は剥がれてしまったけれど。

 今も、指の先には触れられた温もりが残っているような気がする。


「好きなら、キスをしてもいいんですよね?」


 そうして、指よりもずっと柔らかな部分が、翠の指先に触れた。

 誓うように。愛おしむように。自身の温もりを分け与えるように。あるいは、永遠に覚え込ませようとするように。

 とくん、とくんと、胸が高鳴る。

 甘くところけるようなそれは、いったいなんなのだろう。

 指と、唇が離れた指を翠はじっと見つめて、左手で抱きしめる。


 ──残り時間、0:00。


 ビーッ、っとブザーが鳴り響き、次いで沙羅の宣言。


「そこまで! 勝者、桜庭女子学院!」



    ◇    ◇    ◇



 ゴーグルに表示された得点は、確かに僅差で翠たちの勝利を示していた。

 勝った、のは確かなようなのだけれど、途中から話に夢中になっていた翠にはなにがなんだかさっぱりわからなくて。

 あ、そういえばゴーグル付けてたんだっけ。じゃあ正確には直接桜庭さんの目を見ていたわけじゃなかったんだ、と呑気なことを思った。


 ほう、と息を吐いて。


 パートナーに視線を向けると、真綾がゴーグルを外し、ふわふわのロングヘアを軽く振っているところだった。

 目が合うと気恥ずかしそうに微笑んで、


「勝てましたね」

「勝てたね。……なにがなんだかわからないけど」

「小鳥遊さんのおかげですよ。私一人では勝てませんでした」

「わたし? わたしはなにもしていなかったと思うけど──」

「もう大健闘だよ! さすが翠ちゃん! わたしの見込んだ期待の新人!」


 返事を言い終える前に、がばっと梨樹に抱きつかれた。

 女の子の身体だから、という以前に腕に当たったとある部分が圧倒的に柔らかい。あと、ハニーミルクな真綾の匂いに対して梨樹はレモンのような柑橘系の香りがする。

 と思ったら自由なほうの袖を引っ張られた。むっとした表情の真綾が「こっちに来い」と目で訴えている。いやもう本当になにが起こっているのか。


「はいはいそこまで。翠が状況を飲み込めていないじゃないか」

「ええ。先に行うべきは講評ですわ。反省会は個別に帰ってから行うとして、勝敗がどのようにしてついたのかくらいは知っておくべきでしょう?」


 ただの高飛車なお嬢様かと思ったら、沙羅は意外としっかり部長の役割を果たしているらしい。

 双月姉妹もキスの余韻で息を乱しつつも真面目な顔でそれに頷いている。

 沙羅は「よろしい」とばかりに頷いて、


「弓弦と美兎は双子という先天的なアドバンテージを持っています。それに加えて互いとのキスに慣れている。これを用いることで高得点を連発することが可能でした。……では、何故二人が敗れたのか?」

「それは真綾ちゃんと翠ちゃんが『物語』を利用したからだよ。双月さんたちが双子なのは見ればわかるし親しい関係なのもわかったけど、ただキスしているだけじゃえっちな動画とそんなに変わらないよね?」


 やっぱりえっちなんじゃないですか、とは、いいところなのでツッコまない。


「対して桜庭女子学院側は対話を重ね、互いの背景を見る者に『想像』させました。その積み重ねが序盤の噛み合わない会話をも伏線に変え、最後の指へのキスに最大の効果を与えたのですわ」

「でも、指ですよ? 唇に何回もするほうが強いんじゃ」

「真綾ちゃんもちょっと説明してたでしょ? リクロスでは時と場合を選んでコンボを狙うことも重要なの。例えばだけど、百点を五回取るより十点を百倍にして一回取るほうが高得点になるってこと」

「それとも翠は、指くらいなら全然平気だったのかな?」

「っ」


 『その時』の事を思い出してまた頬が熱くなる。

 真綾がどんな顔をしているのか確認したいけれど、まともに顔を見られない。

 というか、この場にいる全員に現場を見られていたとか、どんな羞恥プレイだ。

 双月姉妹なんてキスシーンを連発していたわけで。


「あの、動画を拡散とかしないですよね……?」

「するわけがないでしょう? いったいわたくしたちをなんだと思っているのかしら? ……まあ、大会の中継映像などはどうしようもありませんけれど」

「わたし試合に出るの止めようかなあ」

「えー? 翠ちゃん、なんだかんだ気持ちよさそうだったよ?」

「いや、それは、その」


 不思議な高揚はあったというか、勝てたのもあって気持ちいいのだけれど。

 それは真綾と心で繋がれたからというのが大きくて。なら別にリクロスでなくてもいいような。でも、制限時間とルールがあったからこそああやって本音が言い合えたのかも。


「ほら満更でもない。大丈夫。ここにいる子たちはみんな仲間なんだから」

「仲間?」

「リクロスに興じる者はみな同志。百合を馬鹿にする者などいない、ということですわ」


 見れば、姫百合の部員たちも優しく微笑んでいる。この人たち全員が悪い人やおかしい人、とはとても思えない。

 百合。

 翠にはまだそれがよくわかっていない。それでもやっぱり、頭ごなしに否定はできない。したくない。


「もう少しリクロス続けてみよ。ね?」


 梨樹からまたしてもぐいぐい勧誘されて、翠の心はぐらぐらと揺れた。


「……まあ、その。桜庭さんと一緒なら」


 話を振られた真綾は少し驚いたような顔をした後、頬を膨らませた。


「当然です。……少しは見直したところなのですから、私から離れていくのは許しません」

「あらあら。仲のいいことで」


 くすくすと笑った沙羅は「さて」とみんなを見渡して。


「せっかくですからもう一、二戦してみますか? わたくしとしては『全国で五指に入るプレイヤー』の実力、部員たちに見せておきたいのですけれど」

「いいよー。翠ちゃんたちにもわたしと葵のプレイ、一度見せておきたいしね」


 そうして始まった梨樹と葵のリクロスはそれはもうすごくて、翠たちのそれとはレベルが違っていた。



    ◇    ◇    ◇



 練習試合はお昼すぎには全部終わって、帰りにファミレスで翠たちの祝勝会+お昼ごはんを食べた。ついでに反省会も行われたのだけれど、


「リクロスは時の運もあるんだよ。それにお互い、まだまだ高得点を目指すチャンスはあったと思う」

「双月姉妹は言った通り、ストーリーを感じさせるプレイをするだけでぐっと点数が変わったはず。真綾と翠だって環境を最大限活かせていたとは言い難い。奥が深いよ」

「えっちな競技なのにゲーム性がすごいんですね……」

「だからえっちな競技じゃないてば!」


 それはもうわかりましたから。


「……はあ。それにしても、意外とやっている人が多いんですね。もっとマイナーな競技だと思ってました」

「全国の動画も見せたじゃないか。テレビではまだ放送されていないけど、プロの試合は動画サイトで人気コンテンツだよ」

「プロ」

「トップクラスのリクロスプレイヤーは高給取りだよー。全国で結果を残せればスカウトが来て将来安泰かも」


 進路のことなんて一年生の四月に考えられないけれど、思わぬところに選択肢が落ちていた。

 自慢じゃないけれど翠にはこれといった取り柄がない。プロスポーツなんて夢のまた夢だと思っていたので、ちょっと夢を見るだけでも楽しかった。


「梨樹先輩はすごい選手なんですよね? やっぱりプロを目指すんですか?」


 リクロスのプロってえっちな女優とあんまり変わらないんじゃないだろうか、と思いつつも尊敬を覚えていると、梨樹は「ううん」と首を振った。


「わたしはプロにはならないよ。部活でやるのと仕事でやるのはぜんぜん別物だからね」

「……そうなんですか」


 あれだけ強引に翠を引っ張り込んだ人とは思えない。

 どこか寂しそうで、けれどすっぱりと決意しているような。そんな表情の意味は、出会って日の浅い翠にはわからない。

 真綾は。……彼女も全て慮ることができていないのか、それともなにかを感じ取ったのか。複雑そうな顔をしていた。

 こほん。


「でも、練習試合のおかげでリクロスがどんなものかはわかった気がします」


 奥は深い。勝ち上がるのも大変そうだ。だけどやり甲斐はあるかもしれない。パートナーが真綾なら、やってみるのも悪くない。

 翠は軽く首を傾げて、


「普段はどんな練習をしてるんですか? 家でできることとかありますか?」

「え? えーと、うーん……部室ではマンガを読んだり、みんなでゲームしたり、お茶を飲んだり、とか?」

「え」


 姫百合はなんか真面目に特訓してそうだったのに?

 にこにこ笑いながら「うちには設備もなにもないからねー」と言う梨樹を見て、翠は「大丈夫なのかな、この部活」とまたしても思うのだった。

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