第8話 マグロ丼
市場、それは新鮮な食材が揃う朝一番の売買所。
海の近くと言う訳ではないから、釣ったばかりの魚が並ぶという事では無いが。
それでも商人が卸した品々が、ズラッと並ぶのだ。
誰しもそれらを我先に仕入れようと、大きな声を上げながら商品を買い漁っている。
「凄い、ですね……なんか勢いが」
「当然だよアーシャ、皆良い食材を仕入れようと必死だからね。それに技術の進化と、魔道具の影響なのか。魚や肉も新鮮な物が多いね、実に良い」
二人で会話を交わしつつ、市場を歩き回る。
おぉ、珍しい。
寒くなって来ないと市場に出てこない栗なんかもあるじゃないか、アレは買っておかないと。
と言う事で、あっちで購入こっちで購入とやっている内に。
ぐぅぅと、お腹が鳴った。
私では無く、アーシャの方から。
「す、すみません」
「いやいや、朝早くから起こしちゃったからね。そろそろご飯に行こうか」
この様な場所では、一般人に関して言うなら空気を味わうモノだ。
もちろん安く良い物が手に入るって意味もあるが、店を持っている人達の様にまとめ買いをする訳ではない。
そんな事を続けながら、人波から外れて近くの店を探してみれば。
「アーシャ。露店とお店で食べるの、どっちが良いかな?」
「どちらでも構いませんけど……街中と何か違いがあるんですか?」
大ありだよ。朝市の近くの店は、立地からして他に比べて“有利”なのだ。
クックックと笑いながら手頃な店に足を踏み入れ、「今日のお勧め二人前」とだけ注文して席に着いた。
はてさて、何が来る事やら。
アーシャは少々不安そうな顔をしているけど、此方としてはワクワクが止まらない。
雰囲気からして何を取り扱っている店なのかは察しているが、それ以上に“今日の”お勧めを頼んだのだ。
つまり、先程の市場でどれだけ良い物を仕入れられたかによって、出て来る物が違うと言う訳だ。
この店の実力、見せて貰おうじゃないか。
などと、何様だと言われてしまいそうな感想を思い浮かべながら料理を待っていれば。
「はいはいお待たせしましたぁ! 今日のお勧め、大盛りツナの
ドドンッと目の前に登場したのは、でっかい丼と山盛りの赤い魚の肉。
これでもかと言う程に盛り付けてあり、今にも零れてしまいそうだ。
海でもないのに、こういう料理が出てくるのは技術進化に感謝だ。
そんな事を思いながら祈りの姿勢を取り、いつも通り食前の挨拶をしてみれば。
「ま、待って下さいリオナ! コレ生ですよ!? 火が通ってません! こんなの食べたらお腹壊しちゃいますよ!」
箸を持った私に対し、アーシャが物凄い勢いで止めに入った。
なるほどなるほど、彼の街ではこういう料理は出回っていなかったか。
いやでも最近の貴族のパーティーなんかには、こういうのも出るって話もチラッと聞いた事がある。
つまり奴隷の立場であった彼は食べた事が無いと見て良いのだろう。
「アーシャは生魚を食べた事はないのかい?」
「あぁぁ~えぇと、パーティーなんかでチラッと見た事はありますけど……」
おや、彼の元々の出身は思ったよりも良い所なのかもしれない。
パーティーや何やらに参加した事はあるのか。
まぁそんな事はどうでも良いとして、彼にも箸を握らせた。
「食べてごらん、とても美味しいから。あ、もちろん生で食べられない魚も居るから、何でもかんでも生で食べちゃ駄目だよ?」
などと微笑みかけながら、自らの丼に盛り付けられたツナを一口。
場所によって呼ばれ方が違うのはいつもの事、海の近くの街ではマグロって呼ばれていたかな。
そんな訳で、一口味わってみれば。
あぁ、なるほど。
私が思っていた以上に、状態を維持する、または冷凍させるという技術の進化は進んでいるらしい。
海で食べたマグロは、それはもう蕩ける様な食感であったが。
コレもなかなかどうして、ちゃんとマグロを食べているって気分にさせてくれる。
本場に勝てないなんてのは当たり前だが、どちらが旨い不味いという訳でもない。
私は今マグロを食べている。
それだけで、良い気分だ。
「はぁぁ……久し振りに食べた。やっぱり美味しいね」
そう言ってから卓上にあったショウユを全体に掛けて、ワサビを乗っける。
ショウユの瓶には“ソイ”と書かれており、ワサビに関しては“とても辛い”と書かれていた。
名前が地域によって違うのは知っていたが、ワサビお前……この地域では名前すらないのか?
いや、流石にソレは無いか。
名前よりも先に警告しておかないと、大量に使って地獄を見る人間が多発したのだろう。
などと感想を残しながらも、マグロと一緒にご飯をパクリ。
うん、コレだよ。
これだけでも充分な美味しさだ。
思わずそう言ってしまいたくなる程、ジワリジワリと旨味が口の中に広がっていく。
魚の味わいと、温かいご飯。
そしてそれらの味をグッと引き出してくれるショウユに、ツンと鼻に来る刺激的なワサビ。
はぁぁ……やっぱり海の魚は良い。
川魚じゃとても生で食べようとは思えないし、こればかりは海の特権だ。
とはいえ、川魚だって焼いたら美味しいんだけど。
でも今は、海のお魚を味わおうではないか。
「う、うん? えぇと、あれ?」
もはや久し振りの海の幸に興奮していれば、目の前ではアーシャが箸に苦戦している御様子。
何度も私の手元を見て、必死で真似をしようとしているのだが……なかなかどうして、こればかりは慣れと言うモノが必要だ。
「すまない、スプーンを一つもらえるだろうか?」
声を上げてみれば、厨房の方から元気の良い返事が聞えた。
しかしながら、それを恥と思ったのか。
アーシャは赤い顔で眉を吊り上げてみせた。
「必要ありません! 俺だってこれくらい……多分!」
「段々慣れていけば良いさ。“ハシ”は特にそういう物だからね。それに今は箸を練習させる為にこの店に寄った訳じゃない。アーシャにも、美味しく食べてもらいたいと思ってね」
「で、でも……周りを見ても皆、ハシ? を使っているのに。格好悪くないですか?」
「大丈夫だよ。それに私達の格好はどう見てもこの地域の人間じゃない、誰も笑ったりしないさ」
などと言いつつ、微笑んでいれば。
そのタイミングでスプーンが届けられ、渋々ながら彼は私の真似をしてショウユを掛け始める。
そして、ワサビも。
あっ……とは思ったものの、これも経験かと考え直して口を噤んでいれば。
「んんっ!? すごい、生魚なのに……全然嫌な匂いとかしないんですね、味も滑らかです。……本当に平気なんですよね? この緑色の調味料が解毒薬だったりしませんよね?」
「凄い発想だね。大丈夫だよ、そのまま食べて。美味しいでしょう? 緑のヤツは……そうだな、マグロに慣れて来た頃にちょこっとだけ合わせて食べてみると良い。間違ってもいっぺんに食べちゃいけないよ?」
「分かりました! マグロって言うんですね……俺、これ好きです!」
その後はモリモリとアーシャは料理を減らしていく。
夢中になり過ぎて、口の周りを汚しながらご飯を頬張っている姿に、思わず微笑みが零れてしまった程。
それは周囲の人間も同じだったらしく。
「ボク、生魚は初めてかい? 初めてのモンでも美味しいって食べてくれんのは、おばちゃん達にとっても嬉しいもんだよ。ホラこれ、サービスだ。美味しいから飲んでみな?」
忙しく皆の注文を取っていた女性が、ニコニコしながら私達にミソ汁を出してくれた。
このミソとショウユと言うモノが、原材料は一緒だと聞いた時は非常に驚いたモノだが。
でもまぁ、美味しいなら何でも良い。
そんな訳で一口啜ってみれば。
「あぁ……旨い。これも魚から出汁を取っているのかな」
「おや、そっちのお姉さんは詳しそうだね。その通りだよ、タイって魚を知ってるかい? それのミソ汁だ。しかも何と……頭をそのまま放り込んで煮込んであるんだよ?」
思わず、ふぅぅと深く温かい息が漏れてしまう。
口の中に柔らかい味が広がり、飲み込んでみればホッとする様な優しい風味が鼻を抜ける。
あぁ、コレは当たりの店を引いた様だ。
「こっちも美味しいです! 凄いんですね、この魚! 川魚とかの塩焼きも好きですけど、味わいが全然違います!」
アーシャは興奮した様子で頂いたミソ汁を啜り、再びマグロの丼を口に運んでいく。
口いっぱいにご飯を放り込み、必死に噛みしめ飲み込んだ後、ミソ汁を啜ってプハッと気持ちの良い声を上げる。
店員もそうだが、私も思わず緩い笑みを浮かべてしまう。
それくらいに、この子は美味しそうに食べるのだ。
「こんな子が美味しそうに食べてくれるんなら、ウチとしてもサービスしたくなっちゃうねぇ」
店員の女性は、カッカッカと豪快に笑いながらアーシャの事を微笑ましく見つめていた。
歳の頃は……四十後半というくらいだろうか?
私としては若いという他無いが、周りの皆の反応を見るに。
馴染みのおばちゃん、という所なのだろう。
まるで皆の母だと言われても納得してしまいそうな程、周囲と馴染んでいる。
「おいおばちゃん! サケの卵食わせてやれよ! 坊主でも絶対ハマるぜ!」
「何言ってんだ、イカだイカ! あの歯応えを知ったら、酒にはアレしかねぇって思うだろうよ!」
「今日カニは入ってねぇのかよ! アレこそまさに旨味の頂点だろ! 俺が出すから、その坊主に喰わせてやってくれよ! 最初の反応が見てぇ!」
誰も彼もが悪乗りし始め、アレをコレをと注文し始めるが。
それに対し店員の女性は大きなため息を溢してから。
「海の幸ってのは、どうしたってこの辺じゃ仕入れづらいんだ。いつでも何でもあると思わないでおくれよ!? 最近じゃ海の方で化け物が暴れてるらしくてね……コレだって結構値が張るんだ。そこまでいうなら、アンタ等チップでも置いて行ってくれよ」
彼女がその言葉を放てば、周りにいた客たちは笑いながらテーブルの上に追加の金銭を並べていく。
アレらも全て、この店を回す為の資金に代わる事だろう。
こういう軽いノリは、嫌いじゃない。
例え悪乗りであろうとも、コレでこんな美味しい料理を出す店が残るのなら。
それはそれで、痛い出費とは思えないのだから。
だからこそ私も、財布に手を突っ込んでみれば。
「おいおいお姉さん、アンタまで出せとは言わないよ。コイツ等は常連で、安い時を見計らって足を運ぶ様な連中さね。今日初めて来たお客さんにまで追加を出せとは言わないから、財布はしまってくんな」
慌てた様子で私を止めて来る店員に、これまた笑みが浮かんでしまった。
つまり地元の人間に愛され、彼等のお陰でこの店は成り立っている。
だったら、少しくらい協力させてくれても良いじゃないか。
「では、一枚だけ。これだけは取っておいて下さい」
それだけ言って、彼女の手に金貨を忍び込ませた。
これでも賭け事なんかではイカサマを連発している身の上なのだ。
素人の掌に硬貨を滑り込ませる事など造作もない。
とか、思っていたのだが。
「な、なっ!? おいアンタら! このお嬢さんから金貨頂いちまったよ!? どうすんだい!」
「おいおいおい! 俺等が出したのなんてはした金じゃねぇか!」
「勘弁してくれよぉ。これ以上出したら、嫁さんに怒られちまう」
「だったら、俺等が出した金で坊主に旨い物食わせてやんなよ! な!? それで良いだろ!?」
何やら店内が騒がしくなって来た頃、フフッと軽い笑みを漏らしながらアーシャに視線を戻してみれば。
何やら、プルプルしているではないか。
「アーシャ?」
声を掛けてみるものの、彼は未だ震えたまま動かない。
その様子に気付いたのか、周りからも人が集まって来るが。
「わ、わしゃびってしゅごく……」
「ちょっとアーシャ!? まさかさっきのワサビ一口で食べたのかい!?」
慌てて彼に水を差し出しみるが、未だ口の中に残っているのか水を受け取ろうとしない。
この子、最初のキノコだけはぶえって吐き出したけど。
基本的にご飯を残そうとしないのだ。
つまり、口の中にはワサビの他にも色々入っているのだろう。
それらを吐き出したくないが故に、ワサビの辛さに耐えている状況……なんだろうけど。
「おい坊主! 吐き出せ吐き出せ! 慣れない内はいっぺんに食っちゃ駄目だ! そもそもワサビは大量に食う物じゃねぇ!」
「止めとけ止めとけ! ウチの子供も一気に食って、しばらくひゃっくりが止まらなくなったくらいだぞ!? 無理すんな!」
周りの大人達に促され、流石に観念したのか。
ぶえっと口に含んだワサビを吐き出したアーシャ。
あぁもう、こんなにいっぱい口に入れちゃって。
そりゃ辛いよ、子供にこの量のワサビは無理だよ。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫、大丈夫だから。ボク、平気かい? ワサビってのは、本当に少しだけで良いんだよ? 今何かジュース持ってくるから、それまでは水飲んでな?」
涙目のアーシャに対し、店員の女性どころか周囲の面々まで駆け寄り。
店の中は一時期混乱に見舞われてしまった。
私がちゃんと見ていなかった影響ではあるのだが……ほんと、子供というのは何をするか分からないモノだ。
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