第10話 条件
『ご主人様、クロとの絆を深めた矢先に申し訳ないのですが、そろそろお食事にした方が良いのではありませんか』
「確かにそうだね。クロの件があってすっかり忘れてた。ありがとうね、シエラ。朝ごはんにしようか」
『……ご主人様、大変申し上げにくいのですが、今は夜です』
その言葉に、数秒思考が停止する。
今、シエラは何と言った? 夜?
家では和気藹々と家族が食卓を囲み、外では月光が煌びやかな街を演出していると、そう言ったのか?
いや、そんなはずはない。もしそうなら、僕は24時間近く眠っていた事になる。だからこれは恐らく、シエラの冗談だろう。クロとしか話していなかった僕に、ほんの少しだけ意地悪をしたくなった。そうに違いない。
『ご主人様、現実逃避は止め、しっかりと受け止めてください。私が今まで嘘を言ったことがありましたか。それに、私の言葉が信じられないのでしたら、スマホを見るか、カーテンを開ければ分かることです。加えて、もし24時間近く寝ていたとして、何か問題があるのでしょうか。今日は幸いな事に土曜日。明日も学校はお休みですので焦る必要性は何もないかと。普通の人間がやらないような事をしてしまったからとて、気にすることはありません。我々しか見ておりませんし、何より、ご主人様は普通の人間には出来ない事を成し遂げたのですから。後最後に、決して嫉妬や意地悪で言った訳ではないという事をご承知おきください』
シエラに優しく諭され、冷静さを取り戻す。確かに今日丸一日寝ていたとて、何か問題があるわけではない。明日が学校という訳でもなければ、課題があるわけでもないのだ。
普通ならしない事をしてしまったために、少々焦っていたようだ。普通でない事が、どれだけ辛い事なのか、分かっているから。
しかし、夜だと分かったところで、認識された空腹が収まる事はあるはずもなく。
僕のお腹は、ケルベロスの咆哮に負けず劣らずの音を発した。
「……あはは! それじゃあ二人とも、夜ご飯にしようか」
嬉しそうなクロと、一緒になって笑うシエラと共に、自室を後にする。
扉を閉める直前にちらりと見た時計には、20:32という時間が示されていた。
******
「そう言えばクロ、何食べるの?」
階段を降り、リビングで今日の夕飯の準備をしながら訪ねる。
犬と言えば、やはり思いつくのはドッグフードだが、クロはただの犬ではない。ケルベロスなのだ。今まで何を食べていたのかも知らなければ、当然こちらの世界の食べ物が合うかどうかも分からない。
果たしてクロの舌に合う食べ物はあるのだろうか。
『クロはね、何でも食べるよ』
「何でも? 本当の意味で何でも?」
『うん! ダンジョン内だと魔力を食べるし、こっちの世界だと普通に主と同じ物食べれるよ!』
意外な回答だった。
異界で生まれ、ダンジョンで育ったクロが、こちらの世界の食事を取れるとは。
しかし、それなら餌の事を考えなくて済む。寧ろラッキーな情報だった。もしかしてこれも、主のお陰だろうか。
『恐らくそうでしょうね。ずっとダンジョンで暮らしてきた生き物が、いざこちらの世界に来て、すぐに適応できるはずがありません。何より、異なる世界の食べ物を食せるという事自体おかしなことです。まずあの主がやったと考えて差し支えないでしょう』
「やっぱりそうだよね。でも、クロが生活しやすい様にってしてくれた事だと思うから、主には感謝しなくちゃね。それに、もしかしたら僕に迷惑が掛からないようにって想いもあったかもしれないし」
『……そうですね。少々癪ではありますが、ご主人様がそう言うのであれば、感謝しておきましょう』
「シエラ、もしかして主の事、あんまり好きじゃない?」
『いえ、そんな事はありませんよ』
「……そっか」
さっきの口振りから、どう見てもシエラは主の事が嫌いだろう。何故なのかははぐらかされてしまったが、いつかは教えてくれるはずだ。気にはなるが、それまで気長に待っていよう。
シエラの事を考えつつ、手元に意識を向ける。今は麺をほぐしている最中だった。そんな、しきりに手を動かしている事が気になったのか、今度はクロが楽しそうに話しかけてきた。
『そう言えば主、今は何作ってるの?』
「これはね、パスタって言う食べ物だよ」
『ぱすた?』
「そう。凄く美味しくて、簡単に作れるから、僕は一人暮らしの味方って呼んでる」
『何か格好いい! でもねでもね、クロも主の味方だよ!』
「……うん。ありがとう」
そう言いながら、クロの首筋をワシャワシャと撫でる。その気持ち良さそうな顔を見ているだけで、こちらも幸せな気分になった。やはり動物は素晴らしい。
一通りクロを撫でまわした僕は、パスタ作りに集中する。とは言え、既に大半の作業は終わっているため、残りはパスタソースをかけるくらいの事だ。そして、数分もしない内にパスタが出来上がった。
用意したお皿は二つ。僕用の一般的な大きさのお皿と、クロ用の少し小さなお皿。それぞれにパスタを盛り付ける。
テーブルまで持って行き椅子に座ると、クロも僕の横にある椅子にぴょんと飛び乗り、食べる準備を終えた。
そうして、僕に続いていただきますと言ったクロと共にパスタを食べ始めた。
『主! このパスタ、凄く美味しい!』
「本当⁉ 作って良かったな」
今はもう感じる事などできないと思っていた幸せを噛み締めながら、パスタを飲み込む。その味は、普段より数倍も美味しく感じられた。
そうしてパスタも半分まで減った頃、シエラが話しかけてくる。恐らく、ずっと話す機会を窺っていたのだろう。その声は、ひどく申し訳なさそうだった。
『ご主人様、お食事中、誠に申し訳ございません。これからのお話をさせていただけないでしょうか』
「そんな申し訳なさそうにしないで。ずっと話そうとしてくれてたんだよね。こっちこそ、気付いてあげられなくてごめんね。それでこれからの話って言うのは、原初のダンジョンの門の事?」
『流石です、ご主人様』
「確かあの門って、開くのに条件があるんだよね?」
『その通りです。そして今回、私が提案ではなく相談という形を取ったのは、その条件が理由です』
「その条件って?」
『九大ダンジョンを攻略することです』
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