眼鏡の田中さん

つばきとよたろう

第1話

 窓ガラスから誰かが囁くほどに、朝の光が廊下に向かって斜めに差し込んでいた。時計の針が休み時間になった。ぼくは教室から抜け出して散歩する気分で、その辺をぶらぶらしていた。別に当てがあったわけではない。ただ何となくそわそわして気分が落ち着かなかった。宙に浮いてしまいそうな気分を落ち着かせるために、廊下に出てきたのだった。そういう時に限って何かに出会う。それは悪いことだったり、いいことだったり、どちらかと言えば、悪いことの方が多いように思った。

 廊下に出ていた生徒は少ない。みんなトイレの鏡を見るように、よそよそしい顔をしていた。そんな考えをよそに廊下の向こうから眼鏡を掛けた女の子が、こちらに歩いてくる。知らない子だと思った後に、なぜかどこかで見たことがある気がしてじっと見詰めた。ぼくの背後を真っ直ぐ向いて、彼女の視線は感じなかった。田中美紀だった。小柄であまり目立たない子だった。眼鏡を掛けているせいか、教室にいる彼女とは全然雰囲気が違って見えた。背筋をぴんと伸ばしていて、どこかの文学少女みたいに利発そうだった。まるで別人だ。それに田中美紀が眼鏡を掛けていたところを、一度も見たことがなかったから驚きだった。普段は眼鏡を掛けていない生徒も、授業中になると黒板の文字を見るために眼鏡を掛ける子はいる。その時、田中美紀が眼鏡を掛けていたかまでは、気づいていなかった。

 それで次の授業の時にわざわざ教室の中を見回して、その事を確認してみた。ところが、田中美紀は眼鏡なんか掛けていなかった。席に座っていたのは、いつもの裸眼の彼女だった。ぼくは何を見間違えたのだろう。しばらく眺めていると、田中美紀は熱心に黒板をノートの写していた。もちろんそれからも眼鏡は掛けていない。休み時間、ぼくは誰かにその事を聞いてみた。

 田中さん、眼鏡掛けていた?

 さあ、掛けてないんじゃない。

 それからも時々眼鏡を掛けた彼女を見掛けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眼鏡の田中さん つばきとよたろう @tubaki10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ