第4章


多くの来場客を魅了した文化祭やその他様々な公演が終了し、迎えた十一月下旬。


 高文連の前日に、百鬼総合は大会に向けて高校から徒歩で向かうことの出来る劇場をレンタルし、練習に臨んでいた。

定期公演や大きな公演では非常に良く使われ、上級生たちにとっては勝手知ったる馴染みのホールである。

 部室で練習しているとどうしても音量が十分出ているような気持ちになってしまうが、演奏する場所によってその音が届く範囲は大きく変化するのだ。

何百人と収容するホールで叩いてみると、いかに自分たちの音が響かないかが良く分かる。


 大会用の衣装も着用しており、常日頃着慣れたジャージで叩くのとは疲労度が段違いだった。

 衣装は全演奏者共通で黒い袖なし半纏に同色の幅広ズボン。半纏の背中には祭の団長が直筆した「百鬼総合」という文字が大きく銀刺繍で入れられている。

同じ文字がプリントされたTシャツもあり、これは公演等でも皆が着用している。

 さらにプラスアルファの要素として、長胴は赤、締め太鼓は青、連は黄色、大締めは緑、そして笛は白の良く目立つ帯を爛華専用の衣装として着けていた。



「はぁ辛い。普通の練習してからのこれっていうのが割り増しでしんどい」

「ふふ、そうだな。だが出場しない部員を俺たちに付き合わせるというのも気が引ける。仕方が無いと割り切ろう」



 舞台上でセンターライトを一身の浴びながら、仰向けで弱音を吐いた明日葉を初春が覗き込む。

ライトを背にすると一瞬視界が唐突な明暗に慣れようとぼやけるが、やがて穏やかに微笑む初春の姿がはっきりと見えた。



「そりゃそうだ。俺が後輩だったら部活後に練習見学とか絶対断る。速攻帰って休む」

「明日葉さん! 次また十分後に通すみたいですよ! 起きて下さい! はい水!」

「えっ、この後輩怖。俺の話聞いてた?聞いててこれ?お前俺のこと大好きじゃん」

「明日葉さんの太鼓が好きです!」

「太鼓の所だけアクセントつよ。そこは俺が、で良くない?」



 寝転がったままの明日葉に飛び掛かるような勢いで音々野々がペットボトルを差し出す。

その目はキラキラと輝いており、早くまた爛華が見たいと顔に書いてあった。


 この放課後のホール練習に参加しているのは大会出場メンバー全員と若干名の希望者。

先程初春が言った通り、この練習で太鼓を叩けるのは高文連で爛華を叩く生徒のみであり、非選抜者が来たところで出来ることはひたすらに通される爛華の見学と、休憩時間のアシストだけ。



「ばっちりでしたよ、理央。最後列まで完璧です」

「本当?やったぁ、ありがとう雅。このキャパで後ろまで届けば高文連の舞台でも問題ないね」



 寿屋が半ば強引に引っ張ってきた感も否めないが、志貴もこの練習に参加しており、先程から寿屋の笛の音を客席からチェックしている。

 爛華という曲の中で笛を吹いているのは寿屋一人だけであり、その音がきちんと客席の隅々まで届いているかどうかは本人も気にしているところであったので、そう志貴に言われた瞬間ふわりと表情が和らいだ。



「次は審査員席辺りで聴いてみます。それと視線が少し迷いがちですから、凛と真っすぐに、やや上向き。ここからだと非常灯の辺りを見るようにしてみて下さい。それだけで表情がより良く見えます」

「誰もいない客席ってどこ見たらいいか迷っちゃうんだよね。分かった、気を付ける」



 志貴にアドバイスをされて心底嬉しそうな寿屋がくしゃりとした笑みを浮かべる。

周りに花が咲いているような二人のほんわかとした空気を、組まれた締め太鼓の横に座り込んだ柊と間宮がややぐったりした様子で眺めている。


 当日、間宮は柊の後ろで叩くことになっていた。

選抜に選ばれたとはいえ既に決定している生徒たちの中では最も未熟で実力が無いとされる間宮と、締め太鼓に関しては突出した技術を持つ柊を前後に組ませることによって、全体のバランスを整える為である。



「いつからあんなバカップルみたいになっちまったんだろうな、あいつらは」

「……さぁ」



 馬鹿にするわけでも引いているわけでもないが、確実に一線引いた立場からそう柊が感想を述べる。

同意を求められた間宮も詳しいコメントは差し控えて一言だけ返した。


 その薄い反応がお気に召さなかったのか、柊がくるりと体ごと後ろを振り返って間宮と向かい合うように座り直す。

突然こちらを向いた先輩にびくりと警戒するように肩を震わせると、その緊張を他所に柊が胡坐をかいた脚に肘をついてゆっくり瞬きをした。



「お前さ、自分が御来屋に勝つところ想像したこと無いだろ」



 不意に掛けられた鋭い質問に、間宮が目を丸くして息を止める。

 先日世良から叱責された場に柊もいた為、間宮が彼にどのような感情を抱いているかを推し量ることは容易だっただろう。

ましてや柊自身も一年生の時に彼が所属する神々廻に惨敗している。御来屋棗という男がどれ程強大であるかを、柊も良く分かっていた。


だからこそ今このタイミングで投げかけたのだろう。合宿所で一番初めに爛華に反対した時のように、彼は自分の感情に蓋をして見ない振りをするという事が何より嫌いだった。

自分の後ろに立って、自分の背中を見て叩く男に対して、わだかまりは残したくなかったのである。



「あいつには勝つとか負けるとか、そういう次元で接したこと無いです」

「じゃあ他の奴らには?」



 控えめな音量で返答された間宮の言葉をきっちり拾い上げ、柊が間髪入れずに再び質問を投げかける。

 御来屋とはそもそも勝ち負けを競い合うような関係性ではない。だからこそ彼に勝って嬉しいとか、負けて悔しいとか、そういう類の感情も間宮には持ち合わせていないのだ。

 しかし、次の質問で彼の心持はがらりと色を変える。



「神々廻に勝つ想像は出来てるか、間宮」



 かつて自分の神であった男に関してではなく、もう少し広い範囲へ向けられた挑戦。

確かに対御来屋は先ほど柊に伝えた通りであるが、神々廻に関しては別問題だ。


 間宮九十九個人として御来屋と戦わなければならない訳ではない。自分の前には多くの頼れる先輩や同級生がおり、向こうの後ろには常勝校として高い技術を誇る数多くの演奏者がいる。


 その世界で、今彼は百鬼総合の一年生として、神々廻を玉座から引き摺り下ろす。



「無責任な事を言いたくないのでこれ以上は控えますが、俺は負けたくないと思ってます」



 客席の最前列から結城の声がした。休憩時間は終わったらしい。移動していた生徒たちが各々自分の太鼓の前に戻っていく。

 ひょいと間宮が立ち上がり、腰元についている埃を軽く払った後、まだ座ったままの柊に小さく笑いかけた。



「先輩もですよね、当然」

「随分生意気言うようになったな」



 目を細めながら柊がそう軽口交じりにそう言うと、間宮はさらにふわりと表情を楽しそうに緩ませて「教育の賜物ですね」と皮肉で返した。

 そうしてこの日四回目の爛華が始まる。



「何だか随分長く感じるな」



 練習後、ホールから最寄り駅まで向かう最中、ふと初春が前置き無しにそう口にした。

 彼の右隣を歩いていた明日葉と、歩道の邪魔にならないように後ろについていた柊が揃って初春を見やる。

それまで夕飯に何が食べたいか議論していた彼らにとって、全くと言っていいほど脈絡のない初春の言葉の真意を理解しようと頭を回転させるが、十数回にも及んだ爛華通し練習の弊害で明確な答えが浮かばない。

 そんな二人のフリーズを知ってか知らずか、さらに初春は言葉を続けた。



「一昨年の高文連からもう二年というと何だか呆気なく感じるが、俺にとっては随分と長かった。本当に、あっという間ではなかったなぁ」



 ほぼ二年前の同時期、彼らは色々なものを消費し、奪われ、何も得ることなく秋に幕を降ろした。

 それからというもの柊は爛華を嫌煙してしまうようになり、大会出場さえ拒否し、多くの仲間や先輩が先の大会の傷が癒えずに退部していった。

 しばらくは先輩が抜けてしまった穴を埋める為に初春や明日葉が必死で様々な曲を自己流で練習し、それでも足りないときは十條や世良にも泣きついて教えを乞うた。


 とにかく精一杯だったのだ。

目の前の壁は果てが見えない程に高く、何度殴りつけても壊れることが無いくらい分厚かった。

その前に立つ度に膝を折り、もう諦めてしまいたいと顔を覆った。

けれどかつて同じように涙を流しながら舞台から降りていった者たちの顔が浮かんで、再び足を前へと進めさせる。


 初春に今の道を歩ませてくれた二人や他の三年生、そしてついて来てくれた下級生に対して言わなければならない言葉は山ほどあった。

一番伝えたい感謝の言葉も、まだ残っている。

 黙ったまま自身を見つめている明日葉と柊の事をゆっくりと眺め、初春が人差し指を口元に当てながらふわりと笑ってみせる。

それはいつも背伸びをして大人ぶっている彼がみせた、年相応のあどけない笑みだった。



「ここから先はまた明日な」



***



 翌日早朝、百鬼総合高校は結城の運転するハイエースに太鼓を積み込んでから都内の会場へ移動を始めていた。

以前はバス移動だったのだが、観覧しに来た家族との時間も必要だろうという十條の計らいにより、今年は電車で向かい、終了後は各自解散という形にしたらしい。


今年度の高文連伝統芸能部門の大会が行われる場所は、最大千五百人の観客を収容することが出来る大型ホールだ。

より広いものは他にもあるが、普段練習している部室に比べればその広さは段違いである。

この舞台を経験しているのは初春と柊のみ。後の生徒は全員初めて立つステージだった。



「もう結城先生が着いているはずだ。合流してリハーサル時間の確認をしよう」

「えっ、紫先生車飛ばし過ぎじゃね」

「太鼓を積んでるからいつもよりは安全運転だろうと思うが、念の為傷は確認しような」



 会場へ向かう道すがら、そんな不穏な会話を初春と明日葉が小さな声でしている。

すると、彼らの話通りメイン入口の喫煙所で既に結城が一服している姿が見えた。

 電車で乗り換えもあったとはいえ、そこまで到着時間に差の出る場所ではないのだが、悠々と煙をくゆらせる姿を見るに随分早く到着していたのだろう。

生徒たちが小走りで結城の元へと駆け寄ると、彼も気が付いたようでその火をそっと消した。



「早かったな、初春」

「先生の方がずっと早かったようで……」



 道が空いてたからなと付け足したが、恐らく法定速度のギリギリに挑戦したのだろう。何でもない顔をしながら煙草の箱を胸ポケットにしまう結城に、初春が小さく肩を落とした。

 そうしてリハーサルの時間や昼食配布場所等を全部員に周知し、その後大会のパンフレットが配られた。

そこには各学校名と演奏曲名が記載されており、下の方に百鬼総合もきちんと記されている。



「演奏順は昨年の順位とは関係ない。ほら、俺たちのちょい前に神々廻がいるだろ」

「ほんとだ。うちも神々廻も午後なんすね。昼食べてからの方が力出るからラッキーじゃないすか」



 出場校全十五校中、百鬼総合は十三番目。神々廻は午後の部トップバッターの七番目である。

 パンフレットに目を落としていた音々野々がふと顔を上げ、くるりと視線を横に動かした。つられて一緒に見ていた明日葉もそちらへ目を向ける。


 視線の先にいるのは、百鬼総合とは対照的な真っ白で金が良く映えるユニフォームに身を包み、統率の取れた足取りでホールへと入ってくる生徒たち。



「目立ちますね、あの白」

「ムカつくくらい眩しいよな。絶対カレーとか食べられないし」

「ってことは部活動中カレー食えないって事ですか?マジかよ、俺だったら絶対脱ぐ。祭のカレーめちゃくちゃ美味かったから、あれが食べられないんだったら衣装着なくて良い」

「てかお前神々廻じゃねえし」



 少し距離があるとはいえ、ポソポソとあくまでも相手に聞こえないように声を潜めながら明日葉と音々野々がそう感想を口にする。

 先頭に立っている生徒たちは手に何も持たずに身軽な風体であったが、列の半分から後ろは両手に大きな荷物を持っている。

 そうして荷物を持っている生徒たちへ顧問が何か指示を出し始めた時、不意に少し違う場所から明るい声が上がった。



「九十九! 随分早かったね、もう着いてたんだ。連絡くれれば良かったのに」



 軽快な足取りでこちらへと駆けてくる彼は、そのジャージに負けない程神々しい白をその髪に有しており、屈託のない笑顔を浮かべながら百鬼総合の集合場所まで平然とやって来た。



「ミーティングこれからでしょ」

「あぁ、別に大した事言われないから平気だよ。それよりも九十九と居られる時間の方が貴重だって。いやぁ大きくなったね。ビデオとかでは見てたけど実際にこうして会うと本当に感慨深いよ」



 そう心底楽しそうに間宮へと語りかける彼こそが御来屋棗であり、百鬼総合にとっては因縁の相手校の要のプレイヤーであった。

 歪んだ性格をしているという前情報が無ければ、なんて優しい笑みを浮かべる男なのだろうと思われるだろう。

久しぶりに会った間宮へここまで愛情を注ぎ、気遣う姿は傍から見れば思いやりのある素晴らしい従兄である。


御来屋からの褒め言葉に一瞬間宮が顔を強張らせるが、すぐに照れ隠しなのか洗脳から逃れようとするためか、ふいと目を逸らす。

 少しばかりの敵対心や、警戒を孕んだ瞳が自身に向けられていることに当然気付いていた御来屋が大げさに肩をすくめて初めて間宮から視線を逸らす。

そうしてその先にいた初春との距離を数歩で詰め、にっこりと笑いかけた。



「そんなに怖い顔しないでよ、百鬼総合。今年は同じ舞台に立てて光栄だな」

「怖がらせてしまったようであればすまなかった。神々廻の御来屋棗にそう言ってもらえるとは思っていなかったから、つい緊張してしまったよ」

「あっは。口が上手になったね、瑛人君」



 初春の毒を孕んだ言葉に、御来屋がカラカラと笑い声を上げる。

 しばらく楽しげに初春の頭から爪先までを観察した後、また小さく微笑みながらすっと手を差し出した。握手を求められているのだろう。



「どうぞ宜しく」



 そう言いながら御来屋が首を小さく傾げると、動きと連動するように彼の白が揺れ、きらりと日の光を受けて輝く。

一抹の抵抗感もあったが、初春が同じように愛想笑いを浮かべながらその手を握ろうとした瞬間、御来屋の後方から凛とした声が飛んできた。



「触るな、愚兄」



 その声と共に御来屋の腕は強制的に上へと引き上げられ、二人の手が重なることは無かった。


 絶対零度とも感じられる低く冷たい声で割り入ってきた男が御来屋の後ろから顔を出し、立ち塞がるように初春の正面へと躍り出る。

 そうして向かい合った彼らは、まるで鏡合わせのように酷似していた。 



「えっ、めっちゃ似てる、何で? 明日葉さんあの人誰っすか」



 あまりにも非現実的な光景に、音々野々や間宮が目を丸くして両者を見比べる。

 髪の毛の具合は初春の方が柔らかであり、もう一人の方がツンツンとしていて硬そうな印象がある。彼らが纏う雰囲気も髪の毛と同じように感じられた。



「初春那々人。瑛人の双子の弟だよ」



 明日葉の回答に二人が揃って驚きの声を上げ、再び視線を初春たちに戻す。

 確かに彼らは双子と言われても十分納得できるほどに瓜二つであるが、今は示し合わせたように真逆の色を纏っている。


 神々廻は中高一貫校であり、遠方から通う生徒は寮での生活になる。

中学から神々廻に通っていたのであれば、彼らが学生として過ごした時間はとても短いだろう。初春にとっては明日葉や柊と共にいた時間の方がずっと長い。

 何年かぶりの再会であるのに、那々人の方は眉間に深い皺を刻んだまま不機嫌そうに初春を睨み付けているばかりでにこりともしなかった。



「久しぶり、那々人。背伸びたな」

「それでも自分には届いていないという不遜か。ご高説痛み入る」

「湾曲して受け止めるな。単純な褒め言葉だよ」



 嘲笑交じりに那々人が棘のある言葉を吐くが、初春は一切意に介さないというように微笑みを絶やさなかった。

そんな余裕すら感じる彼の態度が、より一層那々人を刺激するのだろう。



「弱小校でのうのうと叩いた思い出作りとして、、そこそこの結果を残しに来たのだろう」



 腕を組んで胸を張る那々人に対し、初春は少し困ったように眉を提げて腰元辺りに力なく降ろしていた両拳を握り締める。

 二人を見比べた時に、若干那々人の方が身長が低い。それでも十分世間一般的に見れば高い方なのだが、彼が忌み嫌う初春よりも小さいのは事実だった。



「どうせろくな結果は残せんだろう。楽しかったねと肩を組んでくだらない感傷に浸れば、お前たちは満足するんだろうからな」

「俺のことを嫌うのはいいが、百鬼総合を貶すのはやめてくれ」



 瞬きの間にその場が凍り付いた。

 普段から温厚で何事にも中立の立場を保ち、かつ自分の事を二の次にして他者を優先するような男が、今目の前の人間に露骨に表しているのは、背筋が凍り付くほどの怒りだった。



「……貴様如きが、俺の言動を制限するな!」



 御来屋だけが初春ではなく弟の那々人を注視していたが、彼の静止の声が掛かるよりも前に、那々人が初春の胸ぐらを掴み上げて自身の方へと引き寄せる。

 大会前の乱闘騒ぎは出場資格の剥奪すら危惧される行為であるが、音々野々や間宮、御来屋が壁になっていたらしく大人たちは彼らのぶつかり合いに気が付かない。



「俺はお前よりも上だ! 実力も立場も、何もかも! 誰が見たってそう言うだろう、俺の方が優れていると!」

「初春部長、コーチが呼んでますよ」



 次の言葉を叫ぼうとした瞬間、彼の後ろからまた一人誰かがやって来てそう声を掛けた。

 初春に掴みかかっている那々人よりも、隣にいた御来屋よりも、その場にいた誰よりも高い場所から皆を見下ろしている。

身長にして百九十はあるだろうか。正面に立つと威圧感で一歩後退ってしまいそうなほどの存在感に、音々野々がぐっと息を詰めた。

 緊迫した雰囲気を全く感じていない様子で、その男は那々人の服の裾をちょいと引く。



「戻りましょう。開会式のリハもあるみたいですから、もうスタンバイしないと」

「……分かった。ありがとう、澪」



那々人が初春から手を離しながら、長身の彼に言われるがままくるりと背を向ける。

続いて御来屋も同じように踵を返して、最後ひらひらと笑顔で手を振ってから神々廻の生徒たちが集合している場所へと戻っていった。

最後に一人だけ残った彼の、月光の如く輝く金髪がふわりと揺れる。



「鬼では勝てませんよ。ぼくらは神様なので」



 何の脈絡もなくそれだけ言った後、軽く会釈だけして颯爽と初春らから離れていく。

 遠ざかっていく彼の背中にも、那々人たちと同じように金色の刺繍が入っており、神々廻の生徒だという事が一目で分かる。

やがて完全に彼らの姿が見えなくなってから、音々野々がそっと間宮の方に寄って声を掛けた。



「すげーでかい不思議ちゃんだったな」

「あれを不思議ちゃんの一言で片づけるお前の懐の深さを尊敬するよ」

「神々廻って変わった人多いな。初春部長の弟もヒスってたし、お前の従兄も何考えてんだか分かんなくて怖いし」

「天才っていうのはどっか螺子外れてるんじゃないの」

「それだ」



 音々野々と間宮の会話を聞きながら、明日葉はそこに入ろうとはせずじっと初春の様子を窺っていた。

那々人が向かっていった方向を見つめたまま動かない彼に、小さくため息を吐く。


 初春はあまり家の事は語りたがらなかった。それは明日葉も同じなので、深く聞いたりはせず今まで何となく触れずに遠ざけてきた。二年前の高文連で同じ空間にはいたが、直接話をしていない。

 この場に柊がいれば、無理やりにでも聞き出してすっきりできただろうが、今は志貴と一緒に自分の締め太鼓のメンテナンスをしに行っている。

 モヤモヤとした感情を抱える事しか出来ない自分が不甲斐なくて、俯いて歯を食いしばった瞬間、初春がポンとその頭に手を置いて笑った。



「大会前にみっともない所を見せてすまなかったな。あいつも悪い奴じゃないんだ。気にしないでくれ」

「瑛人」

「大丈夫だ。モチベーションには何の影響もない。お前も気遣い過ぎるな」



 くしゃりと明日葉の銀髪を撫でた後、初春は表情を努めて明るくしながら周りにいた部員に開会式に参加するよう指示をし始める。

 数年ぶりに再会する家族に愚兄と罵られて拒絶される気持ちはどのようなものなのだろうか。

大人びた笑顔の裏に隠された本心を、明日葉には暴く事が出来なかった。



「驚き惑う鬼どもを ひとり残さず斬り殺し 酒顛童子の首をとり めでたく都に帰りけり」


 開会式会場に多くの生徒たちが集まり出し、ホール内は雑音で溢れかえっていた。

 もうすぐ始まる高文連の舞台に心を躍らせる者もいれば、緊張からか強張った顔つきをしている者もいる。


それぞれがこの限られた一瞬に全てを発揮する為に何百時間も練習してきたのだ。

 間もなく入場制限がかかる時間だというのに、神々廻の制服を着た一人の青年は何かの歌を口ずさみながら、秋の香りが漂う屋外を闊歩していた。

 もう観客すらいない静かな歩道で美しい金色が右へ左へ揺れている。


 彼こそが神々廻高校和太鼓部、唯一の一年生選抜メンバー。鳳澪であった。


「神様はぼくだ」



「大人げなかったんじゃない? 那々人。あのタイミングで澪が迎えに来てくれなかったら厳重注意ものだよ」

「分かっている」

「君は和太鼓界隈じゃ有名なんだから、あまり取り乱さないよう気を付けないと。オーディエンスにあんな姿見られたらどうするんだい。神々廻の看板を汚すような真似は」

「分かってるよそれくらい!」



 前回優勝校の部長副部長として開会式で優勝旗の返還をしなければならなかったため、那々人と御来屋は揃って舞台裏にスタンバイしていた。

まだ本番が始まっていないとはいえ、多くのスタッフたちが歩き回るその場所で、突然声を荒げた那々人に、御来屋が目を丸くする。


 兄が絡むと彼はいつもこうだった。

 普段は神々廻の部長として涼しい顔をし、何事も完璧にこなす絶対君主である那々人がこうも取り乱すのは非常に珍しいが、その要因はいつだって初春瑛人だった。

 シンと辺りが静まり返るのを居心地悪そうに御来屋が待ち、やがて声を潜めて苦言を呈した。



「僕に当たらないでくれる?」

「……どうにもいかんな。あいつの事となると腸が煮え繰り返って仕方ない」

「本当だよ。開会式前に八つ当たりされた棗くん超可哀想。謝って」

「悪かった。すまない」



 御来屋に言われるがまま那々人がしゅんと肩を落として小さな声で謝罪の言葉を口にする。

 元来厳しい男であるが、何かに対して理不尽に怒るようなタイプではなかっただけに、先程のような激昂は御来屋にとってもあまり慣れていないものだった。

 優勝旗を握りしめる那々人の手に力が籠っているのを見て、御来屋がそっと自分の手を重ねる。


 パッと上がった那々人の表情は、彼らしくない何かに縋る様な不安を帯びたものであり、その先の御来屋の言葉を心から待っているような印象だった。



「切り替えろ、那々人。君は神々廻の心臓だ」



 優勝旗から那々人の頬へと手を動かし、御来屋がその目元を拭うように親指を添える。涙は流れていないのに、彼はそう優しく触れた。

 ふわりと微笑みを浮かべると、那々人の表情もだんだんといつもの色を取り戻していく。



「正しく、強く、誇り高く鼓動しなさい」



 暗示にも聞こえる御来屋の言葉は、かつて間宮を手酷く縛り付けた。

 けれど必ずしも彼の声が誰かを傷付けたり苦しめたりするわけではない。

必要な人に必要なだけ注がれる信頼と命令は、時に燃料として良い方向に作用する。

 今、那々人が御来屋の命令に笑顔を返したように。



「うん、良い顔になったね」



 御来屋がそう満足げに呟いた後、開始直前のベルがホールに鳴り響き、スポットライトが舞台上を照らした。



***



「大変お待たせ致しました。伝統芸能部門の午後の部を開始致します。観覧されるお客様はお席にお着き下さい。間もなく午後の部を開始致します」



 ビーとベルが鳴り、エントランスやロビーにいた人たちがぞろぞろとホール内に入ってくる。

 百鬼総合は既に観客席の後ろの方に着席しており、これから始まる神々廻の演奏を見るべく待機していた。まだ衣装は着ておらず、高校Tシャツのままだ。



「神々廻っぽいよね、祓詞は。学校は嫌いだけど曲は好き。鈴の音が綺麗だし」

「自分で叩けと言われれば少し遠慮したい程の難易度ですが、観客として聴く分には他の追随を許さないほど素晴らしい曲だと思います」

「まぁ俺は爛華の方がずーっと好きだけど」



 子供のように両手を広げてにっこりと笑う寿屋に、志貴が穏やかに笑みを返した。


 神々廻が大会用に選曲した祓詞は、百鬼総合の爛華と同じく各パートのソロがあり、かつ全体のアンサンブルも組み込まれた、伝統芸能の演奏曲では最高峰といわれる曲の一つだ。

 さらに笛や鈴という鳴り物楽器も使われ、ここに要求されるスキルも多い。


 神様の前にいるに相応しい穢れなどを祓った清らかな状態になるために、祓詞という祝詞を奏上し穢れや罪を祓う。

そのイメージで演奏されるこの曲は、最初の一打から最後の一音までが繊細であり、恐ろしい程に神聖だった。


 ホールの照明が落とされ、それまでざわついていた会場が一斉に静まり返る。

 その静寂を切り裂くように響き渡ったのは、たった一人が奏でる笛の音だった。



「……やっぱ上手いなぁ、鳳」



 千五百人の心を一瞬で惹きつけ、自身の世界へと引きずり込んだ鳳の音が一瞬止んだ瞬間、寿屋が小さくそう憎々しげに感嘆の声を漏らした。

 先ほどふらりと現れ、自分を神様だと宣言していった彼が、しばらくセンターで音を奏で続ける。金色がセンタースポットを浴びてキラキラと輝く度に、観客からため息が漏れた。


 その後、那々人の一打により再びホール内は震撼する。

 緻密に練られた曲構成。そしてそれに呼応するように磨き上げられた個人のスキル。どれをとっても、神々廻の演奏は圧倒的だった。

 御来屋の締め太鼓が超絶技巧で魅せたと思えば、すぐに那々人たち長胴の力強い一打に耳と目を奪われる。

 八分三十秒に及ぶその曲が終了した時には、割れんばかりの拍手が神々廻に注がれた。


 

「お疲れ様、二人とも」


 見に来ていた部員の家族やOBへの挨拶も終わり、大会衣装のまま那々人らが着替え場所に向かっている最中、不意に声を掛けられた。

那々人と御来屋、そして共に歩いていた鳳が足を止め、正面に立っている彼をじっと見つめる。

 その人物が誰か理解していない鳳はぼんやりと眠そうな瞳で眺めていたが、彼が自分たちの先輩にあたる世良拠千代と分かっている二人は、それぞれ驚きの色を浮かべた。


そのまま降ろしていれば目にかかってしまいそうなほどの長い前髪をヘアワックスで無造作にセットした世良が、三人が自分へ目を向けたことに気が付いた瞬間、口元を緩ませるだけの控えめな笑顔を浮かべる。

 一瞬嫌な沈黙が流れたが、すぐに御来屋が両手を広げてリアクションをしながら満開の笑顔で世良に話しかけた。



「世良さんじゃないですか。応援に来てくれたんですね。嬉しいなぁ、どうでした? 僕たちの祓詞」

「素晴らしかったよ。ここ数年で随分レベルアップしたみたいだね」

「えぇ勿論。年々評価基準も高くなりますし、求められるレベルも上がってきますから」



 そこで御来屋が不自然に言葉を止め、自分よりほんの少しだけ小さな世良にぐいと近寄り、顔面をほぼゼロ距離まで持っていった後に不敵な笑みを浮かべた。

 先ほどまで浮かべていた表面を綺麗に飾った作り笑いではなく、本心から愉快で仕方ないというあからさまな嘲笑。



「貴方の代より上手かったでしょう?」



 敬意のひとかけらすら感じられない態度で世良と相対する御来屋の後ろで、那々人は同じ種類の小さな笑みを浮かべ、鳳は無感情に黙って立っている。

 普通の卒業生であれば、在校生に無礼な振舞いをされたと顧問に怒鳴り散らしてもいいところだ。

良い意味で自己評価が低く誰に対しても謙虚で控えめな世良だからこそ、初めて彼らに声を掛けた時と同じように笑みを浮かべていられるのだろう。

そんな世良は声を上げて笑い、手をそっと顎の下に添えた。



「返す言葉も無いな。君の言う通りだよ、今の神々廻は俺がいた時よりもずっと上手い。個々の技術がきちんとあって、それが綺麗に重なり合ってる。まさに神業だ」



 さらりとそう感想を述べ、世良はまた笑う。大人な対応を見せているようにも見えるが、何かが不自然だった。

あまりにも綺麗すぎると言えばいいのか、もしくは完璧に出来過ぎているといえばいいのか。那々人たちには上手く表現できず口を閉じたまま何も出来ない。

すると世良は、さらに畳みかけるようにゆっくりと目を閉じ、自分に軽口を叩いた御来屋ではなく、ずっと彼の後ろで毅然と構えていた那々人と目を合わせる。



「でも君たちは百鬼総合には勝てない」



 柔らかな微笑みとは正反対の、鋭い刃の如き言葉を那々人に突き付ける。

 その瞬間に那々人の全身がびくりと小さく一度震え、だんだんと額に青筋が立っていく。

開会式前に初春と衝突した時よりも点火は遅かったが、確実に彼の導火線には火が灯っていた。



「……今、何と仰いましたか」

「もう少し分かりやすく言おうか。君が嫉妬と羨望を抱いて嫌っている瑛人に勝つことは出来ない。それから、そっちの白い君が手塩にかけて育てた九十九に神々廻は負けるんだ。勿論彼ら二人だけの力ではないけどね」

「この俺が、愚兄に負けると」

「うん。少なくとも俺はそう思ってる」



 世良がさも当然といった様子でさらりと答えた瞬間、那々人が傍にいる人間にはっきり聞こえるほど強く歯を食いしばって息を吸い込んだ。空気が一瞬で変わる。


 百鬼総合の勝利を信じて疑わず、かつての在籍高校の現役生に応援の言葉は一つしかかけない世良も随分な性格をしているが、なかなかどうして那々人の沸点も低かった。

 短い導火線を焼き尽くした火がその中枢に触れそうになった時、それまで傍観者として一言も話さずにいた鳳が、口汚く世良を罵ろうと大きく息を吸い込んだ那々人の口元を後ろからふわりと両手で覆い、そのまま自分の方へと抱き寄せる。



「だめ、初春部長」



 予想もしなかった人物の乱入に、那々人を含めた三人とも目を丸くする。

 周りの人間たちが驚きはらっていることを知ってか知らずか、鳳は咎めるように体を折り曲げて那々人と目を合わせる。

後ろから抱き留められながら見上げた先に人の顔がある恐怖を鳳は知らない。



「誰かを傷付けちゃいけません。神様ならどんな罪も赦してあげないと」

「……澪」

「神々廻が負けるなんていう空想を宣う愚かな男を赦しましょう。ぼくらは神様ですから」



 鳳澪は変わっていた。

 那々人や御来屋を神格化し、自らの所属する神々廻を崇拝してやまない。

それが異常だと皆理解はしていたけれど、実力トップの二人が何も言わずに彼の言動を看過している為に同じように見て見ぬ振りをしている。



「行きましょう。みんなが部長を待っています」



 そのまま那々人の背中をぐいぐいと押し、世良の横を無理やり通り過ぎ始める鳳。

随分なハイペースで強制的に前へ歩かされている那々人の後を追うように御来屋もタッと駆け出した。


 近付いてきた神々廻の三人と世良が丁度重なる時、鳳がくるりと首を横に向けて真っ直ぐに世良を見つめた。

 心からの憐れみを含んだ鳳の瞳に、世良が息を止める。



「可哀そうな人。きっとあなたは鬼と一緒に地獄に落ちてしまいます」



 彼の言葉の一つ一つに悪意はなく、そのことが逆に不気味さを増幅させていた。



 それまでしゃんと背筋を伸ばしていた世良が、那々人たちの姿が見えなくなった瞬間に、くしゃりと体を折り曲げてその場にしゃがみ込んだ。

 その後ろからスタスタと耳心地の良いスニーカーを踏み鳴らす音が聞こえ、視線だけをそちらに動かす。

しかし特に立ち上がったり姿勢を正すことはなく、世良は変わらず自身の膝に額を置いていた。


「最近の高校生こわ……」

「白熱したな。あと少しでかい一年の静止が遅ければ俺が飛び出していたところだ」

「晴彦さんのお手を煩わせずに済んでよかったです。あぁ、本当なんなんだよ、俺だって卒業生だぞ」

「はっはっは! お前にしては珍しく威厳のある物言いだったじゃないか」

「それでもあのリアクション……」



 落ち込み続ける世良の背中を後から現れた十條が、バシンと廊下の端まで届くのではないかという程の爆音とともに叩き、世良の背筋を強制的に伸ばさせる。



「俺たちの役目はもう演目の終了した神々廻への牽制などではない。今を駆ける百鬼総合への激励だ。行くぞ」



 そう言いながらぱぁと花が咲くように十條が笑った後、世良も小さく鼻をすすって表情を切り替える。

それはもう神々廻OBの世良拠千代ではなく、祭工房演奏者の顔だった。



 足袋でフローリングの床を歩くときは大抵布が擦れる小さな音しかしないものなのだが、那々人の一歩一歩ははっきりとその歩幅が分かるくらい強く踏み鳴らされてた。

 形ばかりのミーティングで心にもない労いの言葉をかけた後、彼は開会式前のように落ち着いてくれと声を掛けた御来屋の手を振り払い、こうして一人衣装にパーカーを羽織っただけの格好でホールを闊歩していた。


 行き場のない感情の処理方法を必死で探しているようであったが、浮かんでいる陰鬱気で苛立った表情からはとても解決の兆しは見えない。

 やがて高文連では使用されない会議室などがあるエリアまでたどり着いた時に、那々人は倒れ込むようにすぐ傍にあったソファに腰を降ろした。

 そのまま覆うように顔の前で手を組み、体を丸めて深呼吸を繰り返す。


「……すばる」


 那々人以外誰もいないフロアに、かつての友人の名前がぽつりと落ちていった。



***



 産声を上げた瞬間から、自身の隣には兄がいた。


 朝起きた時から夜寝るまで常に瑛人がおり、保育園や小学校でも、クラスが分かれてしまう授業以外では一緒に行動をしていた。文字通り彼らは四六時中同じ時を過ごしていたのだ。


 一卵性の双子。

一見二人は鏡合わせのように見えるが、彼らの中身は全く異なるものであった。



「那々人。今日はクラスの奴らとサッカーするから一緒に帰れないって言ったでしょ」

「じゃあ俺も一緒にする」

「でもそうすると人数ズレちゃうし、今日は駄目だ。先に帰ってて」



 片割れである瑛人と同じ行動をすることは当然であり、そうすることが普通だという思い込みを小学校に入学してからも続けている那々人に対し、一気に広がった世界に上手に適応して多くの友人に囲まれた瑛人。

 俯瞰して彼らを見た人が口をそろえて言うのは、「那々人の面倒をみないといけない兄の瑛人は可哀想だ」というものだった。


 なぜ兄が可哀想と言われるのかが、どうしても那々人には理解できなかった。

小学校に入学した瞬間に一気に変わり始めた世界は、あまりにも残酷に、甘えん坊だった初春那々人を冷たく凍った場所へ突き落したのである。


 しかしある日、夏の香りと共にやって来た少年が、そんな彼ににこりと笑いかけた。



「お前、めっちゃ字綺麗なんだな!」



 日直の仕事として、宿題の漢字書き取りプリントを回収しながら、ふとそんな事を大声で口にしたクラスメイトこそが、那々人の小学校時代の友人であり、瑛人を拒絶して神々廻に入学することを決意させたきっかけと呼べる存在だった。


 年相応のあどけない顔の造形に、まだ初夏だというのにうっすらを小麦色に焼けた健康的な体。

瑛人の後を追う事も出来なくなって家で勉学に逃げている那々人とは対照的な人物だった。

 那々人のプリントをまじまじと見ながら瞳を輝かせる彼の胸の名札には、お世辞にも上手とは言えない文字で「寒鳥すばる」と明記してある。



「なぁなぁ、俺の名札書き直してくんない?

これ! 下手過ぎって先生に怒られたばっかなんだよ。でも俺字下手だしさ」

「別にいいけど、そんなに前から困ってるんだったら親に書いてもらえば良かったじゃん」



 じとっと那々人が未記入の名札と名前ペンを差し出す寒鳥を見上げながら、嫌味を口にすると、彼は一瞬目を丸くした後に、また先程と同じような快活な笑みを浮かべてこう言った。



「うちは婆ちゃんしかいないからさ。頼んでみたけど超か細い字になって、多分先生にバレちゃうなって」



 あまりにも普通に言うものだから、聞いてしまった罪悪感を感じる間も無かった。

 寒鳥すばるは、小学五年生の夏に彼のクラスへ転校してきた。

当時は家庭の事情でという説明であったが、地元で両親が離婚し、母親に引き取られたのは良いものの、その後どうしても元旦那の事を諦めきれなかった母親が彼の元へ行ったきりそのまま蒸発。

その後、母方の両親の元へ引き取られる関係で転校を余儀なくされたらしい。



「だから頼むよ初春! お願い!」

「那々人」



 パンと両手を勢いよく合わせて頭を下げた寒鳥に、肯定するでも否定するでもなく、那々人が自分の名前だけを口にした。

 彼の意図が分からず、寒鳥が「へ?」と素っ頓狂な声とともに顔を上げて、座ったまま名前ペンのキャップを取る那々人を見つめた。



「同じ学年に初春は二人いるから。俺の方は那々人」



 そう言いながら彼はさらさらと名札にフルネームを書き、ずいと寒鳥の眼前へと突きつける。

かなりの速さで書かれたものだというのに、非常に丁寧で読みやすい。少し前まで彼の胸に鎮座していたそれとは比べ物にならない程のレベルだった。

 那々人直筆の名札を目を輝かせながら受け取り、寒鳥が心から嬉しそうに口元を緩ませる。



「ありがとう! すっげー! 皆見てこれ俺の名札! 那々人に書いてもらったやつ!」

「ちょっと、止めろって。別にそんなの大したことないし」


 瑛人に比べたら。

 いつもの言い訳じみた枕詞を言いかけた時には、既に彼の周りには多くの学友たちが集まっており、わいわいと寒鳥が手にしているプリントや名札を見て歓声を上げている。

 寒鳥は最近転校してきたにもかかわらず、明るく天真爛漫な性格ですぐにクラスに溶け込んでいた。



「すごーい! 本当だ! 那々人くん字上手~」

「いいな、俺のも書いて!」

「だーめ。俺が特別」


 那々人としては名札くらい何枚書いても同じであるし、大した労力ではないのでやぶさかではないのだが、差し出される名札たちを寒鳥が次々と押し返していく。

 最初は小学生特有のふざけ合いのようなものだったが、なぜか寒鳥が頑として那々人を譲らなかったのが気に食わなかったのか、一人の男子生徒が癇癪を起こして那々人の机をバン!と大きな音を立てて殴った。


 突然の轟音に近くにいた女子生徒たちは小さな悲鳴を上げて身を縮こませてしまう。

 波紋一つ無い水面のように静まり返ってしまった教室内をしばらく沈黙が支配し、やがてその叩いた男子生徒が無理をしているような声でこう言ったのだ。



「いいよ、じゃあ瑛人に書いてもらうから。あいつの方が上手いし」



 きっとそれはただの強がりだったのだろう。

本心から思っていたのなら最初から那々人には頼まなかっただろうし、会話にも入らなかったはずだ。

彼がそう言ったのは、自分の思い通りにならない苛立ちや反抗心を表すため。


 しかし、その言葉は那々人に深く突き刺さって、心臓の奥深くを抉り取っていった。

 そんな事自分が一番よく分かっている。でも、今褒められたのは、認められたのは、確かに自分だったはずなのに。

 どこまでいっても拭えない、自分にまとわりついている初春瑛人の影。



「瑛人って誰?」

「隣のクラスにいる那々人くんの双子のもう一人だよ」



 寒鳥が近くに立っていた女子生徒に瑛人という存在について質問するのを見る限り、彼はまだ瑛人と関わったことが無いようだった。



「那々人くんと比べたら瑛人くんの方が優しくて楽しいし、字も綺麗なのかもしれないんだけど、あんな言い方しなくてもいいかなって……」

「ふーん。でも関係ないかな。俺は那々人の字が好きなんだから。だから俺だけのものにしたい。そいつと比べてとかじゃなくて、俺は那々人が好きなの」



 自分の頭に手を置きながら微笑む寒鳥をじっと見つめながら、思わず呼吸をするのを忘れてしまう。あまりにも屈託なく、眩しく、自分を照らすものだから。



「俺の一番は那々人だもん。それで良いじゃん」



 寒鳥すばるは、初めて那々人を一個人として真っすぐに好きになってくれた人間だった。



 だからこそ、彼の事故は那々人の中で大きな傷になったのだろう。



「瑛人だったら、こうならなかったかなぁ」



 病室で真っ白の天井を虚ろな瞳で見上げながら、寒鳥はそう小さく呟いた。


 四六時中絶えず繋がれている点滴や、彼の脚の辺りをぐるぐると頑丈に覆うギプス。けれどその下にはもう脚と呼べるものは無く、修復中の付け根があるだけだ。

 冬の冷たい風が吹き込んでいるというのに窓は空いたままで、それを背に那々人はただじっと自身の両膝の上で手を握りしめて黙り込んでいる。


 下校中に遭った不幸な事故のせいで、寒鳥は両足を切断せざるを終えない状態になってしまった。

大型トラックが運転中にスマホを操作していた為に前方不注意になり、青信号の横断歩道を歩行していた彼を跳ね飛ばしたのである。


 そして偶然にもその場に居合わせた那々人は、まだ未熟な小学生の身体が青空に舞う場面を目撃することとなった。

直前まで自分の前を楽しげに歩いていた友人の脚と腕が、一瞬であらぬ方向に向いて弾け飛ぶ様を。



「……分からない」

「そうだよな、ごめん。でもやっぱ思っちゃうよ」



 仰向けに寝転んだままの寒鳥が顔だけを動かして那々人の方を見つめる。

もうその瞳に、かつて彼が惹かれたあたたかな色はどこにもなかった。



「あの時もしも一緒にいたのが那々人じゃなかったら、俺の脚は無くならなかったんじゃないかなって」



 悲惨な交通事故だった。しかしながら脚部切断まで及ぶほどのものかと言われれば断言できない。

あと数分通報が早ければ、運転手が動転して事故現場から逃走しなければ、誰か他に通行人がいて救急隊を呼んでいれば、もしかしたら彼の脚は今もそこに存在したかもしれない。


 寒鳥が撥ねられてから約四十分もの間、唯一助けを呼べる存在だった那々人は人っ子一人いない道路の真ん中で、ただ茫然と倒れた彼の横に腰を抜かして、その様子を眺めていたのだ。

 あと少し搬送が早く出来ていれば。医師が残念そうに看護師にそう言っていたのを、二人とも知っている。



「なぁ、俺、ほんと最悪だから、お前に対して今は最低な事しか言えない。見舞いありがとうなんて思えないよ」

「……ごめん、すばる。ごめんなさい」

「瑛人だったらすぐ通報してくれたよな、きっと。あいつ行動力あるし、しっかり者だし。お前みたいに何十分も放置しなかったよな」



 まだ動かないはずの手を無理やりに伸ばして、寒鳥は那々人に触れようとする。



「返して、俺の脚」



 そう懇願された瞬間、大事な友人の未来や可能性を奪った罪悪感が、常に比較され続ける瑛人への憎悪に転換した。

 そうでもしないと幼い彼の精神は壊れてしまっていただろう。自己防衛本能が責任転換を選んだ。ただそれだけの事だ。


 自分が何も出来ないのは兄である瑛人が常に傍にいたからだ。

彼が自身の可能性を縮小させ、使えない初春那々人を作り出した。彼のせいで自分はこうなった。彼のせいで寒鳥は脚を失った。

 そんな憎き男より自分が劣っているはずがない。いいや、むしろ彼より優れていなければならない。

その為に自分が兄よりも優れていると証明しなければ。彼より上だと誇示しなければ。


 この溺れてしまいそうなくらい深い冬の海から、抜け出すことは出来ない。



***



「那々人は本当に優れたプレイヤーだ。太鼓だけじゃなくその他のことにも一切手を抜かずにたくさん努力をしてる。それは俺を嫌っているからこそ出来る事だ」

「でもそれで幸せになるのは誰?」



 演奏時間が差し迫る中、百鬼総合の生徒たちは割り当てられた更衣室で衣装に着替えていた。

 独り言のように小さく初春が呟いた一言を聞き逃すことなく、鮮やかな黄色の紐の両端を引っ張って皺を伸ばしながら明日葉が問いかける。



「瑛人はずっと弟に嫌われてて、あいつは瑛人を嫌い続けて、それって正しいの?」



 今朝食べたものは何だったかを答えるかのように、特別強い感情を抱かずに明日葉は淡々と衣装に袖を通しながら言葉を続けた。



「少なくとも俺はそんな気持ちで太鼓叩いてる奴には負けないし、俺の好きな世界を邪魔するなら全力で追い出す」



 明日葉秋介は百鬼総合の誰よりも太鼓が好きだった。

 だからこそ彼の言葉はずっと自身の隣に三年間立ち続けた初春に深く刺さり、じわじわとずっと蓋をしていた陰鬱で後ろめたい後悔の感情を溶かしていく。


 本来であれば調子づいた明日葉が快活なエールで場を明るく変えるのだが、今日は違った。

 公演前にはしゃぎすぎて上手と下手のスタンバイ場所を間違えたり、違う人の法被を抱えて飛び出したりする彼からは想像もできない程に落ち着き払っていた。



「瑛人に出来るのは、寛容に受け入れて放置することじゃなくて、玉砕覚悟であいつに現実見せてやることなんじゃないの。だから今日きっちり神々廻に勝って目覚まさせてやろうぜ」



 明日葉の答えに対して何も言葉にすることなく、ただ肯定の意を含んで初春がふわりと笑った。

先程までその表情は仄暗い色を宿していたが、今はその影はどこにもない。


 那々人よりも傷は浅いとはいえ、寒鳥の事故の事は多少初春の中でも尾を引いている。

思い出せば出すほど、ああしていれば良かったこうしていれば良かったと、取り留めもない悔いが顔を出してその歩みを止めてしまう。


 それでも今日この日まで辿り着けたのは、今も隣で朗らかに光照らしてくれる明日葉や、苦しくて諦めてしまいたいと膝を折った時に強制的に立ち上がらせてくる柊がいたから。

 自分を支え続けてくれた友人たちが揃って立てる最後の舞台を、自分の後悔で台無しにしたくない。

いくら自身の行動を呪い悔やんでも時間は戻らないのなら、大きく息を吸い込んで前に進むしかないのだ。

 百鬼総合という刺繍が美しく光る半纏に、ふわりと舞うように初春が袖を通す。



「後悔の無いラストステージにしないとな」



 色とりどりの帯を身に着けた部員たちが整列すると、一気に場が華やかになった。

 黒ベースの衣装だからこそ帯がよく映える。この百鬼総合公式衣装を祭工房の団長がデザインしたのはもう随分前の事らしいが、業者製の衣装を使用している他の団体と比較しても遜色ない。


 前列に出演メンバーが、そして後列にその他の生徒が並んで、正面に立つ十條と世良の言葉を待っていた。

 一瞬誰から喋るんだろうという謎の沈黙が流れたが、十條が世良の背中を軽く叩いて何か激励の言葉をかけるように促す。

すっかり十條の後に一言程度応援の言葉をかけるだけのつもりだった世良の「えっ」と裏返った情けない声に、刻一刻と出演順が迫り緊張ムードだった初春らの雰囲気が少し和らいだ。


迷った様子ではあったが、すぐに自分たちに残された時間の短さに気が付き、きゅっと唇を噛みしめて正面に立つ生徒たちと目を合わせる。

何かを言い淀んでいる暇は無いのだ。もう間もなく、彼らは光り輝くスポットライトの下に立つことになる。

これから始まる舞台の為に、彼らは何十時間も練習し、何百回も同じ曲を叩いたのだ。



「楽しく遊んできて下さい」



 至って真面目に、世良はそれだけを口にした。

 頑張れ、応援しているという言葉を予想していた生徒たちが目を丸くしたり、小さく息を飲んだりとそれぞれ驚きの色を見せる中、ただ一人十條だけがニィと口角を吊り上げて笑いを我慢している様子だった。



「勝つとか負けるとか、点数とか評価とか、そういうものは最後についてくるおまけですから。だから今はめいっぱい、あぁ今日は楽しかったなって思えるように叩いてきてくださいね」



 最後に小さく彼らしい儚い笑顔を浮かべて世良は十條へバトンタッチをした。

 そうして続きを託された十條が一歩前に出て、両腕を腰に当てて胸を張る。そうするとただでさえ大柄な彼がさらに大きく感じられた。

その人が自分たちの背中を守ってくれるのだという安心感は底知れない。

 にかっと快活な笑顔と共に、十條は言葉だけで初春たち出演メンバーの背中を押した。



「絢爛豪華であれ、百鬼総合。盛大に高文連の舞台を荒らして来るといい」




「音々野々」



 十條たちの挨拶が終わり、百鬼総合の出番まで残り二組にまで迫った時、不意に明日葉が声を掛けた。

もう皆準備は完全に済んでおり、各々最後のストレッチや平静を取り戻すために深呼吸をしている状況だったので、彼の声は小さかったが問題なく音々野々に届いた。


 声のした方にくるりと振り返り、大会前の高揚感にすっかり心酔したような熱のこもった瞳で音々野々が明日葉を見つめる。

 明日葉がほんの少し何かを言い淀むような反応を見せた後、小さく息を吸い込んでから口を開く。



「この高文連が俺にとって人生最後の舞台だ。良く目に焼き付けとけよ」

「……え?」



 先ほどまで彼の瞳に宿っていた熱は一瞬で消え去り、今はただ真っ黒な冷たさしかない。

 表情一つ変えずそう言った明日葉の真意が掴み切れずに、浮かんだ感情そのまま、音々野々が一音だけ返す。

 明日葉にはその反応が予想できていたのだろう。明るく無邪気な音々野々らしからぬリアクションも、ふわりとした穏やかな笑みで受け流す。



「俺は今日で和太鼓を辞める」



 くだらない冗談なら、こんな大会前という土壇場で口にするものではなかった。

つまらない嘘なら、彼を誰より慕う音々野々にだけは言うべきではなかった。

 けれど明日葉が彼にそう伝えたのは、そのどちらにも当てはまらないからだった。



「冗談でしょ。引退公演は、全国大会はどうするんすか」

「後任はもう先生とか瑛人たちに相談して決めてる。今後輩で知ってるのはお前だけだから、まだ他の奴らには内緒だぞ」



 まるで世界から二人だけが切り取られたかのような感覚がしていた。

足元から瓦解していくような、そんな絶望と名付けてもいい程の衝撃が音々野々に走る。

 自分を正面から射抜かんばかりに見つめながら、今にも泣きだしそうになっている音々野々の顔を直視することが出来なくなり、ふいと明日葉が視線を逸らした。

 その一瞬の後、縋り付くように、けれどどうか今の言葉を否定してくれと脅しをかけるように、音々野々が一気に距離を詰めて明日葉の胸ぐらを掴んだ。



「俺は明日葉さんに憧れて和太鼓始めたのに、こんなに早くあんたがいない舞台に立てっていうんですか」



 掠れて儚くて、今にも消えてしまいそうな心だった。



「一度もちゃんとあんたの隣で叩いてないのに、何でそんな事言うんですか」



 一年生から太鼓を始めた音々野々と、三年間百鬼総合のエース演奏者として第一線を走り続けた明日葉。

彼らの実力差は広く、共に過ごした時間も寿屋や志貴より一年短い。だからこそ最短で追いつかなければ彼の背中は遥か遠くに行ってしまう。その焦燥感はずっとあっただろう。


けれど、その終わりがこんなにも呆気なく早いものだとは予想だにしなかった。

 舞台はこれからだ。まだ早い、まだその時じゃないと分かっているのに、音々野々が浮かべる寂寥の表情に、ぐっと目頭が熱くなってしまう。



「明日葉さんの最後の舞台に、俺は立たせてもらえない」



 その言葉と共に音々野々から溢れた大粒の涙に、それまで努めて平静を装っていた明日葉がくしゃりと顔を歪めた。



***



 与えられた時間は、長い人生のうちたったの三年間だった。


 猶予をそう定めたのも、ここまでと線引きをしたのも、紛れもなく自分自身である。

百鬼総合和太鼓部員でいるのは三年間だけと誰かから強要されたわけではない。


 両親は元々仕事の関係でイギリスに住居を置いている。だがどうしても高校の間だけはと明日葉が懇願して、今は母方の祖母の家から百鬼総合へ通っていた。

 高校卒業後は海外で語学を勉強したい。それが明日葉秋介の夢だった。



「高文連が終わったら、俺は留学の準備を本気で始めたい」



 本来であれば定期公演で他の三年生と同じように引退という予定であった。

けれど急遽予定が繰り上げになり、その最期が秋になってしまったのだ。



「立派だな、秋介は。俺は海外留学なんて考えたこともなかったし、その選択が出来るお前は本当に凄いよ」

「それが夢なんだから仕方ねえだろ。それに、お前は周りの奴らが行くなって引き留めたら飛ぶのやめんのか」



 九月上旬に定期公演まで共に過ごす予定だった三年生たちに事実を伝えた時の反応は、思っていたよりも穏やかなものだった。

柊辺りはもっと合宿中初春に掴みかかったくらい怒るのかと予想していただけに、涼しい顔をして相槌を打ってくれるのが意外で、明日葉の方が面食らってしまう。

 初春はいつもの微笑を浮かべてはいるが眉が下がっており、柊も上手に今胸にある感情を言葉に出来ない様子で、終始明日葉と目を合わせないようにしている。

二人とも彼の負担にならないように努めてはいるが、同じ目標を目指して走ってきた友人が海外に行ってしまうという現実をまだ前向きに受け入れられていないのだろう。



「寂しくなるな」



 ぽつりと小さく初春が呟いた一言が、今三人の胸にある一番大きな気持ちだった。

 卒業してしまえばこうして毎日顔を合わせることは無くなる。それぞれの場所で新しい生活が始まる。

けれど、それが国内かそうでないかでは大きく差があるだろう。


 日常に溶け込んだ当たり前の「おはよう」と「また明日」を繰り返して、そんな日々が未来永劫続くのではないかという錯覚を覚えて、彼らは貴重な青春を消費していく。

 誰も何も言えずにシンとなってしまった空気を、柊が大きなため息で切り替えた。



「まだ高文連も終わってねえし、明日の飛行機でいなくなるわけじゃねぇだろ。しんみりすんな」

「ふふ、そうだな。千鶴の言う通りだ」

「ほんっと厳しいよねぇ。まぁそれを待ってたんだけどさ」



 部活をしていたり自習室を利用していた生徒たちが皆帰った三年生教室棟に夕日が差し込む。

 こうして三人だけでゆっくり下校するのはとても久しぶりのような気がしていた。

いつもは部室から昇降口まで後輩たちと急ぎ足で駆けている彼らにとって、窓の外に目を向けることはとても稀なことであった。

 和太鼓部のユニフォームでも舞台用の公式衣装でもない、普通の男子高校生の制服を着こんだ彼らの世界が、オレンジ色に溶けていく。



「お前の選択は素敵だ」



 初春の大きな手が、明日葉の頭に置かれた。

 もしかしたら自分勝手だと罵られるかもしれない。

勝手な行動でせっかくの全国大会出場という最高の栄光を汚してしまうかもしれない。

自分の夢だけを追う独り善がりな姿を嫌悪して見捨てられてしまうかもしれない。


 三年間共にいた彼らに対して抱くべき感情ではないのかもしれないが、明日葉の中にはそんな臆病な不安がずっとあった。

 けれど今頭の上にあるぬくもりと、彼の背中をトンと押した手のひらが、巣食っていたマイナスの気持ちを一掃していく。



「一人の友人として誇らしいし、俺は心から応援する」

「お前なら別に平気だろ。何かあったら日本に俺らがいる。そんだけだ」



 真っすぐで素直な、かたや不器用で真剣なエールが明日葉の心に染み込んでいく。

 そんな彼らの想いに、明日葉は満開の笑顔で応えた。



***



「でも絶対に止まるな、音々野々」



 大きな瞳から溢れる涙を明日葉がぐいぐいと乱雑に拭った後、両頬をがっしり掴んで自身の眼前へと引き寄せる。

 突然の事でされるがままになってしまう音々野々が、目を大きく見開いて濁った視界に彼を正面から映す。

そこに映り込んだ自分と目を合わせて、明日葉は頬を掴む手に力を込めた。



「確かにお前は今日この舞台に立てなかった。俺と一緒に叩けなかった。でも、今日までずっと俺の背中を見続けてきただろ。公演とか練習で、ずっとずっと俺と一緒にいたじゃんか」



 高文連の舞台は十條に選ばれた本当の実力者しか立つことが出来なかった。

 しかし、その他の公演やイベントでの演奏では一年生から三年生まで混合になる曲も勿論あったし、音々野々は明日葉によく懐いていたため、個人練習は彼によく指導をお願いしていたので、共に過ごす時間はかなり長かった方だろう。


 今音々野々が後悔している通り、彼のラストステージには立つことが出来なかった。

 けれど、何十回とこなす舞台のうちたった一度だと割り切る事が出来れば、途端その他の時間が宝物のように輝きだす。

 未だに流れ続ける音々野々のぬるい涙が、明日葉の手に染み込んでいく。



「だから絶対止まるな。膝を折るな。泣くな。たとえ俺がいなくとも、お前は未来へ進み続ける義務がある」

「何でそんな厳しい事言うんですか。勝手にいなくなっちゃうのは明日葉さんのくせに、なんで」

「お前が俺に憧れたからに決まってんだろ!」



 理不尽にも程がある苛烈な回答だった。

 けれど明日葉はその追撃の手を一切緩めることなく、目の前の既にボロボロの音々野々へ言葉をかけ続ける。



「俺は俺を慕う後輩が好きだ。だから成長してほしい。もっと輝いてほしい。俺のせいでその足を止めたくない。俺に憧れたお前なら、今度は違う誰かの光になれる」



『あの日抱いた感動を、今度はお前が違う誰かに繋げ』



 入部するか否か迷っていた音々野々に明日葉がかけた言葉が、不意に彼の中でフラッシュバックする。


もしかしたらあの時には既に予想していたのかもしれない。

自分自身がいつか物理的に遠くに行ってしまうかもしれないという事を明日葉は気付いていて、己のスタイルや意思を、音々野々に託そうとしていたのかもしれない。

 予定より少し継承時間が短くなって最後が強引になってしまったが、それでも彼は大丈夫だと笑って背中を押すのだ。



「俺は百鬼総合の最高かつ最強の演奏者だからな。この称号を譲ってほしけりゃ、ペース上げて走って来な」



 最後にそれだけ付け加えて、明日葉がくるりと背中を向ける。

先程まで、その背中がずいぶん遠くに行ってしまったように感じていた。彼がいなければ叩く意味がない。そんな絶望すら感じていた。


 けれど今は違う。少し手を伸ばせば届く。その背を追うために走らなければ。叩き続けなければと思える。

明日葉秋介の存在が、一つの目標に変わっていた。



「あー! いた! 亜蘭くんどこ行ってたの! もう少しで始まるからホール入るよ。……って、どうしたの? その目と袋」

「めちゃくちゃ泣いた。あとこれは秘密」



 ホールに駆け込んできた音々野々に、酷く焦った様子の杜若が声を掛けた。

 もう間もなく百鬼総合の出番であり、他の生徒たちがすでに着席してその瞬間を今か今かと待ち構えているというのに、音々野々の姿がどこにもないということに気が付いた杜若が辺りを探し回っていたらしい。


 ようやく見つけた彼が赤く腫れた目で、大きな袋を両手に抱えていたことをスルーできず、そう質問してしまったが、音々野々が珍しく自分の事を語りたがらない素振りを見せたので、小さなため息と共に肩を落とすだけに留める。


「もう訳分かんないし、それ秘密にしては中身丸見えだけど黙っててあげる」

「さすがよよ。ありがとう愛してる」

「僕も。じゃあ早く行こう」



 バックヤードに控えめに響く車輪の音。

締め太鼓の台を遠慮がちに置いた時のコツンという小気味いい音。

バチがすり合わさるカラカラという耳馴染みのある音。

 そんな当たり前の音に溢れた、通常では立つ事の出来ない舞台。


 舞台袖から差し込むスポットライトの明かりが眩暈を覚えそうなくらいに眩しく、連鎖して心臓の鼓動がどんどんと速くなっていくのをしっかりと感じていた。

 広い舞台で演奏するのは初めてではない。観客数に緊張感を覚えているわけでもない。

ただ、自分たちの音が数値化されて評価されるという特異的なステージに怯えているのだ。


 二年前に同じ舞台に立った後、百鬼総合は大きく変わってしまった。

 偉大な絶対的主将の衝撃的な挫折。ほとんどの生徒のモチベーション低下による退部。遺された生徒たちの体力、精神双方への過負荷。

 今思い出しても二度と味わいたくない程の悲しみに溢れた過去を、真っ新に塗りつぶして綺麗に清算することはきっとできないだろう。

 けれど、ひとつの決着をつけることはできる。



「音々野々に言ってきたのか。辞めること」

「ケジメとしてね。それに、俺があいつだったら先に言われる方がずっと良い」



 光の漏れる舞台を黙って眺めていた明日葉に柊がそう問いかける。

 彼の質問に少しだけ肩を落としながら明日葉が答えると、それ以上は何も言わずにふいと視線を逸らして元々彼が見ていた場所を目で追う。


 初春と柊にとっては二度目の。そして、その他の生徒たちにとっては初めての公式舞台だ。

たった一度の演奏を基準としてそれを採点し、順位を付けて優秀な団体を表彰する。無慈悲な審査と個々の感性で揺らぐ結果。


万人を等しく感動させる芸術は無い。



「俺たちが百鬼総合和太鼓部としての誇りを貫くチャンスは、今日この一度しかない」



 二年前の大会直後、初春が柊に掛けた言葉と酷似していた。

 彼の言葉に聞き覚えがあったらしく、ふとした小さな呟きではあったものの、柊はピクリと体を小さく反応させて初春の方を見やる。つられて明日葉も初春に視線を移した。



「証明しよう。俺たちの一打が世界を震わせることが出来るって」



 溢れんばかりの光を背に満開の笑顔を浮かべる初春に、周りで緊張した面持ちだった生徒たちが体を弛緩させていく。

 初春は「頑張れ」とは言わなかった。「大丈夫」とも、「落ち着いて」とも。

 百鬼総合和太鼓部の部長として最も辛く厳しい時期を過ごしてきた彼がただ朗らかに笑っている。

それだけのことで他の生徒たちがどれほどの安心出来るのか、本人は知らないだろう。

 


「あれれ、緊張してんの?」

「してないです」

「だよね。俺も全然してない。早くピンスポット浴びたいなぁって思うくらい」



 初春たちとは反対側の待機場所にいた寿屋が、ぼんやりとバチに目を落としていた間宮の肩に自分の手を置いた。

突然のスキンシップに眠そうな瞳をほんの少しだけ丸くし、話しかけてきた寿屋を見上げる。



「嬉しいなぁ。まさかあの人たちが高文連出るなんて思ってなかったから、今はすごい嬉しい。で、俺も同じ舞台に立てるんだって思ったら、もう最高に幸せだね」



 寿屋は二年前の大会を知らない。けれど、今までずっと出続けていたそれの出場を辞退し、かつ多くの先輩が辞めていった様を見ればおおよその事は察することが出来るだろう。

加えて柊が話題に出すことすら毛嫌いして常々文句を言っていたのだ。初春らが経験した惨劇を、寿屋は何となく理解している。


 だからこそ今こうして公式衣装に身を包み、出演のタイミングを今か今かと待ちわびている時間を奇跡と捉えて胸を弾ませるのだろう。

彼の瞳に宿るきらきらとした期待の色が、間宮にじわりと伝染する。



「人生で一度きりだ。これから始まる舞台は、後にも先にもこの一回だけ」



 無邪気な子供のような笑みを浮かべながら、寿屋が間宮の方を向いて小首を傾げてみせる。

それは疑問を抱いているわけではなく、「お前もそうでしょう」と同意を求める意味でだった。


 前の学校の撤収が終わり、舞台上が一度暗転する。

忙しなくガラガラと車輪が鳴り、それまで舞台袖にスタンバイしていた生徒たちが一歩、また一歩と幕の向こうへと進んでいった。

 そんな仲間の背を見送りながら、間宮が自分の心臓の辺りを握りしめながら囁く。



「楽しみですね」



すぐ隣に立つ寿屋に届けるでもなく、さりとて客席にいる同級生やかつての神様へ言うでもなく、ただ興奮に胸を震わせている己の為に吐き出された本心は、まるで彼を導くように舞台へと吸い込まれていった。



「続いて、百鬼総合高校。曲名」



 静まり返る客席に、あえて無機質にされたアナウンスが流れる。

 舞台上に見慣れたピンクアッシュがうっすらと現れた瞬間、それまで出場しない身でありながら緊張しきる後輩を精一杯落ち着かせていた志貴が、ぐっと息を止めて両手を握りしめる。

 叫びだしてしまいそうなほどの緊張を必死で押し殺して、自らの意志を託した男の音を待ちわびる。



「『爛華』」



 曲名の紹介の数秒後、どの位置にいても必ず視界に入れることが出来る、舞台上ど真ん中に立った寿屋の、空間を切り裂く鋭い一音がホールに鳴り響いた。


 爛華という曲で一番最初に音を鳴らすのは、初春や明日葉の長胴太鼓でも、柊と間宮のいる締め太鼓でもない。作曲者である祭工房団長が、あえて太鼓ではなく篠笛を最初の音に選んだのだ。

 ピンスポットに照らされた寿屋が高らかに、そして繊細な旋律を奏でる。息継ぎを感じさせないほどの滑らかな音の流れに、観衆が引き込まれていく。


 そうして世界が寿屋に魅了された瞬間を狙い澄まして、柊の撥が振り下ろされた。

 さぁ俺を見ろと全ての観衆へ叫ぶように打ち鳴らされた細かな連打に続いて、明日葉の連、初春の長胴太鼓が次々と加わっていく。

いつの間にか寿屋の姿は舞台上のどこにもなく、彼がいなくなったことにすら気が付かない圧倒的なアンサンブルがそこにはあった。



『寿屋の笛がプロローグだとすれば、次は各パートが溶けていくように混ざる一章。これが終われば、各パートのソロに入ります』


『それまで大人数の中に隠れていた者たちがそれぞれ独壇場に立つわけだ。各演奏者の技術が最も要される。ソロにごまかしは通用しない』



 世良や十條が特に心配をして、多くの時間を割いたソロパートが始まる。

 まずは明日葉が裏センターを務めている連、そして最後列で力強く打ち鳴らされる大締めの混合ソロ。

連は横の動きが、そして大締めは前後の体重移動が多く、全身をダイナミックに動かす両パートは非常に見栄えが良かった。



『そのまま音を長胴に託せ。長胴は繋いだそれを絶対に手離すな』


『大切なことは長胴太鼓の響きを絶やさない事です。いつの間にか見る人の目が手前に移動している。それが自然な方がより良い。でも彼らの目を、心を、確実に惹きつけられるような響きでないといけない』



 明日葉が最後の一打を振り下ろした瞬間、ニィと笑って前方に向けて明るく軽やかな掛け声を一つ上げた。

太鼓の演奏中に気合を込めるような大声を入れたり、飾る意を込めて小気味よい合の手を入れることは珍しいことではない。特に全身全霊での連打の際などは、自然と声が出てしまうものだ。

 明日葉の声はそのまま初春へと届き、彼もまた笑顔で彼のエールを受け取る。


 爛華にて最も演奏者数が多い長胴パートは、個々のセンスというよりは団体として魅せることが重要となる。

太鼓に振り下ろされる撥の動き、全身を大きく使った時の筋肉の躍動、ふとした瞬間に訪れる静止。それがピタリと合っている演奏というのは、見ている者に精密さや完璧さを感じさせる。



『俺一人じゃ出来ない事は山ほどあるよ。俺のことをすごい奴だって言うなら、きっとそれは巡り巡ってお前の肯定にもなるんだ。皆がいなければ俺はこうなれていない』


『俺を形作ってくれて、本当にありがとう』



 和を重んじる初春だからこそ仕上げられた、寸分の違いもない共鳴。

それぞれ響かせる一打がやがて一つの大きな音になる。


 ホール内にいた観客から感嘆のため息が漏れたのを、近くに座っていた杜若が耳にする。

自分たちの仲間が、先輩が、こうして誰かの心を動かす場面を目にするのは初めての事ではなかったけれど、この一回は何よりも特別だった。

 すぐに視線を前に戻して百鬼総合の演奏に集中するが、胸に宿った誇らしさはまだ消えない。


 やがて長胴のソロが終わり、重厚な流れが一瞬ぴたりと止む。

時間にすれば本当に一秒満たない些細な静寂ではあったが、空気を切り替えるには十分な空白である。

 わずかに空いた隙間を撃ち抜く柊の連打。その力強く圧倒的な技巧に、舞台上の空気がまた変わった。



『四つの太鼓を使う締めソロの難易度は他のものに比べて遥かに高い。他の奴らが若さや勢いで魅せる中、お前たちは技術と正確さで勝負するしかない。百点で平凡。それ以上で優良だ』



 前に十條が言っていた通り、今舞台上で四つの太鼓を駆使して軽やかなリズムを刻むその姿は、ただの学生では持ちえない気迫すら感じられる。

応援したくなるというよりは、賞賛の眼差しを送りたくなるような、そう思わせるほどの完成された技術。



「俺が知ってるソロじゃない。これはこれは……」



 柊が観衆の目を惹きつけた後、間宮含む後列や反対側に控えていた生徒たちが大きくバチを振り上げて細やかなリズムを正確に刻みだす。


 その様を座席から見ていた御来屋が、ぽつりと音の波に攫われてしまいそうなほど小さな声で呟いた。

隣に座っていた鳳が少し不思議そうな視線を送るが、演奏中に会話をするつもりはないらしく、また顔を前に向ける。



「やってくれるじゃん、百鬼総合」



 顎に手を添えながら、御来屋がふわりと嬉しそうに口元を緩ませる。

 他者から見て、本来ならばライバル関係にすら上がることの無い百鬼総合に対して、全国大会常連校である神々廻の御来屋がそう評価するのは異質だ。

「なぜそこまであの無名校に注目するのか」と今日だけで四回も後輩に質問されている。

 やがてソロがクライマックスに差し掛かって、クレッシェンドの連打が始まる。



『好きなんだよね。ああいう青春臭い太鼓。だって僕たちには無いじゃない』



 誰かに質問される度にそう答えながら、御来屋は掴み所のないふわりとした微笑みを浮かべるのだ。

何度聞かれても、何度でも同じ回答を繰り返す。一度たりとも嫌な顔をせず、何処か誇らしげに、充足した様子で彼は笑い続ける。



『僕らが万人に崇拝される伝統芸能だとしたら、彼らは皆が応援したくなる太鼓だ。それって本当に凄いことだよ。僕には決して作れない音楽だからね』



 綺麗なクレッシェンドで徐々に大きくなる連打が、やがて弾けるように霧散した後、再び舞台上に寿屋が現れた。

 冒頭に奏でた観衆の不意を突くような鋭い音ではなく、まるで各ソロを経て飽和してしまった音をかき集めるかのような柔らかく優しい旋律。

聞いている者全てがふと息を吐いてしまいそうになるほど、穏やかな音だった。



『最後の最後のとっておき。満開であり爛漫。乱れ舞うこの曲最大の見せ場』


『それが、二章解放だ』



 長胴太鼓が、締め太鼓が、連太鼓が、一斉に音を生み出し始める。

同じ曲を叩いているというのを忘れてしまいそうなほどの、互いの音をかき消さんばかりの圧倒的な個性のぶつかり合い。

けれど決して彼らの音が独立することはなく、きちんとアンサンブルを保っている。


 この二章解放が終われば、後は最後の力を全てつぎ込む怒涛の連打で曲は終わる。

春になったら芽吹くように、満開の花が咲いて曲はフィニッシュを迎えるのだ。


 百鬼総合の部室やホール、そして合宿所の練習場。様々な場所で、彼らが奏でる爛華を何十回と誰よりも近くで聞いてきた音々野々には、間もなく訪れる終わりが嫌でも理解できた。

 当然、大会の規定上時間制限がある。ずっと百鬼総合が演奏するわけにもいかない。

それに、爛華自体が十分かからず終了する曲である。演奏が永遠に続くわけがない。


 けれど、彼は願わずにはいられなかったのだろう。



「終わらないで」



 何かに縋り付くような小さな声で呟かれた祈りは誰にも聞こえることなく、彼の大好きな百鬼総合の太鼓の音にかき消されて消えて行ってしまう。


 あと数秒で、数打で、彼らの秋が終わる。

 バチを振り上げている腕が次の一打でラストにしてくれと悲鳴を上げている。

掛け声や気合の叫びを上げている喉がもう限界だと警告を出している。汗で視界が滲んで、酸素が足りていなくて、ただただ目の前が眩しい。


 そうして初春の脳天から勢いよく振り下ろされた、魂を震わせる一打。

それが爛華の最後の一音となってホールに飛んでいく。

 数秒の沈黙の間、わんわんと反響していた音は壁に吸い込まれていき、やがて静寂が訪れる。


 その刹那、割れんばかりの拍手喝采が百鬼総合に注がれた。



 高文連は、誰かの一瞬一瞬をたくさん積み重ねて出来ている。


百鬼総合が最善を尽くした十分間の次は、違う高校の最高の十分間がまた始まるのだ

 自分たちの演奏が終わったとはいえ、次の出場校がまだ控えている。舞台上で感傷に浸る時間もなければ、いつまでもそこにいる訳にもいかない。


急いで台を動かして太鼓を舞台袖に移動させ、衣装の乱れを直すことすらせずに舞台袖から直結している入り口ホールへと向かった。

 そこには両腕を腰に当てながら心底嬉しそうな笑顔を浮かべる十條と、その隣で控えめではあるが同じように口元を緩ませた世良が彼らの帰りを待っていた。



「素晴らしかったな百鬼総合! 実に良かった! 俺は感動したぞ!」

「一度きりの大舞台であれほどの演奏が出来たのは本当に凄いです。お疲れ様」



 その他に応援に来ていたOBたちも揃って彼らの爛華を称賛し、労いの言葉をかける。

再会を懐かしむ間もなく自分たちに送られるあたたかな感想。

二年前の挫折を苦に退部してしまった生徒たちも観覧していたらしく、初春と柊の周りには特に多くの卒業生たちがいた。


彼らへの対応が一区切りした時、初春が「千鶴」とすぐ傍に立つ同級生の名を呼ぶ。

 普段あまり感じることの無い不思議な充足感をなかなか受け入れられず、先輩たちの言葉に曖昧な笑みと簡素なお礼の言葉だけを返していた柊が声のした方を見やる。

 そうして、視線の先にいた初春が零した大粒の涙に釘付けになった。



「ありがとう」



 喜怒哀楽が激しく表面に現れる明日葉や、怒りの沸点が非常に低い事が難点だが、自我をきちんと表に出している柊とは違い、初春は常に穏やかであった。

百鬼総合和太鼓部部長という役職についていながら、どこか世界を遠くに見ているような、自分は二の次にしているかのような、そんな掴み所の無い人間であった。


 そんな彼にだからこそ思うのだろう。

あぁ、この人も真っすぐ綺麗に泣けるのだと。



「今日までずっと、誰よりも苦労させた。大会に出場したいという俺の我儘をお前が許してくれたからこそ、舞台を終えることが出来たんだ。いくら感謝してもし足りない。本当に、俺はお前に何と言ったらいいか」

「楽しかったって言ってくれ」



 溢れる涙をそのままに消え入りそうな声で自身の顔を覆いかけた初春に、柊がきっぱりとそう言った。

 頬を伝いかけた初春の涙を親指で拭ってやりながら、柊が年相応にくしゃりと笑ってみせた。



「俺がお前に願ったのは、それだけだからな」

 柊の笑顔に刹那言葉を失うが、すぐに初春も満開の笑顔を浮かべて彼の想いに答えた。

「楽しかったなぁ。最っ高に楽しかった」



 二年前に彼らが眩しい舞台を背に交わした会話。

何もかもに絶望して付き離した柊が、たった一つ初春に込めた願い事。それが叶った瞬間であった。

 初春が次にかける言葉に迷っている間に、後ろから不意打ちのように現れた明日葉が大号泣しながら彼の両肩に手を回してそのまま抱き着く。



「えっ、瑛人ぉ、皆も、ほんとにおつかれ、っぐ、ありがとうなぁ」

「顔がぐしゃぐしゃだ。ああもう鼻が。ほらこれで拭いて。衣装につくぞ」

「知らん知らん、もうこの先俺が大会衣装を着る機会は無いんだ。今日で終わりなんだから好きなだけ泣かせてくれ。俺の涙を染み込ませてくれ」

「三回洗濯機回してやっから覚悟しとけ」

「お前はほんとに可愛くないなぁ千鶴、でも俺はそんなお前が好きだよぉ」



 いつもなら速攻引き剥がす柊が、べそべそと泣きじゃくりながらしがみ付いてきた明日葉を今日は何もせずただ甘んじて受け入れている。

 初春と柊だけでなく、彼の周りにはいつのまにか三年生たちが集まっており、皆揃ってエースの途切れ途切れの泣き言を静かに聞いていた。

先程まで立っていたそれが明日葉にとって最後の舞台であり、皆それを知っていた。


もう百鬼総合が同じメンバーで舞台に立つことは無い。

 ぼたぼたと大きな涙が一つ二つと頬を伝ってロビーの床に落ちていく。

水たまりが出来てしまうか、はたまた明日葉の中の水分が全て無くなってしまうか不安になってしまうほど清々しく泣き続ける彼が、両手で目元を覆って叫ぶように言った。



「俺はこの三年間を一生大事にする。皆と太鼓できて、俺本当に幸せだったよ。なんか、上手くまとめらんなくてごめん。でも俺さ、超楽しかったんだ、太鼓」



 誰よりも百鬼総合が好きで、太鼓が好きで、メンバーが好きだったエースの引退。

 それは少なからず今後の公演にも影響するだろう。


初春とはまた違った位置で部員をサポートし、精神的支柱としての役割も果たしていた彼が、明日からは部室にやってこない。

 けれど、明日葉がいなくなったことで百鬼総合が衰退してしまうようなことは絶対にあってはならない。それは三年生たちが密かに交わした誓いであり、明日葉からの最後の頼みだった。


 涙が止まらない明日葉の背を初春がとんと叩き、ふと視線を前方へと動かす。つられて目を動かした先にいたのは、大輪の花束を持った後輩。



「なにあれやば」

「お前の意思を継ぎたいってずっと待ってるぞ。託してこい」



 花々の向こうにある音々野々の表情から、もうすぐ彼の涙のダムも決壊することが容易く読み取れたが、あえて気が付かない振りをして明日葉が一歩前へと駆け出す。

 先輩らしく涙を拭って、凛と胸を張って、音々野々の前に立った。


 数秒の間、どちらとも言葉を発さずに正面から向き合ったまま沈黙が続く。

伝えたいことは山のようにあるのだろう。何から口にしたらよいのかも分からない幾千の感情を、一つ一つ自身の中で収束させていく。

 最初に口を開いたのは、ふわりと笑った明日葉だった。



「な、最高かつ最強だっただろ」



 後輩である音々野々には激励を、先輩である明日葉には賛辞を。

差し出された明日葉の帯と同じ色の花束で一瞬お互いの顔が見えなくなるけれど、すぐに再び視線が交わる。

大きな向日葵越しの音々野々は、明日葉の予想に反して笑顔だった。



「お疲れ様です。ほんっとに、涙止まんないくらい、くそかっこよかったです」

「いつかお前も後輩にそう言ってもらえるようになる」



 花束を受け取った明日葉が、空いた片手で音々野々の頭を優しく撫でる。

 百鬼総合の先輩として初春や柊に対しても勿論尊敬の念は抱いている。彼らのような優秀な演奏者になりたいと思う者も部内では多い。


けれど音々野々亜蘭が追いかける背中は一つだけだった。

沢山の不安や心残りを飲み込んで音々野々が選んだ最後の言葉は、心から慕う先輩への誇りと感謝。



「俺が憧れたのが、明日葉さんでよかった」




 館内に閉会式開始のブザーが鳴り響き、大会に出場した生徒たちが揃ってホールに着席する。

座り切らない部員は通路に立っていたり、最後列で立ち見をしていた。百鬼総合は全員席に座ることができ、その斜め前方に神々廻がいた。


 高文連では閉会式の際に結果発表が行われる。

その為、最終出演校が終わった後は長めの休憩が入るのだ。その間にただ太鼓を見に来た観客たちは岐路につきはじめ、ホールはほとんど学生たちで埋め尽くされる。


 大会実行委員長が舞台上に現れ、簡単な挨拶をした後に手にしていた紙を一枚開く。

 そこに記名されている一校だけが全国大会に出場することが出来る。残った全ての生徒たちの戦いは、今日をもって終了するのだ。


 足を止めてしまいたくなるような暑い夏のランニングも、生徒の熱気で窓に結露が出来た真冬の練習も、この一瞬の為に積み上げられてきた。

 緊張感が張り詰めるホールでただ一人、口元に笑みを浮かべながら大会委員長が口を開いた。



「これより発表を始めます。ですが、この結果によって君たちの才能が否定されるわけではありません」



 高文連の大会委員長を務める彼もかつては和太鼓奏者であった。今は演奏者としてではなく継承者として活動しており、多くのプロ奏者を世に排出している。

その点で言えば祭工房の団長と同じ立場の、育てる人間であった。



「ありきたりな綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、若き才能である君たちを点数で表すべきではない。本当に素晴らしい音楽でした。どうかその音を、熱を、未来に絶やさず繋いでください」



 目を薄めてしまいそうなくらいの光量を受けながらも、凛と胸を張って正面を見据えるその姿は、まさに大会の最高責任者に相応しい風貌である。

 そんな強さを感じさせる彼が一瞬だけ顔を伏せ、再び前を向く。



「結果を読み上げます。それでは、全国大会に出場できる優秀賞から」



 どこか苦しそうにそう言った後、皆が見つめる舞台上にいる彼は、全ての演奏に全力の拍手を送るオーディエンスではなく、芸術に点数を付けなければならない審査員に変わっていた。

 手にしていた紙を開き、そこに記載されてある高校名を黙読して静かに目を閉じる。


 小さく息を飲んだ寿屋が隣に座っていた志貴の手をぎゅうと強く握る。彼の手は恐ろしく冷たかった。

皆一様に緊張している。誰かに支えてもらわなければ、叫びだしてしまいそうなほどの不安と緊張。

すう、と。ただ小さな息遣いの音だけが聞こえる。


 そうして彼は再び真っすぐ生徒たちがいる客席のほうを見つめ、大きな瞳を期待に輝かせながら口を開いた。



「優秀賞。百鬼総合高校」



 時間にして一秒足らずの間ではあったが、ホールから完全に音が消えた。


 その刹那の後、その名を呼ばれた生徒たちが体を震わせる。

研ぎ澄ませていた感覚や様々な感情が一気に破裂し、電撃に打たれたのかのような衝撃が走った。

わぁっと百鬼総合のほとんどの生徒が立ち上がり、天を仰いで喜びの声を上げる。


誰よりも嬉しいはずだが、驚きと嬉しさのあまり言葉を紡ぐ事の出来ない初春が、体を丸めて小さく肩を震わせた。

祈るように合わせていた両手を発表以前よりもずっと強く握りしめる。

やがてその大きな手に、一筋の涙が伝った。



「ぜっ、全国、俺たちが、優秀賞で、全国……!」

「あぁもうだっせーなぁ、こんなに泣くなんて、駄目だ、止まんねえ」



 明日葉が柊の肩を抱いて号泣し、つられて柊も彼の肩で自分の顔を隠すようにしながらぽろぽろと涙を溢れさせた。

少し遠くで立ち見をしていた十條と世良も顔を見合わせてにっこりと笑い、その後二人とも安心したように揃って肩を落とす。



「おめでとう。それでは次に優良賞を発表します。今年の優良賞は」



 百鬼総合に一言のみの賛辞を贈った委員長が、そのまま次の発表へ移る。

再び場がしんと静まり返り、ただ百鬼総合だけが声を押し殺して喜びをかみしめていた。



「神々廻高校」



 絶対王者であるその名が呼ばれた瞬間、先程とはまた違った雰囲気が漂う。

後輩たちはみなどこか信じられないといった様子で三年生の席を見やり、三年生たちは唖然と舞台上を見上げているばかりで何も言わなかった。

 本来であれば総合成績二位という快挙である。

その順位を目指して多くの高校が腕を磨いていることは間違いないのだ。十分に誇れる結果であるし、決して悪い成績ではない。


 ただ彼らはあまりにも勝ちすぎてしまった。

全国大会出場が常になり、それが重い枷になってしまっていたことに気が付かず、今この瞬間までやって来てしまった。

 自分たちの背に圧し掛かっていた常勝の重責が、まだ若き彼らを押し潰してしまったのだ。


 たった一人、御来屋だけがゆっくりと目を閉じながら優しく微笑む。



「悔しいなぁ、本当」



 すぐ横にあった那々人の頭をぐいと自分の方に引き寄せ、周りの生徒たちから彼の表情を見えないように隠してしまう。

那々人は勢いそのまま御来屋の肩に額を当てるが、特に体を付き離すこともせず、ただ人形のようにフリーズするばかりだった。

 そんな二人の背中を見ながら、鳳がふわりと髪を揺らしながら下を向く。



「かみさまは残酷です」



強く握りしめられた両手に、一滴涙が落ちた。



 閉会式後、大会に出場した学校がそれぞれのミーティングを行い、やがてぱらぱらと会場を後にしていった。

そのほとんどが悔しさに目を赤く腫らしている。いまだに感情の整理がつかない者が多い。


総合二位という結果に終わった神々廻高校は、応援に来ていた先輩や講師陣にお礼を言い、太鼓を学校管理の車に運び込んでいるところであった。

那々人は部長として後輩にテキパキと指示を出してはいたが、いつもの不遜さはすっかり鳴りを潜めている。

三年生らも同じように元気がなく、ただ無言で荷物を運んでいるという印象だった。


そんな葬式染みた雰囲気に、車いすの車輪の音と共に一人の青年の声が割り込む。



「那々人」



 彼の声は鈴の音のように軽やかに、けれど真っ直ぐにたった一人の心に飛び込んでいく。

 髪がふわりと大きく舞うほどの勢いで那々人が声のした方を振り返り、幽霊でも見るように目を丸くして硬直する。

大きく見開かれた瞳に映るのは、過去に置いてきた青年の姿だった。



「すば、る」

「昔とは全然違うな。もう那々人から瑛人を感じない。かっこよくなったなぁ、本当に」



 目の前の現実が信じられないというように、かつて自分の人生を大きく変えた人の名を呼ぶことしか出来なくなる。


対して彼、寒鳥すばるは自身を正面から見てくれたことを心から喜ぶように朗らかな笑みを浮かべた。

二人以外世界にはいなくなってしまったかのように辺りが静まり返り、少し遠くでその様子を見ていた御来屋が小さく肩を落として鳳ら後輩に手短に帰り支度の指示をする。



「すごかったよ、祓詞。瑛人のとこの爛華?だっけ。あれも派手で楽しくて良かったけど。二人ともちょっと見ない間にずいぶん遠くに行っちまったなって実感した」



 屈託なく賛辞の言葉を送ってくれる寒鳥から視線を少しだけ降ろした先にあるのは、無機質な鈍色の義足。


 今すぐ逃げ出してしまいたいという強い後悔が途端押し寄せて、やがて目を見つめる事すら出来ずに那々人が俯いてしまった。両手を強く握りしめて、次に言うべき言葉を必死で考える。

 足を奪った事への懺悔。無力な己に対する烈火のような激情。再会を素直に喜ぶ事の出来ない愚かさ。

そんな負の感情がぐるぐると腹の中を渦巻いて声を失わせてしまう。


 ぎゅっと強く目を瞑ったその瞬間、ふわりと華やかな香りが目と鼻の先に感じられた。

 反射で那々人が目をうっすらと空けると、そこには真っ白な花々が綺麗にまとめられた花束があった。



「お疲れ様、那々人」



 瑛人には秘密な、と付け足して、かつてのように悪戯っぽく寒鳥が笑う。

教室で、運動場で、様々な場面で見た彼の眩しいばかりの笑顔。真っ白の病室を境に見えなくなってしまった光。

 今それが自分だけの為に目の前に存在している。



「昔の事は本当にごめん。こんな事言っていいのかも分かんないし、お前にとったら迷惑な話かもしれないんだけどさ、俺、今日ここに来れて良かった」



 寒鳥が微笑と共に言葉を吐く途中、何度も小さな声で那々人が彼の名を呼ぶ。

届かないと、届いたとしてもかの友人は自分の感情の吐露を辞めることは無いだろうと分かっていたのだけれど、大事な人の名を呼ぶ以外に溢れる気持ちを表す単語が見つからない。


 過去のことを謝るべきは自分であると、決して迷惑ではないと、そう素直に正直に言えればどれほど良いだろう。

 かつては自分を拒絶して傷付けた男として嫌おうとした日もあった。そうすればいつか傷は少し浅くなるだろうと願いを込めて。

 けれど、終ぞそれは叶わなかったのだ。



「那々人は俺の自慢の友達だよ」



 花が咲くように笑う彼の事を、どうして嫌いになれようか。


 大きく見開かれた、兄によく似た綺麗な瞳から大粒の涙が溢れ出す。

那々人の様子を窺っていた後輩や同級生たちが、絶対的強者である初春那々人が絶対に見せなかった涙に一斉に息を飲んだ。



「初春部長が泣いてる」

「気にしないであげて。大丈夫、すぐ澪の良く知るあいつに戻るから」



 無表情で那々人の方を見ていた鳳がそうぽつりと状況を口にすると、それまであえてそちらを意識しないようにしていた御来屋も横目で彼の様子を目視し、ふわりと笑う。

 そうして片付けの手が止まりそうな後輩にやんわりと注意をした後、眩しいものでも見るようにうっすらと目を細めて小さく呟いた。


 神々廻高校和太鼓部副部長という公私ともに最も彼の傍にいた男として、御来屋棗は等身大の彼に祝福を送った。



「やっと終わったんだね、贖罪」




「棗」



 凛とした声で、寒鳥といくつかの言葉を交わして別れた那々人が御来屋を呼んだ。

その瞬間、御来屋が反射的にぱっと後ろを振り返ると、彼も初めて見る那々人の姿があった。


傲慢不遜で誰よりも高潔で強かった彼は、どこか自分とは違う人間だと思っていた。

決して自分の事を過小評価しているわけではなく、ただ単純に目の前の彼はあまりにも才能が突出し過ぎていたので、どこか一線引いた場所から彼を眺めていたのかもしれない。


 那々人にとって和太鼓は、人生をかけて行う寒鳥すばるに対する贖罪でも、兄の瑛人との比較対象でもなくなった。

 ただ好きだから叩く。そんなシンプルな感情で和太鼓に向き合えるようになったのだ。


 那々人の次の言葉を待つように、御来屋が小首を傾げて微笑む。

 すると、少しだけ何かを言い淀んで照れくさそうな素振りを見せた後、「ありがとう」と那々人がほんの少しだけ笑いながら口にする。

 あまり見ない彼の笑顔に御来屋が小さく息を飲んでいると、那々人がさらに言葉を続けた。



「お前を全国に連れていけなくて、本当に悪かった」

「あっは! 何言ってんの。那々人が気にすることじゃないって。それを言ったら僕だって謝らなきゃいけなくなるんだよ? だからもう謝ったり悔んだりするのは終わり」



 予想もしない謝罪の言葉に御来屋がけらけらと笑い声を上げ、そのまま自分よりやや下にある那々人の頭にぽんと手を置く。

全国最高クラスの演奏者に対してではなく、自分と同じ高校三年生の初春那々人に対して。


那々人とは、他の同級生のように隣のクラスの女子が可愛いとか、あのカップルが別れただとか、そういう男子高校生らしい会話は一切無かった。

 那々人と御来屋は互いの家族よりも長い時間を共に過ごしていたが、その関係は和太鼓奏者としてのものでしかなかった。


それでも、御来屋には那々人が、那々人には御来屋が必要だった。何よりも大切な、かけがえのない存在には違いない。



「僕はどんな舞台でも那々人がいればそれでいいよ」



 その場凌ぎの嘘ばかり吐く彼が、一切の濁り無く口にした気持ち。

それは真っ直ぐ那々人に届いたようで、返事の代わりに返ってきたのは、くしゃりと幼く浮かんだ満開の笑顔だった。



***



「おーわりっ!」


 音々野々らが百鬼総合高校の和太鼓部部室に自分たちの太鼓を全て搬入し終えたのは、その日の二十時過ぎだった。

 高文連優勝がまるで遠い過去のように感じるが、時間にして二時間ほど前の話である。

あまりにも現実味がなさすぎることがそう思わせるのだろうが、みなどこか他人事のように冷静であった。


 しかし自分たちが手にした栄光や誇りを拾い上げて思い出すたびに、じわじわと体の芯から暖かくなるのを感じ、自然と表情が綻んでしまう。

今も一人でニマニマとしている明日葉を少し遠くで見ていた柊が、つられて口角をやんわりと上げている。

 しばらく自分たちのバチを元に戻したりロッカーを開けたり閉めたりしていたが、やがて結城のけだるげではあるがよく通る声が皆の手を止めさせる。



「搬入お疲れ様。今日は疲れただろうからゆっくり休んでくれ」



 もう少しだけこの余韻に浸っていたい。自分たちの音が掴んだ結果に酔いしれたい。口には出さなかったが、ほとんどの生徒たちはそう思っていた。


 しかし、百鬼総合にはまた違うステージがある。

全国大会の練習は勿論、地元のイベントや自分たちの定期公演の準備もある。

彼らが練習するべき曲は爛華だけではない。ここからやらなければならないことは山積みだ。

 だが普段あまり表情を変えない結城も、今日ばかりはどこか上機嫌に見える。



「また明日」



 彼の締めの言葉に生徒たちが勢いよく返事をし、それぞれ帰り支度を始める。

 それが言えないたった一人が、寂しそうに目を伏せていた。



「素晴らしかったです、本当に。あなたが僕の友人だと全世界に自慢したいほど」



 ふと、寿屋のすぐ隣を歩いていた志貴がそう呟いた。

 すっかり夜も深まってしまい、辺りを照らすのは街灯のみ。

普段であれば真っすぐ駅に向かうところではあるが、他の二年生の輪から抜けて、二人だけ遠回りをして帰っていた。



「素晴らしい爛華でした。少なくとも僕の人生の中では断トツに」

「俺は雅と一緒だったらもっと楽しかったけどなぁ。でも、うん。一片の後悔もないし、未練も反省も何にもない。気持ちいい終わり方だったと思う」



 寿屋がうーんと大きく背伸びをすると、つられるように志貴が首をぐるりと回した。

舞台上に立って高らかなメロディを紡ぎ、誰よりもスポットライトを浴びた寿屋と、その彼の平穏と成功を祈り続け見守った志貴。

他にも二年生はいるけれど、彼らの関係性はその者たちとは比較にならなかった。



「やっぱ明日葉さんの長胴と柊さんの締めには誰も敵わないし、初春さんほどの統率力と安心感を持ってる二年は誰もいない。今のままじゃ、俺たちは絶対ああはなれない」



 同じ歩幅で並んで歩いていた二人だったが、不意に寿屋が一歩前に躍り出て、両手を後ろに組んでにっこりと笑う。

 志貴の進路を阻むのではなく、ともにペースを上げて前に進もうと手を引くかのように、彼らしい柔らかな笑顔をふわりと浮かべながら。



「でも俺は雅がいればいい。俺が一番輝けるのは雅の隣だもん」



 どんな時でも必ず寿屋は同じことを繰り返した。

志貴が高文連のオーディションに落選して落ち込んでいるときも、自分自身が爛華に出場することが決まり、その厳しく辛い練習に心身ともに疲弊しきっている時も、いつだって笑ってそう言った。


 そんな寿屋の優しい束縛を嫌煙してしまった時期もあったが、今はそんな言葉たちが自身の背中を押す追い風となって明日へと歩を進めさせている。

 正面に立つ寿屋に追いつくよう、志貴も大きく前へ一歩踏み出した。



「もうこんな歯痒い思いをするのは御免です。絶対に負けない、次は勝ちます」



 定期公演や全国大会など、まだまだ三年生が活躍するべきステージは残っている。高文連が終わったからと言って、明日から上級生が全員いなくなるということはない。

 それでも、今日この日は二年生にとって大きな転換日になった。



「来年は俺たちの番だよ」



 都内の空に星は浮かばなかったが、たとえ頭上に輝いていても横に立つ大事な人の笑顔には叶わない。そうお互いが思っていた。


 ずっと背中を追っていた三年生が掴んだ栄光を後世につなぐのは、寿屋や志貴を中心とした現二年生であるのは間違いない。

かつての志貴であれば、自分が初春らの抜けた穴を埋めなければならないという重責に押し潰されてしまっていたかもしれない。

寿屋も正面からプレッシャーを受け止めようとせずにのらりくらりと空気のように気ままに部活を続けていただろう。


 高文連の舞台に立った寿屋と、立てなかった志貴。

彼らが経験した秋はそれぞれ違うものだったが、見据えた目標は同じだ。



「ずっと俺の隣にいてね、雅。結構ペース上げてくけど、絶対追いついて」

「理央こそ。よそ見していたら置いていきますよ」




 小さな別れの言葉だけを告げて、明日葉は電車に乗り込んだ。

 方向が同じ仲間は他にもいたが、彼らには少し別で用事があるからとその場しのぎの嘘を吐いて、誰もいない車両に移動した。

夜ということもあり乗客の数は少なく、ぽつんと広い横長の椅子の真ん中に腰掛け、ふと窓の外に目をやる。


 明日葉にとって、和太鼓奏者として百鬼総合にいられるのは今日で最後だった。

皆に挨拶は一切していない。彼を慕う後輩は多くいるので皆が寂しがるだろう。引き止めたいと思うだろう。いなくなってほしくないと願うだろう。

 ぼんやりと特に浮かべる感情もなく明日葉が外の景色を見ていると、ふと手元のスマホが光った。

トークアプリの通知らしい。一瞬端末に目を落としたが、そのまま特に何もせず俯く。


 三年生や高文連出場メンバーには自身が秋の大会を最後に引退する旨を伝えてある。知らないのは間宮と音々野々以外の一年生と大会非出場の二年生たち。

 初春から一言くらい言い残していったらどうかとの相談もあったが、明日葉はいつものように快活に笑ってそれを断った。

全国大会やその他の公演も残している、これからを走り続ける大事な仲間の後ろ髪を引くような真似はしたくなかったし、彼らの足を止める存在になりたくなかったのだ。


 現にあの音々野々亜蘭が一度きりとはいえ大粒の涙を流して自身に残留を乞うたのだ。

それよりも長い時間を過ごした二年生が、入りたての一年生が、エースである明日葉の引退を前向きに捉えるのは簡単なことではない。

 だからこそ彼は静かに去ったのだ。誰にも言わず、誰にも泣きつかず。



「あれ……?」



 上手く出来たと思っていた。

 初春や柊をはじめとした皆が笑顔で自身の門出を祝して背中を押してくれたし、これで大丈夫だと、綺麗な去り際だったと自画自賛していたのに。

スマホの通知で浮かび上がった初春からのメッセージに、息をするのを忘れてしまう。



『今日まで本当にありがとう』



 あぁ、もうお終いなのだ。

初春は誰よりも優しく、そして厳しく線を引いてくれた。


 高文連で最後にする覚悟はできていたけれど、それでもまだもう少し、『百鬼総合和太鼓部の明日葉秋介』でいたかった。

 溢れ出した涙がディスプレイに落ち、虹色に滲んでいく。


 このタイミングでの引退を選んだのも、自分の将来と部活動を天秤にかけて取捨の選択をしたのも全部自分であるからこそ吐けなかった後悔が、ぼたぼたと溢れて止まらない。

 他の人たちと同じタイミングで引退し、後輩たちに送り出され、後は頼んだと揃って肩書を下ろしたい。

言葉にし尽くせないたくさんの未練が、まだ青い彼の背中を掴んで引き留めようとする。

 くしゃりと体を丸めて自身の顔を両手で覆う。電車内に他の乗客がいないことが功を奏し、彼の涙と苦悩は誰にも見られることはない。


 初春から感謝の言葉をもらうのはこれが初めてなわけではなかったし、むしろ穏やかで調和を重んじる彼はこの三年間で何度も明日葉にお礼を言った。

だがきっともうあれでおしまいなのだろう。和太鼓部部長の初春瑛人から、百鬼総合エースの明日葉秋介へ送られる「ありがとう」は。


 涙が止まらない。それでも明日は前を向いて、彼らに「おはよう」と笑いかけるのだ。

 同じ舞台に立てなくとも、彼らを一番よく知る存在として。



「明日から突然三年生がいなくなるわけじゃないし、むしろ今日からまた全国大会の準備を始めないといけないから、新しいスタートって言ってもいいはずなのに、なんでこんな寂しいんだろ」



 駅前のコンビニでピザまんを一個だけ買った音々野々が、やや疲れ切った様子で両隣にいる間宮と杜若にそう問いかけた。

 帰り道の途中で突然声高々と「なんか腹減った!」と宣言し、すぐ傍にいた二人の腕を掴んで静止の声も聞かずに走り出してから数分後の出来事だった。

 まだ湯気が立つほど熱いそれを無表情で食べながら、音々野々が二人の回答を待つ。


基本的に明るく天真爛漫だが、時々何を考えているのかさっぱり分からない彼に慣れ始めたと思っていたが、この質問には即答できず、杜若が黙っていると、不意に間宮が口を開いた。



「一つ目標をクリアしたからじゃない」



 さらりと、さも当然のように回答を呟いた間宮は、一度も二人と目を合わさずに先ほど購入したサイダーのキャップを小気味いい音を立てながら開ける。

あまり炭酸を飲んでいるイメージがなかったが、間宮は今日それを選んだ理由を「祝杯」というだけに留めた。



「先輩たちはずっと全国大会に出たくて今まで努力してきた。それが終わったんだ、感傷にだって浸りたくなる」



 唯一演奏者として高文連の舞台に立った間宮らしい言葉だった。

 あまり後輩たちには見せない、三年生を中心とした出場メンバーたちの泥臭い葛藤や努力を誰よりも近くで見続けてきた彼だからこそ言える感想であり、音々野々や杜若もその答えにすとんと納得した。



「そうだね。目指してきたものが叶ったのは嬉しいけど、突然終わりですってなったら、心がぽっかりしちゃうかも。それに、亜蘭くんにとっては明日葉先輩がいなくなっちゃうっていうのも大きいんじゃないかな」



 杜若がその名を口にした瞬間、それまで一心不乱にピザまんに食らいついていた音々野々がぴたりと動きを止めた。

 今思えばまるで何かを考えることから逃げているような食べっぷりだったようにも思える。

二人を無理やり連れてきたのも、会話をすることで自分の考えを巡らせないようにするためだったのかもしれない。


 けれどそんな音々野々の抵抗を、杜若は悠々と優しい笑顔と共に飛び越える。



「だって大好きだったんでしょ」



 そう杜若が真実を口にした瞬間、彼のピザまんで膨らんだ頬に涙が伝った。


 音々野々が明日葉に心底懐いて尊敬していたことは二人とも知っていたし、彼が今日引退してしまうことも、杜若は間宮から聞いていた。

 大粒の涙を零しながらフリーズする彼の背中に杜若が手を置くと、そこからじわりと杜若の優しい体温が感じられる。



「君が憧れる大好きな人がいなくなっちゃうんだから。寂しくていいんだよ」



 その様子を見ていた間宮も、最初はやや躊躇っていたようであったが、小さく肩を落としてから音々野々の頭に手を置いてくしゃりと撫でる。



「お前単細胞なんだから、昇華しなきゃとかそういう難しいこと考えるのやめれば」



 実に間宮らしい励ましだった。棘がありつつも、音々野々のことをよく見ているからこそ言える皮肉である。

 そんな同級生二人からのエールに、音々野々のフリーズがやんわりと溶けていく。

 手にしていたピザまんをまずリュックの上に落ちないように丁寧に置き、ゆっくりと杜若、間宮の順で目を合わせる。

いつもの決めた自撮りからは想像がつかないほど、涙ですっかりぐしゃぐしゃになった顔を正面から向けられた二人がそれぞれ小さく笑った。



「不細工」

「うっせ、今日くらいい良いだろ」

「泣き顔は普通の男の子だね、亜蘭くんも。なんか安心した」



 音々野々とは対照的に、二人はくすくすと笑いながら、杜若がなおも溢れ続ける彼の涙をハンカチで拭った。



「今日いっぱい泣いて、また明日太鼓叩こう。僕たちは本当に始まったばっかりなんだから」



 高く飛ぶためには一度沈んで力を蓄えなければならない。今はその沈む瞬間なのかもしれないと、杜若は付け足してまたにっこりと笑った。


 まだまだ全ての経験が足りていない一年生という立場。

これから先の未来は眩しく何も見えないけれど、彼ら自身の色で自由に染め上げることが出来る。

抱えきれないほどの可能性が、彼らの腕の中にはあった。


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