第3章
「あっ、十條先生からいいねきた。珍し」
ふと自身のスマホに目を落としていた音々野々が呟くと、隣にいた杜若がシャツに腕を通しながらひょいと画面を覗き込んで「本当だ」と続く。
八月下旬。夏休み期間中に予定されているイベント出演の依頼は全て終了してしまったので、残りは各々練習や宿題に追われることとなる。
とはいえ先日ようやく最後の夏祭り出演が終わったので、今から課題に手を付けるという生徒たちが大勢いた。三年生の多くも受験勉強に精を出している。
「亜蘭まだそんな前の方のページやってんの?だっさ~」
「あーまた寿屋さんが俺を馬鹿にした! 部長!」
「駄目だろう寿屋。本当の事はもっとオブラートに包んで言いなさい。それに、音々野々も言われてばかりでは駄目だぞ。きちんと計画的に進めないと終わらない。俺が部長の間和太鼓部から宿題未提出者を出すつもりはないからな」
「味方に見せかけて微妙に敵だった」
「そんな事は無い。俺はいつだってお前の味方だよ。だから頑張れ、応援してる」
くすくすと笑いながら揶揄した寿屋と、後輩という特権を振り回して部長に言いつけた音々野々を合わせて柔らかく叱り、初春が優しげに目を細めた。
人にそう言うだけあって、寿屋はもうすっかり終了しているらしい。
篠笛を指先で弄びながらセミナールームの机に広がった音々野々の進捗度が著しく低い宿題たちを見下ろしている。
毎年夏休みの最終週は自主練習という体になっており、宿題が終わった者から参加が出来るシステムになっている。
本来であれば登校しなくてもいいのだが、音々野々は宿題が終わり次第すぐに練習に参加するべくこうして部室で勉学に励んでいるというわけだ。
「部長は受験勉強大丈夫なんですか?」
「大丈夫と言えればいいんだが、指定校推薦はまだ色々と不確定だからな。何とも言えない。今日も文化祭二日間分のセットリストを千鶴と考えたら自習室に行く予定だ。太鼓の転換も併せて決めるよ。爛華も人前でやっておかないといけないし、色々と悩ましいところだ」
ランニングに出ていった柊を待つ間、音々野々の宿題の面倒を見てくれていた初春が少しだけ疲れたような顔をしてそう答えた。
百鬼総合の頼れる部長といえど、やはり受験のストレスは人並みにあるらしい。
明日葉はここ最近全く部室に顔を出していない。
普段昼休みなど少しでも時間があればいの一番に部室へ飛び込んで皆と食事をしたり太鼓を叩いたりしているだけに、一年生や二年生は少しだけ寂しさを覚えていた。
「受験って大変ですね。俺絶対乗り切れそうにないっす」
「あっは、だろうねぇ」
「ねぇ部長! 寿屋さんが俺にめちゃくちゃ意地悪言う!」
ニマニマと楽しそうに軽口を叩く寿屋に「こら」とさして怒っていない様子の初春が一言注意をし、再び止まった音々野々の宿題に視線を戻した。
問題集に広がる難解な数式に頭を抱える音々野々と、それを穏やかに見守る初春と杜若。
そして自身の休憩がてら後輩の哀れな姿を眺めていた寿屋の元に、三年生の黛がやって来て遠慮がちに声をかけてきた。
「バチの注文今日までだけど、まだ注文書出す人いる?」
「回収ありがとう、煉。俺と秋介はもう出してある。お前たちは?」
「俺頼みます! これ終わったら即効書きます!」
「あと一時間は終わらないから先に書いちゃいなよ」
一言付け加えた寿屋にまた音々野々がキィキィと反論の声を上げる。
和太鼓のバチは様々なメーカーが作っているが、百鬼総合は全て祭工房から購入していた。
片田舎から配送されるため、こうして定期的に自分のバチを注文しておかないと必要な時に全て折れて使えないという散々な目に遭うのだ。
明日葉も何度かそれで曲をすっ飛ばしているので、必ず注文のタイミングがきたら初春から最終確認をしている。
反論しようとしたものの、確かに時間がかかりそうなので音々野々が黛から受け取った注文書に記入を始めたその瞬間、セミナールームの扉がバタンと大きな音を立てて開き、額に汗をにじませた志貴が息を切らしながら駆け込んできた。
「遅くなってすみません、僕の分はこれでお願いします」
「ありがとう。うわ、随分頼むなぁ」
注文書を受け取った黛が反射的にそう呟くと、志貴が肩を落としながらまた「すみません」と小さく謝った。
寿屋以外の三人がどんなものかと志貴の注文書を覗き込むと、確かに長胴のバチだけで五組発注してあり、一度の注文では随分多い方に感じた。
大抵は二組から三組頼む者が多い。発注頻度も低いわけではないのでそれで十分足りるのだ。
そもそもバチが折れるというのはそれだけ歪んだ打ち方をしている可能性が高い。又はそれだけ酷使しているという事。恐らく志貴の場合はその両方であった。
それまで飄々としていた寿屋がさっと顔色を変え、注文書を提出した志貴の手首を掴む。彼を見上げるその瞳は、ゆらゆらと不安で揺れていた。
「雅、ちゃんとテーピングしてる? 血がすごいよ」
寿屋の言う通り、掴んだ志貴の手は握り締めていても分かる程赤く色づいている。
和太鼓と叩いていると、指の付け根辺りに肉刺ができることが多い。
バチを掌全体で握り締めるのだが、手全体で見た時に力を込めている部分と弛緩させている部分があり、ちょうどそこが付け根の辺りに当たるのだ。
三年生ともなれば、もうすっかり皮膚が固くなってそれが潰れることは滅多に無いのだが、まだ一年である音々野々や杜若は肉刺を作っては潰してのサイクルを何度も繰り返し、めそめそと絆創膏を貼っている。
肉刺が潰れると、皮が剥がれて内側の肉が顔を出す。
さらに夏場などで汗をかいていると酷く沁みる。正直バチを握って、それを力一杯振り下ろすなどとてもではないがやりたくない程痛むのだ。
一番良い回復方法は消毒をして負荷をかけず何にも触れないことなのだが、多くの部員はつぶれた箇所がそれ以上悪化しないように厳重にテーピングをして乗り切る。
そんな荒い治療を繰り返し何度も痛みを乗り越え、強い演奏者の手になっていく。
しかし、志貴のそれはあまりにも過剰であった。
「手開いて。バチだってもうこんなに赤くなってる。痛いでしょ?」
心配そうに眉を下げながらおずおずと差し伸べられた寿屋の手を、初春たちにも聞こえるほど強くパァンと音を立てながら志貴が払いのける。
行き場を失った手が、表情を暗くした寿屋の前に彷徨っていた。
それはいつもならば寿屋の言われるがままにする彼の、はっきりとした拒絶だった。
「……大丈夫です。自分で出来ますから」
寿屋と志貴は正反対な性格ながら、入部当初から常に二人で一つだった。
学年もクラスも選択科目も同じという事もあり、別々に行動している姿は滅多に見ない。
寿屋も志貴も人当たりが良く、それぞれ友人は多くいるはずなのに、寿屋がいつだって志貴の後ろを好んで追いかけた。
寿屋たちの周りは静まり返っているが、その他の生徒は何も気が付かずいつも通りに練習をしている。そのアンバランスさが、より一層志貴の異常なまでの拒絶を引き立たせていた。
「平気です、これくらい」
失礼しますと軽く頭を下げながら付け加えた後、志貴が寿屋と一切目を合わせないまま踵を返して部室の方へと戻っていく。
眼鏡の奥の瞳がどんな感情を孕んでいたのか、覗き込むことが出来なかった寿屋には分からない。
やがて来た時とは反対に、パタンと本当にささやかな音を立てて扉が閉まり、志貴の姿は完全に見えなくなる。
閉じられた扉と取り残された寿屋を交互に見た後、音々野々が控えめに声を上げた。
「志貴さん大丈夫っすかね」
「合宿が終わってからずっとあの調子で、明らかなオーバーワークだ。大丈夫なわけない」
先程まで音々野々をからかっていたいつもの寿屋はすっかり鳴りを潜め、かすかに震える声でそう答える。
寿屋の言う通り、志貴は合宿が終わってからというもの鬼気迫ったように日々太鼓を叩いている。
公演の為の練習では努めて平静を取り繕っているようだったが、自主練習期間が始まった途端に彼の練習態度は一転した。
そこまでする理由は当然オーディションだろう。先日、十條から正式に来校予定日の連絡があった。
大会に影響しないよう、九月の初旬には決定したいらしい。ともなると、オーディションはもう間もなく行われる。
「全然楽しそうじゃないよ」
握り締めた寿屋の両手の中には、今の志紀を救えるものなど何も無い。
***
彼らは綺麗に鏡合わせだった。
生真面目で努力家の志貴。自由奔放で天才気質の寿屋。
そんな二人が今の関係になったのは、間違いなく当時一年生だった寿屋の一言がきっかけであった。
「何でそんなに頑張るの?」
彼らの代も例に漏れず全生徒が部活動に所属しなければならなかったが、寿屋はというとどこの部活にも入部届けを出さず、何度も生徒指導室に呼ばれ再三指導を受けていた。
担任教師も彼の雲を掴むような雰囲気や態度に匙を投げかけていた四月下旬。
適当に生き、適当に学生生活を送っていた彼の前の席に座っていたのが志貴雅であり、当時の彼の手も今と同じように肉刺だらけだった。
常にぴしりと背筋を伸ばして真っすぐに黒板を見つめている彼の事は寿屋も前々から気にはなっていたが、自分とはタイプの違う存在だと思っていたので声はかけてこなかった。それどころか厳格そうな男だと煙たがっていた節さえある。
ただ後ろに座る自分にプリントを回す彼の手が、日に日にボロボロになっていくのがどうしても気になって、ある日の放課後そう尋ねてみたのだ。
好んで運動をしていない寿屋よりも小さな身体で、何かがいっぱいに詰まった大きなバッグを手にしたまま志貴がフリーズする。
入学して同じクラスにはなったものの、一言も話してこなかったピンクアッシュの青年から突然声を掛けられるという予想だにしない展開に必死で状況を整理しているらしく、その間寿屋は特に何も言わなかったので、二人はしばらく目を合わせて黙りこくっていた。
寿屋にはどうしても分からなかったのだ。何事も平均点以上に出来てしまう彼には、自分の手を血だらけにしてまで何を成し得たいのか。
やがて志貴が小さく、そしてふわりと花が咲いたように笑った。
今までは彼の背中か、もしくは時々見える真面目そうな横顔しか知らなかった寿屋がぴくりと体を少しだけ強張らせる。
それはまるで、昨日までなかった道端の花を見つけたかのような、そんな小さな感動に似ていた。
「頑張らないと楽しくないからですよ。僕は面倒な性格なので、出来ないと楽しくないんです」
初めて自分の為だけに掛けられた志貴の言葉。
少しだけ情けなく、けれど心底嬉しそうに志貴がそう言うと、寿屋は続けざまに質問した。
「君が出来ない事って何。俺には出来る?」
「えっ、それはどうでしょう。何せ僕は今日貴方とほぼ初めましての状態ですから何とも」
「そっか。俺、寿屋理央。君は?」
「志貴雅です。あの、ごめんなさい、僕そろそろ部活に行かなきゃいけないので、この話はまた明日でも良いですか」
この時はまだ志貴が出来ない事が何なのか、寿屋は知らなかった。それがこれから彼が向かう先で行われる部活動のことも。
しかし本能がそうさせたのか、寿屋が勢いよく立ち上がって志貴の手を取った。
しっかりと握られた彼の手から逃れるのは容易ではない。
行かなければならないと言った矢先に何故物理的に引き留められたのか全く理解できない志貴が、目を丸くして驚いた。
「頑張ったら出来るようになって、出来るようになったら楽しいの?」
「人それぞれなので……」
心の底から困ったように志貴が視線を彷徨わせるが、最後に寿屋と再び目を合わせて、また柔らかな笑みを浮かべた。
「でもね、僕は頑張っている間すら楽しいんです。毎日練習でくたくたになっても、絆創膏の下で掌が酷く痛んでも、明日も太鼓が叩けるんだって思ったら全て消えてしまうくらい。単純なんですよ、頑張れる理由なんて」
「俺もやる! 君と一緒に、俺もそれやるよ!」
ずいとゼロ距離にまで急接近した寿屋に志貴が肩を震わせる。
同じクラスの女子たちが狙いを定めるほどの顔立ちを有した彼が、今自分だけを瞳に映してる。
その事実があまりに非現実で受け入れがたく、すっかり寿屋に圧倒されてしまった。
いつもどこか空虚に感じられた彼の目がキラキラと期待に輝いているのを見れるのも、今は志貴だけ。
じわりと胸の辺りが暖かくなったのは、一種の優越感からかもしれない。
遅咲きの春がようやく寿屋にも訪れ、彼はその日のうちに入部届けを提出した。
***
様々な思いが交錯した夏休みが終わり、新学期が始まった。
二、三年生は爛華を、音々野々らは選抜に入れなかった二年生と共に新しい曲の練習をしていた。
大会が迫るとはいえ、百鬼総合の本来の活動方針は地元イベントでの公演である。大会曲ばかり練習してはいられないので、一年生も次々に新曲を詰め込まれている。
間宮は基本的に同じ内容をこなしているが、爛華の時だけ上級生に混ざって練習をしている。
オーディションまで残り一週間を切り、締めパートの雰囲気もどこか張りつめているようで、セミナールームに入ってきた彼は既に満身創痍だった。
「あっ、九十九くんお疲れ。大変だったね。通し三回やってたでしょ」
「……しんどすぎてキレそう」
「めちゃくちゃ疲れてんじゃんレア~。撮っとこ、ほらこっち向け」
話し方や纏う気だるげな雰囲気の割に姿勢は常に良いことが間宮の長所だったのだが、今はすっかり背中が丸まって今にも倒れ込んで眠りにつきそうだった。
そんな彼が珍しかったらしい音々野々が大はしゃぎでスマホを向けると、汚物でも見るような目で間宮がその姿を一瞥し、杜若に手をよろよろと伸ばす。
「よよ、屋台バチ貸して」
「絶対それで殴るよね! 気持ちは山々だけどごめん貸せない! 亜蘭くんもそんな事しない!」
わぁんと泣き言を呟きながら杜若が今にも音々野々に殴り掛かりそうな間宮を後ろから羽交い絞めにして引き留める。
体格的に間宮が杜若に勝てるはずもなく、しばらくもがいていたが、やがて諦めたように脱力した。
そうしてふと、自分の背中越しの感触が前と少し違う事に気が付く。
「ちょっと肉減った?」
「言い方!」
両腕を杜若に持ち上げられたまま首だけくるりと振り返ってそう言うと、耳元で杜若の悲壮を孕んだ突っ込みが響いた。
夏が終了し、少しではあるが杜若の体重は減少した。元々が平均を大きく上回っていただけに、痩せたというのが良く分かる。
変化が出やすいというのは自身のモチベーションを保つことにも繋がる。努力が目に見えて分かるのは喜ばしい事だ。
「爛華終わりにプロレスとはやるじゃねえか、間宮。延長戦で個人練付き合ってやろうか」
「練習はもういいんで助けて下さいよ、柊先輩」
たまたま通りかかった柊がニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべながら間宮を揶揄すると、彼も負けじと軽口を叩いてジトッとした瞳で睨む。
入部説明の時に一触即発だった二人ではあったが、同じ締めパートとして練習をしている間に雰囲気が随分とマイルドになった。
柊にとっていけ好かない新入生だった男が、いつの間にか真っ直ぐに太鼓を教えてくれと頼みに来るようになった。
やる気の無さそうな返事は相変わらずではあったが、教えれば教えるほど間宮は上達する。彼の成長速度は著しかった。
「ちょっと本当に休憩させて。もう九月なのに暑すぎなんですよ」
「柊さん、ちょっと見てもらいたい所があるんですが、今少しお時間良いですか」
げんなりと肩を落とした間宮のやや後方から声が一つ飛んでくる。
一年生たちと柊がそちらに視線を向けると、締めバチを握りしめながら真っ直ぐに、鬼気迫る眼差しをしている志貴が立っていた。
誰が見ても異常だと感じた。見るからに疲弊しきっているというのに心だけで何とか立っているというような印象。
志貴は前から真面目一辺倒で何事にも全力で取り組むような男ではあったが、ここまで追い込まれてしまうことは一度もなかった。
その前に彼の相棒が引き止め、危険な淵に立つ前に手を引いて連れ戻していたからだ。
時間にして二秒ほど柊が志貴の様子を黙って見つめた後、小さく首を横に振った。
「爛華なら断る。つーかそれ以外でも駄目だ。次の練習開始まで少し休め」
「僕に才能が無いから、間宮を優先するんですか」
「そういう訳じゃねえよ。変な方向に考えんな」
志貴の返事を聞いた後の柊の声は、先程のものと比べて格段に低く冷たくなっていた。
常日頃から先輩を立てて、自分は一歩引いたところから俯瞰することが出来るはずなのに、そこまで柊を逆立たせてもなお引き下がることなく正面から目を逸らさない。
「僕は高文連の舞台に立たなきゃいけないんです。もっと上手くなって、十條先生に認められないと、僕はここにいられない」
話し始めの頃はきちんと柊の目を見据えていた。
けれどその瞳はだんだんと色を失い、徐々に下方へと移動していく。
もうきっと志貴にも分からないのだろう。自分が一体何と戦っているのかが。
「もっと頑張らないと、もっとちゃんとやらないと、このままの僕は必要ない。だから」
「雅」
真っ青な顔をして俯いたまま小さな声で呟き続けていた志貴の右腕を、誰かがそう名前を呼びながらグイと後ろ側に引く。
銀色のフレーム越しに見える瞳が大きく見開かれ、その瞳孔の奥に寿屋が映った。口を軽くへの字に曲げて、眉間に皺を寄せながら志貴を見つめている。
そうして彼は、今最もかけるべきではない言葉を悠々と口にするのだ。
「頑張ったって意味無いじゃん。もうやめなよ」
セミナールーム内に戦慄が走る。
残暑が厳しく、室内にいても十分汗ばむ陽気だったのだが、鳥肌が立つほど空気が冷え切ったのを皆が感じていた。
場を凍り付かせた張本人である寿屋だけが唯一何でもないような顔をして、さらに自分が持つ銃へ弾丸を込める。
「今、何と言いました」
「努力するだけ無駄だって言ったの。雅は俺より頭良いのに何で分かんないの? そこまでするほどの価値が爛華にある? いいじゃん別に大会なんか出られなくたって」
「貴方は選抜が決まっているからそんなことが言えるんだ!」
志貴がここまで激高する姿を、柊や音々野々ら他学年の生徒はおろか、同じ二年生だって誰一人見たことが無かった。
一番後ろで着替えをしていた生徒たちにすらその怒号は届いたようで、ひょこひょことあちこちから顔だけが覗く。
「さぞ気分が良いでしょうね。その椅子は座り心地が良いですか?」
「良いよ。もう絶対に手離したくないくらい良い」
志貴の悪態をさらりと受け流す寿屋。
普段からあまり他人を貶めたり傷付けたりする言葉を選ばない志貴に、目の前の誰かを罵倒する言葉はすらすらと出てこないのだ。
そのことを寿屋も良く知っている。だからこそ一つ一つの言葉をゆっくりと待っていた。
「僕はいつまで経っても下手だし、才能もないから、人より何倍も努力しないといけないんです。僕が此処にいる為に、ここで叩く為に、必要とされるには、貴方みたいにならないと駄目なんだ」
「お前は何の為に太鼓叩いてるの?」
再び志貴の顔から光が消え始めた時、寿屋の一言が彼を撃ち抜く。
「爛華のメンバーになる為? 大会に出る為? 上達して誰かに認めてもらう為?」
「それは……」
寿屋の問いかけに志貴が言い淀む。
その瞬間、彼の油断しきっていた両肩に正面に立っていた寿屋の両手が力強く置かれ、がくんと前後に一度揺さぶられる。
伸ばされた両腕の間に寿屋の顔が収まっているので、彼がどんな表情で志貴に縋り付いているのかは誰にも分からない。
ただ少し下の方から聞こえる彼の声が小さく震えている事しか、志貴には分からなかった。
「雅が俺に言ったんじゃん。楽しいって思う為に叩くんでしょ。じゃあ今お前の楽しいはどこ?」
一年前の春、透明なものばかりだった寿屋の世界に様々な色を注ぎ込んだのは紛れもなく志貴だった。
心を動かされることが無い半端な彼に、多くの感情を与えたのも。今この明るく眩しい、喝采溢れた舞台へ引き上げたのも、全て彼。
俯いたままで顔を上げようとしない寿屋の声は、だんだんと涙ぐんでいく。
「めっちゃ太鼓下手でも良いよ。俺は雅の音が好きなんだ。ただ笑って一緒に叩いてくれるだけでいい。頑張れなくたって、進むのを止めたっていいよ。俺はどんな雅でも好きだし、必要なんだもん」
「理央」
「今の雅は全然楽しそうじゃないよ。俺の好きなお前じゃない。だったらもう止めよう。他の楽しいことを俺と一緒に探しに行こう?」
最後の提案と共に寿屋はぱっと顔を上げて、志貴と目を合わせる。
その顔は案の定涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっており、常に不敵な笑みを浮かべて余裕綽々としている彼からは想像できない姿だった。
寿屋の言う「止める」というのはただ爛華のオーディションを辞退するというだけではなさそうだった。
大事に思う人がここまで苦しい思いをするなら、自分も共に太鼓を手離すという覚悟すら感じる。
寿屋も太鼓が好きだった。
きっかけは確かに他人ではあったけれど、今では自分を最大限、最高の形で表現できるのは百鬼総合の和太鼓部であると思っている。
それでも彼は志貴を選ぶのだろう。
志貴の両肩を掴む手に力がこもる。絶対に離さないという意思が手に取るように分かった。
数日前に振り払われてしまったその手を、もう二度と彷徨わせないようにと。
「でも、お前がまだここで頑張るって言うなら、一個だけ俺と約束して」
「約束、ですか」
掠れる声で志貴が掛けられた言葉を繰り返すと、寿屋は無言でこくりと頷いた。
「俺を置いていかないで」
寿屋の少し垂れた瞳から大粒の涙が溢れ、頬を伝って床に落ちていく。
常に自分の楽しいを己の思うまま体現する寿屋と、努力で走り続ける志貴。
他者が見れば志貴が必死で彼を追いかけているように見えるだろう。
けれどいつだって寿屋は大事な同級生の隣を走り、時に手を引いて、同じ歩幅で歩いているのだ。
「俺をここまで連れてきて、一生忘れられない光を与えたくせに、自分は暗がりの中に逃げ込んで一人で泣くなんて、絶対許さない」
それはあまりにも鮮やかな拘束だった。
寿屋は、自分を拾い上げて新しい世界の中へ引き込んだ罪を彼に償わせるつもりなのだ。
「俺と一緒に叩くのは、雅の義務だ」
今も涙は絶え間なく流れているというのに、その瞳は強い想いを孕んで志貴を射抜いていた。
やがて根負けしたように志貴がはぁぁと大きなため息を一つ吐いて、その光を受け止めるべく真っ直ぐに寿屋を見つめ返す。
思えばとても久しぶりなような気がした。お互いの存在をちゃんと見据えるのは。
「……敵いませんね、貴方には。努力しないと理央には追い付けないんですよ。反対にいきなり頑張らないのも無理です。知ってるでしょう、僕の面倒な性格を」
「知ってる。俺は頑張り屋さんの雅も大好きだもん」
選抜メンバーが発表されてからというもの、ずっと彼らの間には見えない壁があった。
それは才能を持つ者と持たざる者の明確な差であり、今までの立場を否定する残酷な現実であった。
互いがどこか気まずさを覚え、何かに遠慮し、遠ざけて接していた。
名付けられない陰鬱とした霧を払う事が出来ずに、ずっと見えないものを相手にしていた。
「楽しいね、雅」
だがそれも、目の前でふわりと屈託なく笑う彼が一掃していく。
疲れて歩むのを止めてしまっても、志貴は必ずもう一度歩き出さなければならない。
そのペースがどれだけ遅くとも、逆に全速力であっても、彼の空を晴らした男は必ず隣を走るのだ。
青空を背に手を伸ばして、同じ質問を繰り返しながら。
***
オーディションまであと二日に迫ったある日、部室を一、二年生が使用している間、間宮はそちらの練習に参加せず、爛華の自主練習をするべくセミナールームの最端へ自分の分の締め太鼓を運んでいた。
セミナールームは後ろに行くにつれて斜めに席がせり上がる構造になっているが、後ろの扉からも入れるように、ドアの前は席が削られてやや独立した空間になっている。
一人で練習するには打って付けの場所であり、主に寿屋が占有していた。
場所を確認した時は誰の姿も無かったので、早い者勝ちだといそいそ太鼓を運び入れる。
前方では初春たちが何やら話をしているのであまり大きな音を出すべきではないと思い、持ってきた布団用シーツを太鼓の上に乗せて数回叩く。
若干こもったような音になってしまうが、自分が聴く分には十分な音量だ。
軽く背伸びを一つした後、小さく息を吸ってバチを握りしめたその時、頭上から「あれぇ」という間の抜けた声が飛んできた。
「取られてた。残念。俺の特等席なのに」
「すみません。退きますか?」
案の定この場所で練習しようと思ってやってきたらしい寿屋が、階段の上から少しばかり残念そうな声を上げて段下の間宮を見下ろす。
先に取ったとはいえ、後輩であり、かつこの場所を寿屋が好んで利用していることを知っているので一応遠慮がちに声を掛けるが、寿屋は首を横に振ってその提案を退けた。
この場所での練習を諦めたのならば早々に撤退するかと思っていたが、間宮の予想とは反対にそのまま軽快な足取りで階段を下ってくる。
やがてその途中に腰を掛け、自分の膝に肘を置いてじっと間宮の事を見つめてきた。
割と饒舌でよく頭の回る印象のある寿屋が、黙り込んで自分をじっと見つめているという状況がどうにも居心地が悪く、間宮は一瞬ばつの悪そうな顔をしてから、くるりと彼に背中を向ける。
そのままシーツを掛けた締め太鼓にバチを振り下ろし、爛華を頭から一人で演奏し始めた。
太鼓を叩き出せば、世界は自分だけのものになる。
誰の声も聞こえない、雑音も騒音も不必要な情報は一切無い。ただ自分の奏でる音だけが響く。その感覚が、間宮は一等好きだった。
太鼓に向かって正面に立ってしまえば、自分の背後にいる寿屋の存在も一切気にならない。
一人で練習しているからこそ味わえる贅沢な孤独。己を最も高める最高の集中。
「楽しい? 太鼓」
そんな声が、不意に間宮を日常へ引き戻した。
勿論同じ演奏者として彼の練習を邪魔しないように十分配慮して選んだタイミングであったし、ちょうど間宮も一区切りして問題点を見直そうとしていた時だった為、そのまますっと顔から色を無くして寿屋の方を振り返る。
そこには眠そうな目を細めながら、ふわりとした笑みを浮かべる寿屋が座っているばかりで、他には何もない。
一つ目の質問に間宮が答えるよりも前に、寿屋が小さく肩を落としながら話を続けた。
「俺はね、十條先生が選ぶのはお前だと思うよ」
一切予想もしなかった彼の言葉に間宮が目を丸くする。
対照的に寿屋はいつも達観したように部室を眺めている時と同じ表情で、淡々と言葉を続けた。
「他の人たちがお前よりもずっと下手なわけじゃない。でも、その人たちよりもお前は上手だ。だから十條先生はお前を選ぶ。きっとね」
「……志貴先輩はどうなるんですか」
心から志貴の事を大事にしている彼が、影口を叩くようなことはあり得ない。
だからこそ間宮は自身の中に浮かんだ一つの可能性を受容できずに、思考を停止させたのだ。
あぁ、ついに目の前の彼はそこまで辿り着いてしまったのだと。
自分が知る中で最も優れた演奏者である、御来屋棗と同じ世界に。
「雅と同じ舞台に立ちたいよ。俺は雅と叩いてる時が一番楽しいもん。でも、十條先生は俺と同じだから、ステージに上がる資格があるかどうかを人柄で決めない」
これは志貴に対する低評価でもなければ、才能ある間宮に対する恩売りでもない。
ただ一人の演奏者として、視点を変えた時に見えた事実の提唱だ。
「演奏に対する優劣が点数として可視化される舞台で必要なのは、学生らしい青臭さでも頑張ってる感でも無い。技術と才能だ。だから選ばれるのは間宮であるべきだし、雅じゃない」
最後まで神妙な面持ちで言葉を紡いだ後、寿屋はぱっと顔を上げて間宮と目を合わせる。
突然射抜かれるように見つめられた間宮がびくりと肩を震わせて目を逸らすのと同時に、寿屋がにっこりと笑ってみせた。
「俺はそんなに大した奴じゃないですよ」
「知ってる。でも、俺は期待してるよ」
手にしていた笛をペン回しのようにくるりと掌の中で回転させ、寿屋はまた小さく笑う。本当に彼はよく笑う男だった。そして、笑顔が似合う人だった。
踵を返して階段を上り、やがてその背中は見えなくなる。
そうしてようやく、ずっと間宮の肺の中に溜まっていた様々な感情と多量の空気を吐き出せた。
「……重」
それだけ小さく呟いた後、間宮は携帯のカメラを起動し、動画撮影のボタンをタップした。
*
「いやぁしかし百総の警備は甘いな! 俺のような人間でも一切何も言われずここまで辿り着けてしまったぞ。大事な太鼓が盗み出されたらどうする!」
「部員がいないときは施錠していますし、きちんと正門には警備員さんがいますから。またどうせ髪のせいで引っ掛かるのが面倒だからと農業関係者の通用門から入って来たんでしょう」
「あっはっは! 色々と都合が良いだろうあの入り口は!」
「本来なら都合よくホイホイ通れないですよあそこは」
げんなりと肩を落としながら結城がそう呟くと、隣を歩いていた十條が廊下の端まで届くのではないかという大音量で高々と笑った。
誰もいない農業科準備室で悠々と煙草をふかしていた結城にとって十條の来校はテロのようなものだった。
あらかじめ予定日時は報告されていたが、よもやそれよりも三時間早くやって来るとは夢にも思っていない。
嵌め込まれた硝子が割れるのではないかというくらいの力で叩かれた扉を大慌てで開錠したところ、次に自分の耳に飛び込んできたのは夏の間嫌というほど聞いた十條晴彦の元気いっぱいの声である。
明るく天真爛漫な彼とは正反対の不健康陰鬱教諭である結城にとっては、もう少し心の準備をしてから再会したかった。
「生徒たちはもう揃っているのか?」
「えぇまぁ。休日ですから朝からいつも通りのスケジュールで練習していますよ。オーディションは午後からと伝えてあります」
「ふむ。突発的な実力を見てみたい気持ちもあるが、時間を指定したのは俺だからな。その間は他の生徒たちの練習を見るとしよう」
窓から吹き込んだ風は、まだ生温さを残してはいたが、すっかり秋の香りを孕んでいた。
*
十條の早すぎる来校は部室に戦慄を走らせたが、すぐに数名の生徒が駆け寄ってあれを教えてほしいこれを見て欲しいと彼に話しかける。
爛華に関してはオーディションが終わるまでは一切誰の面倒をみないと決めたらしく、一年生たちが屋台を習いに行ったり、三年生や二年生も爛華以外の曲を十條に教えてもらったりと、皆がそわそわとしていた。
その様子を少し離れた所で見ていた間宮が軽く自身の両手を握りしめた瞬間、すぐ傍に置いてあった自身の携帯が振動した。
誰かから着信しているらしく、音は流れていないが不規則なバイブレーションが机を小さく鳴らしている。
ディスプレイに表示された名前に刹那顔を歪めるが、騒がしい空間に背中を向けてから通話ボタンを押す。
「何」
『今日でしょ。どう? コンディションは万全かい?』
「大事なオーディションの前につまんない確認で連絡してくるなよ。別に、俺は結果なんてどうでもいいから適当にやるだけ」
『そうかそうか。なら問題ないね』
通話口から聞こえる声は随分嬉しそうに聞こえる。
間宮の言葉からはとても喜ぶべきものは伝わってこないが、話し相手である御来屋棗は心底明るい声音でそう答えた。
彼の真意が分からず間宮が電話を切ろうとした瞬間、再び彼が喋り出す。
『頑張っておいで。大事なオーディションだものね』
「何だよその言い方。ムカつく」
『昨日と同じ事が出来れば何にも心配いらない。今のお前は最高の状態だ。僕が言うんだから間違いないよ。その程度のオーディションは余裕で通過できるくらいには仕上がってる』
「ちょっと、棗」
『良い報告を期待してるよ、九十九。いいね?』
御来屋は基本的に間宮に対しては柔らかな対応をすることが多いが、時々氷のような冷ややかさを孕むときがある。
二歳しか違わない上に、他人に対して表立った敬意を払うことは滅多にない間宮が口を一文字に閉じて、ただ一言返すことしか出来ない程、彼は全てにおいて圧倒的だった。
「……はい」
その小さな返事を最後に通話が終了したスマホの画面を見下ろしながら、間宮は現実から逃げるように強く目を瞑った。
*
「さて諸君準備は良いな。それではオーディションを始める」
十條の良く通る声が部室の隅々に広がり、ゆっくり反響していく。
最前列に並んでいる締め太鼓の保留生徒たちは、間宮を除いて皆一様に緊張した面持ちをしていた。
「今回は他のメンバーが決まっているという点を加味し、全体のアンサンブルからも判断したい。一人につき一回曲を通す。既に決まっているメンバーたちはずっと叩きっぱなしになるが、まぁ力試し程度に捉えると良い。だが手は抜くなよ。お前たちの音の一つ一つが、今保留している彼らの進退を決めるんだ」
爛華の総演奏時間は八分にも及ぶ。各パートのソロがあるといっても何分間もぼんやりしているわけではない。
常に気を張って己の一打を待たなければならず、極限の集中を続けることは心身ともに非常に疲弊する。
しかし、自分が一度でも手を抜いた時のオーディション候補者の事を考えると、その人の為に常に満点の演奏をしなければならない。
部室にピンと張られた良い緊張の糸に、十條が口元を緩ませた。
「ではまず加賀。準備できたら始めてくれ」
先程十條に指名された候補者が叩き終われば、次は志貴の番になる。
いつもならこういう不安な時は必ず隣に寿屋がいてくれるのだが、今その彼は目の前で選抜メンバーとして精一杯演奏をしている。自分の隣にはいない。
その横に立つには、自分の脚で飛ばなければならないと、既に彼は知っている。
やがてあっという間の八分間が終わり、連続演奏になる生徒たちが簡単な水分補給を終えた後、結城から志貴に入るよう声が掛かる。
「あんま気張るなよ。今のお前の演奏を精一杯やりゃいい。気楽にな」
「ありがとうございます。何だか珍しいですね。先生がそんなこと僕に言うなんて」
「うっせ」
少し俯いていた背中に、結城の拳がとんと置かれた。
基本的に生徒たちに平等であり、そして同じように均等に興味を持たない結城がこうして個人に励ましの声を掛けることは非情に珍しかった。
傍から見たらそれほど自分は緊張しきっていたのかと思ったが、結城の声掛けで気持ちが和らいだのは確かだ。
「いってきます」
小さく呟かれた声は、その背を見送った結城にも、彼を舞台上で待つ寿屋にも、同じ立場で膝を抱えていた間宮にも同じように届いた。
*
このオーディション中、一年生や既に候補から外れた二年生は全くと言っていい程することが無いので、見学希望者以外は自主練習が出来ることになっていた。
しかし音々野々と杜若は率先して部室にやって来て、いそいそと特等席に座り込んでいる。
志貴の回が終わり、次の一回へ皆が準備をしている最中、音々野々が隣に同じように座っていた間宮に小さく声を掛ける。
「この中に入れるなんてすげえな九十九。めちゃくちゃかっけーよ爛華」
「オーディション受ければチャンスくらいは貰えたでしょ」
「一年は立候補制じゃなかったし、つか受けても絶対足手まといだった」
「俺だって同じだ」
雑音や話し声で溢れた空間で、ぽつりと小さな声で間宮がそう言ったのを聞いていたのは音々野々だけであった。
そのさらに奥に座っていた杜若は高揚した様子で辺りをきょろきょろと見まわしている。
「俺より志貴先輩の方がずっと合ってる。俺が入ったって邪魔なだけ」
「何で?」
徐々に下がっていった視線を強制的に上げたのは、音々野々の冷たい聞き返しだった。
「……は?」
「誰が九十九のこと邪魔だって言った?」
「誰って。別に言われてないけどどう考えてもそうでしょ。入ったばっかの俺より、一年同じ部で活動してた人の方が良いに決まってる」
「仲の良さは関係無いんじゃないの。だってこれ実力で決めるんだろ?」
ひくっと間宮の顔が引きつる。
そんな事はとうに分かっていた。
寿屋にも十條にも言われたことであったし、何より自分がオーディションを受ける権利を与えられたのも実力があったからだ。
先輩たちとの調和性を重んじるのであれば音々野々の方がずっと適正だし、とてもではないが間宮が選抜されることは無い。
分かっている上で見たくないと目を背けたことを、改めて正面から伝えられると酷くバツが悪い。
しかも真隣に座る男は自分が抱えた感情の全てをオブラートに包まず全て相手に伝えてくるタイプだ。
そうこうしている間に準備が整ったらしく、結城が間宮に向けて手招きをした。
「頑張ってね、九十九くん」
「バシッと決めてこいよ!」
立ち上がったすぐ下で同級生二人が明るく声を掛けてくる。それらを見下ろす彼の顔には、何の色も浮かんでいなかった。
*
「雅!」
全ての候補者の演奏が終わり、十條と結城が別室で最終選定を始めた頃、少しだけ額に汗を滲ませた寿屋がセミナールームの一番後ろに座っていた志貴に声を掛けた。階段を一気に駆け上がってきたからか息が上がっている。
通し練習の疲労が窺えるが、その満開の笑顔に心配はかき消されてしまった。
「本当は終わった後すぐ声掛けたかったんだけど、次の準備しなきゃいけなかったから言えなかったよ。間髪入れずに次行くじゃん、もうほんっとしんどかったぁ。俺笛だから良かったけど、明日葉さんとか柊さん最後の方鬼気迫ってたもん」
「あはは、そうですね。僕も傍から見ててそう思いました。ラスト一回間宮君の時とかは逆に気合入ってましたもんね」
「……本当にお疲れ。いっぱい頑張ったね」
寿屋の笑みが移ったのか、志貴もつられてふわりと微笑んだ瞬間、その頭に彼の優しくあたたかな手がポンと置かれた。
いつもは逆だった。褒めて褒めてと寿屋が志貴にせがむため、こうして撫でてやることが多かったけれど、今は違う。
穏やかな笑顔を浮かべて、自分の方が泣きそうな顔をして、寿屋は優しく志貴を労っている。
きっとお互いに全て分かっているのだろう。まだ直接口に出されてはいないけれど、一体誰が舞台に立つのか。それが自分なのかどうか。
「貴方と叩けて楽しかったです」
刹那、志貴から吐かれた言葉に寿屋が息を止める。
理解してはいるが、そうやって面と向かって言われるとかなり堪えるものがあった。
それでも暗くならないよう、寿屋は精一杯口角を上げてみせる。
「最後みたいな事言うなよ。まだまだ始まったばっかりじゃん」
「そうですね。来年は僕が最上級生です。それまでに追いつきますから。きっと、僕は」
最後の方の声は、すっかり掠れて途切れ途切れになってしまっている。
眼鏡の奥の瞳から一粒涙が溢れれば、もうそれを止める手段はどこにもない。はらはらと零れ落ちる大粒のそれを、寿屋がそっと親指で拭った。
「ごめんなさい、理央……っ」
あと少し自分に才能があれば、こんな涙は流さずに済んだのかもしれない。
大事な人と同じ舞台に立てない不甲斐なさと罪悪感で押し潰されそうになる。心臓を直接鷲掴みにされて握り潰されそうに苦しい。
それでも自分の胸を強く握りしめてそうさせないようにするのは、自分を慈しんでくれる寿屋の為に、また走り出さなければならないから。
最後の一粒が床に落ちた瞬間、志貴が勢いよく顔を上げて真っ直ぐに寿屋を見つめた。
大きな彼の目は、涙でぼやけてはいたがしっかりと寿屋を映している。
「ずっと支えてくれてありがとう。こんな事を言いたくは無いですが、お願いします」
お願いとは言ったが、志貴は一切頭を下げずにずっと寿屋と目を合わせている。
あくまでもこれは大会曲のオーディションである。
これに落選したからといって今後一切活動出来なくなるわけでもなければ、曲数が減る訳でもない。大会ではなく普通の公演の爛華には交代メンバーとして当然出演することもあるだろう。
けれど今この瞬間、悔しさに泣いたって誰にも咎められはしない。
「僕の分まで、貴方が輝いて下さい」
遠くで二人を呼ぶ声がする。十條が戻ったらしいので、もうすぐ結果が発表されるのだろう。
もう泣き止んだとはいえ、まだまだ志貴は涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。一度顔を洗う時間を稼ぐ為か、寿屋が黙って志貴を水道の方へぐいと押し出し、自分は部室の方へ体を向ける。
そうして彼はいつもよりも少し低く、凛とした声音で志貴の願いに返答した。
「任せろ」
*
オーディション中に自主練習をしていた生徒たちも含めて発表をするらしく、今はセミナールームの前方に全ての部員が集合している。
「既に確定しているメンバーはだいぶきつかっただろうが、最後の一回まで気合が入っていていい出来であったと思う。お疲れ様。それで締め太鼓パートの最後のメンバーだが、選定に時間がかかってしまってすまなかったな。もうこんな時間だ」
そう言いながら十條が壁掛け時計を見上げると、もう時計の針は下校時間に差し掛かっていた。
休日は定時制の校内利用が無いとはいえ、あまり遅くまで練習することは全部活動共通で例外時を除き認められていない。
静かに候補者たちをくるりと一瞥してから、十條がすうと小さく息を吸い込んだ。
「大会出場メンバーには、間宮九十九を選出する」
静まり返った部室に投じられた一石は、綺麗な放物線を描いて間宮に着地する。
皆の視線が一様に間宮へと注がれ、その後初春を起点とした拍手がわっと沸き起こった。
一番大きな拍手をしていた音々野々が隣に立っている彼の事を誇らしげに見やると、次の瞬間にはサッとその顔色が変わった。
その目に映した彼が、あまりに無であったから。
「ごめんなさい。俺、やっぱり降ります」
鳴り響いていた拍手は一瞬で消え、その場にいた全員がそれぞれの形で驚きを示した。
最も驚いた様子だったのは音々野々であるが、その次は意外にも志貴であった。
三年生の中にも動揺は走っただろうが、柊含め既に選抜されている生徒たちは何も言わない。
「ほう。それはまた随分と急場での辞退だな。理由があるなら聞こう。なければ選抜はお前だ。よもや俺の顔に泥を塗るつもりではあるまい」
「先生の判断に異議を申す訳ではないです。ただ、こんな何となく叩いてるような奴が選ばれるべきじゃないって、そう思っただけです」
間宮が何事にも無感動で取り組んでいることは皆知っていた。
けれどそれはあくまでも感情の起伏が薄いだけで、内心はきちんと自分の気持ちで、自分の想いで動いているのだと信じて疑わなかった。
けれど、それは誤りだったのかもしれない。
「楽しくないんです。……いや違うな。何だろう、えっと、他の人たちほど熱が無いっていうか、だから俺みたいな奴が大事な舞台に立つのはどうかと思うんですよ」
「間宮、少し落ち着きなさい」
「最初は実力があれば良いかって思ってました。先輩たちは高文連で結果が出せればいいんでしょって。その為のファクターになるんだったら俺は別に何とも思わず参加できます。勝つ為の歯車になるんだって思えば、そこに楽しさとか充足感は要らないじゃないですか」
常にロートーンで話す間宮が、珍しく少しだけ声を荒げて淡々と話し続ける。
結城の静止も聞かずに、ただ一点自分の足元だけを見つめながら、ただひたすらに想いを吐き出し続けた。
その様子をただ黙って十條が見つめ、その他の部員も何かに圧倒されているように一言も言葉を発しない。
「俺はこんなにたくさんの想いが溢れた場所にはいられない。分からないんです。何でそこまで本気になるのか。たかが部活に泣いて怒って悔しがれるのか。俺は誰かに望みをかけて、願いを託して、そしてそういうものを背負える人間じゃない」
そうして最後に、小さく肩を落としながら彼は呟く。
「俺には、多分無理です」
***
何も持たない両手は、常に軽くて不自由だった。
「御来屋さんの息子さんは凄いわね。中学校から名門私立に通ったかと思ったら、今度はあの神々廻高校でしょう? 親御さんもさぞ鼻が高いんじゃない」
「しかも部活は和太鼓ですって。日本男児らしい素敵な選択ね。さすがは棗君だわ」
間宮の幼少期からの幼馴染であり、かつ従兄でもある御来屋棗は、超難関私立男子校で三年間過ごしたと思ったら、今度は文武両道を教育指針に掲げ、偏差値七十五を誇る共学中高一貫校の神々廻に首席で編入した。
「九十九も大丈夫よ。同じようにしましょうね。貴方なら出来るわ、きっと。いいえ、必ず」
間宮九十九の母親は、自分の息子よりも御来屋の方を常に優先した。
何事も御来屋に選択を仰ぎ、間宮のことは全て彼や御来屋家の人間に決めさせた。
そうすることが自身の息子の成長に最善だと思っていたし、優秀な彼の言う事は絶対正しいと信じ切っていたからだろう。
幼少期に与えられた玩具も菓子もぬいぐるみも書籍も、全て御来屋の思慮が及んでいないものは一切無かった。
「お前は僕の言う通りにすればいい。それが一番正しいんだよ。いいね、九十九」
「うん。全部棗が決めて」
御来屋が神々廻の宿舎へ入寮するまでの約十五年間、彼らの歪な関係は日常として世界に溶け込んでいた。
生まれた頃からそうあることを当然のように義務付けられれば、御来屋に自身ことを決定してもらう現実に一切の疑問を抱くことは無い。
少しずつ間宮九十九という一つの人格が希薄になっていくのを、彼の両親と御来屋は正しい成長過程として温かく見守った。
そうして、いくら優秀とはいえ二つしか歳の違わない従弟の全てを決定するということは、少なからず御来屋にも歪んだ常識を植え付けた。
けれど彼は巧妙にその誤った価値観や思想を隠匿し、常に笑顔で間宮と接するのだ。
「別に僕と同じ学校に進学する必要は無いよ。その辺の学校に適当に入学して、そこで上位に入れば良いじゃない。どこか希望は無いの?」
「無いよ。全部棗が決めてくれないと、俺には何にもない」
そうやって間宮が目を伏せる度、御来屋の中に根付いた征服欲が顔を出しては彼の自尊心をひたひたと満たしていく。
何も出来ない、何も決められない間宮を導けるのは世界で自分だけだという特別感。
それに加え、間宮は彼が何かを注ぎ込めばそれを素直に享受し、予想以上の成果を上げるほど才能に溢れていた。勉強も運動も何もかも、彼には十二分に出来た。
「そうだね。全部僕が選んであげる。そうやってお前は出来てるんだから」
しかし一度たりとも間宮の周りの人間は言ってやらなかった。
彼が有する才能も、実力も、それらは自ら使いこなすものではなく他人の物だと決めつけて押し付けた。
しかしながら、学生時代に一度だけ彼の転機とも言える出来事が起きる。
とはいえそれは良い方向のものではなかった上に、確実に間宮の中で入れてはいけないスイッチを入れてしまった。
当時間宮は市立の中学二年生で、既に御来屋は神々廻に進学して日々顔を合わせることは無くなっていた。
この頃から、間宮は自分の中にある空虚な部分を上手に隠すことが出来るようになっていた。
ただぼんやりと無気力に生活しているように見えるように、本当は様々な選択から逃げ出しているということを悟られないように、全てにおいて無関心を装うことが得意になった。
「間宮君、ちょっとだけお願いがあるんだけど、今時間良いかな」
夏の色が薄れて、秋が本格的に顔を出し始めた九月下旬。
衣替えがまだ済んでいない生徒が多く、ほとんどの者が夏の名残を感じる半袖で教室辺りを楽しそうに駆け回っている中、間宮はきちんとアイロンの掛けられた長袖のワイシャツを着ていた。
「何」
「ごっ、ごめんね! あの、進路希望出してないの、間宮君だけだったから、どうかなって」
そう声を掛けてきたのは華奢な印象の女子生徒だった。名前は分からないが、同じクラスであったという事は覚えている。
自分から話しかけたくせにどうしてそんなにオドオドするんだろうという疑問はさて置いて、確かに間宮はまだ進路希望調査票を提出していなかった。
担任から出すように言われていた期日は確か今日だったかと今更ながら思い出す。
進学する高校に関してまだ棗とよく話せていない。神々廻と書いてしまっても良かったが、どうやらこの調査票はこれからの授業計画等にも役立たれるらしいので適当な事を書くべきではないと思って放置してしまっていたのだ。
従兄に相談してないから出せない。
そう言うのも憚られたので、少し申し訳なさそうに小首を傾げて女子生徒を座ったまま見上げた。
「ごめん。まだ決まってないから、出来たら自分で出す」
「そうなんだ! あっ、急かしちゃったみたいでごめんね。間宮君頭良いから色々選べるもんね、迷っちゃうよね」
「馬鹿だと選択肢減るの?」
それは純粋な疑問だった。
決して目の前の女子生徒の偏差値をどうこう言うわけでもなければ、自分の学力の高さをひけらかす訳でもなく、ただ単純に選択をすることが不得手な彼が突発的に気になったことを口に出してしまっただけ。
質問の内容が一般的に失礼に値することだという事に気付いたのは、声に出してからだった。
しばらく二人の間に沈黙が流れ、それを破ったのは女子生徒の軽やかな笑い声だった。
先程までのようにびくびくと愛想笑いでも浮かべるのかと思っていた間宮にとっては、彼女の爆笑に驚きを隠せない。
やがて落ち着いたのか、彼女は目元の涙を拭いながら間宮と目を合わせた。
「そうだね。選べる範囲も狭まっちゃうから、私みたいな出来ない子は選択肢少ないよ」
「勉強、見てあげようか」
「本当? わぁ、嬉しい! 間宮君に教えてもらえたら百人力だよ! 次の中間もバッチリだね!」
「それは努力次第でしょ」
机に頬杖を突きながらやや気だるげに答える間宮とは対照的に、たくさんの調査票を手にした少女は、飛び跳ねながら喜びを表現した。
それは間宮にとって初めての経験であった。
自分が他者に何かをしてあげるという事を今まで一切してこなかったわけではないけれど、自分の意志でそう行動したのはこれ初めて。
彼女の学力向上の為に放課後自習室に通う日々が続いたある日。
ちょうどテスト範囲の数学問題に取り組んでいる時に、御来屋から連絡があった。
足早に自習室を出て、スマホの画面をタップする。
「もしもし。ごめん、クラスメイトに勉強教えないといけないから、また明日連絡する」
『……ふぅん。それは九十九が望んでやってる事?』
「そう、かな。俺がそうしたいって思った」
電話の向こうの御来屋が口を閉ざした。
しかし次にまた聞こえてきた彼の声は、いつも通り明るく眩しく、正しかった。
『うん、お前の思うようにして御覧。好きにすると良いよ。頑張ってね』
御来屋がそう間宮に声を掛けた時は、間違いなく労いの言葉に聞こえた。
その裏に隠されているドロドロとした真っ黒の感情に、彼は気が付かない。
*
間宮が転落していくのに、そう時間はかからなかった。
「どうしてこれくらいの問題が理解出来ないの?難しくないじゃん、これ以上どう説明したらいいか分からないんだけど」
他人に対して能動的に行動をするという当たり前のことを行ってこなかった彼にとって、知力の低い人間に歩幅を合わせることは非情に難しかった。
最初は前向きに勉学に励んでいた女子生徒は日に日に光を失っていき、間宮から与えられる辛辣な言葉たちにすっかり疲弊しきってしまった。
決して間宮は彼女を罵倒するために言っているのではない。多くの台詞は彼女を心配して掛けられたものである。
しかし、無意識の刃の切っ先は常に同級生の首元に向けられていた。
「間宮君はさ、優しくないよね」
注意していなければ聞き逃してしまいそうなほどの声で、女子生徒は言った。
「君には出来ない人の気持ちは分かんないよ。私がいつまで経っても公式理解できないのと同じ」
「優しさって何。それって勉強に必要?」
御来屋棗は常に正しく無駄のないことしか間宮に言わなかった。
だからどうして目の前の彼女が泣いているのか。手にしていたシャーペンの鋭利な切っ先が自身の右目の下を横凪に通過していったのか。全く理解できなかったのだ。
皮膚と肉が切り裂かれた鈍い痛みが頬を中心に広がるが、間宮は彼女から目が離せない。
最初に自分へ声を掛けてきた人は、もうどこにもいなかった。
「自分で考えたらいいんじゃないかな」
少しばかり学は無かったが、無垢でキラキラとしていた彼女の自信を奪い、劣等感を植え付け、否定の言葉を重ね続けたのは紛れもなく自分自身である。
自分の選択が一人の少女を変えてしまった。その事実は重く間宮の中に居座った。
自習室から飛び出した彼女の後を追う事も出来ず、ただスマホを起動させて通話履歴の一番上に表示されている連絡先をタップする。
部活動中であるはずなのに、それは一コール立たず相手と間宮を繋ぐ。
『どうしたの、九十九。連絡くれるなんて珍しいじゃない』
「やっぱり駄目だった。俺のせいで、俺がそうしたから、選んだから駄目だった」
『可哀想に。沢山傷付いてしまったね。泣いてはいないかい? あぁ、本当にお前は可哀想だ』
電話越しだというのに、昔のように御来屋の胸の中に納まって頭を撫でられているような感覚になる。世界で一番安心する場所に回帰したような気持ちになる。
『だから言ったじゃない。お前には何も無いんだよって』
それは確かに洗脳と呼べるものだった。
自分には何もないから御来屋に頼らなければならない。誤った考えしか浮かばないから自分で選択をしてはいけない。自分のことを決めるべきではない。
『いいね、九十九』
あの頃も、そして今も、御来屋棗は間宮にとっての神様だった。
***
「お前の予想通りだったなぁ、拠千代」
誰もが二の句を継げずに黙り込んでいた部室に、十條のからりとした声が響く。
そうして彼が呼んだ名前はこの場にいるはずの無い人間のもので、手にしたスマホには通話中という文字が表示されている。
『手を煩わせてすみません』
「いいや構わん。後の責任はお前が取れ。俺はこの問題に関して傍観者だ」
それだけ言った後に、十條が通話をスピーカーモードに切り替え、目の前に立っている間宮へと差し出す。顎をクイと前に突き出し、目だけでそれを受け取れと伝えた。
状況が分からない間宮が、少しだけ震える手でそれを受け取り、両掌の上に置く。
すると、周りに聞こえるくらいの音量で電話口の向こうにいる世良が話し始めた。
『君は御来屋棗じゃない。それから、あいつは別に神様でも何でもない。都合の悪いことから逃げた時にたまたまあいつが手を差し伸べただけだ。これまでお前の背中を押したり、手を引いて走って来たのは確かに棗かもしれないけれど、今はそうじゃないだろう』
思えば十條と話している時からずっと、世良の声はどこか不機嫌そうに聞こえた。
とくに彼をよく知る三年生たちにとっては、滅多に怒らない彼が見せる新しい一面に驚きを隠せない。
「なんで、先生がそんなこと」
『棗に聞いた。あいつがお前に何をしたか。いや、何をさせなかったか。全部聞いたよ』
世良の言葉に間宮がぐっと息を詰める。
特に御来屋との過去を隠しているつもりも、喋りたくないと思ったことも無かったけれど、それでも家族や親戚以外にこの話をしたことが無かったから。
『瑛人たちがお前を高みへと引き上げてくれる。亜蘭たちがお前と一緒に走って、ときには背中を押してくれる。そんなに素敵な人たちを前に、まだあいつの言う事が一番正しいと言うか』
「じゃあ間違ったらどうしたらいいんですか!」
ずっと昔から考えていたことだった。
全ての選択肢を御来屋が掌握するという事が間違っているとは薄々気が付いていたし、それに付き従う自分自身の事も嫌いだった。
けれど間宮にはそうする以外の生き方が分からなかったし、それを考える力ももうどこにも残っていなかった。
彼の言う通りにしておけば間違いない。試験もオーディションも絶対に失敗しない。あの日のような出来事は二度と起こらない。誰かを壊してしまうようなことは無い。
自分の選んだ言葉が誰かを傷付けてしまうことが怖いから、そっと呼吸を止めるのだ。
間宮の腹の底から吐き出された声は四方八方の壁に反響し、やがて吸い込まれていく。しかしそれが全て消え去る前に、スマホから世良の怒号が飛ぶ。
『何かを間違えない人間なんてどこにも存在しない!』
十條よりも彼らと年齢の近い世良の言葉は、閉ざされてた間宮の心にするりと入り込み、内側から鍵をこじ開けようとしている。
誰よりも間宮に夢を見て、可能性を感じて、未来を賭けた世良だからこそ言えた言葉だった。
『出来ても出来なくても、誰がどう言おうとも、最後はお前がやりたいかどうかだ! 心があるなら言え!』
スマホごと自身の両手を胸の辺りで握り締めて、間宮が次の言葉を必死で選んでいる。
もう分かっているのに、どう表したらいいかが分からない。
今までどれほど自分があらゆる感情から逃げてきたかをようやく実感した。
再びぎゅっと強く目を閉じた時、ふと右肩に誰かの手が置かれた。
「だって九十九。でもお前やるならまず十條先生と先輩たちに謝ってからにしろな」
「……お前ほんっと空気読まないな」
声のした方に目を向けると、音々野々がいつも通りの顔をしながら間宮を覗き込んでいた。
辟易したような目で彼を睨むが、杜若や初春ら三年生を救ったのは紛れもなくこの男の平常である。
「俺お前のことよく分かんないんだけどさ、別に間違えたっていいじゃん。そん時考えれば良くね?」
「それでお前が酷く傷付いたらどうするの」
「えっ、九十九くん俺の心配してくれるの? 嘘でしょ、そういうのキャラじゃないって」
まぁ!と音々野々が口元に手を置きながらわざとらしいリアクションをすると、間宮の中で何かがぷつんと切れたような感覚がした。
それは怒りを爆発させる類のものではなく、長らく彼の前に張り巡らされていた立ち入り禁止の警告テープが音を立てて散り散りになっていくような、そんな、穏やかだが革新的な変化。
誰かが傷付かないように。その一心だけであらゆる決断から逃げ続けてきたけれど、果たしてそれは正しい選択だったのだろうか。
「俺はお前に迷惑かけられたらめっちゃ怒る。間違ってるって思ったらぶん殴ってでも正す。だって俺お前に負けるほど弱くないし」
至極当たり前のように音々野々はそう言いながら間宮の心臓の辺りに拳を添えた。
ずっと言い訳ばかりで埋めていた心の奥底に、突如として我が物顔で現れた彼の持論は、間宮の価値観や思想をあっという間に舞い上がらせて、自分の席を勝手に作って悠々と居座る。
「だから一丁やってみろよ。選ばれたんだから、後はお前が頷くだけだぜ」
「俺が、選ばれた?」
「そう。十條先生は君を選んだんです。だから君が受けるとか受けないとかいう問題ではありません」
音々野々と間宮の会話に、ほぼ正面に立っていた志貴がそう口を挟んだ。
彼の隣に立っている寿屋も突如として口を開いた志貴を心配する様子は一切見せず、同じように間宮を黙って見つめている。
そうして志貴にしては珍しく、少し目を細めて不敵な笑みを浮かべた。
「いつでも諦めて良いですよ。僕がいますから」
その一言に一番驚いたのは三年生たちだった。
努力家で真っすぐで、あまり皮肉めいたことを言わない彼がこんなに大人数の前で宣戦布告とも言える軽口を叩くなんて、と。
「どうします? 降りるならどうぞご自由に。言っておきますが、次に選ばれるのは僕ですよ」
「あっはっは! そうだな、全くその通りだ」
志貴の言葉に十條が大きな声で笑った後、握り締めていたスマホから間宮の名を呼ぶ声がした。
先程まではずっと意識をしていたのに、すっかり目を離していたことに気が付く。
電話では世良の表情は見えない。
けれど、きっと緑と青が美しいあの場所で笑っているのだろうなと、そう思った。
『君自身の為に太鼓を叩きなさい。その選択が間違っていると誰かに言われても、これが正しいと誇れるように』
トンと音々野々が間宮の背中を押して一歩前へと押し出す。
そのしてやったり顔に若干腹が立ったが、ここまで引っ張り上げてくれたのは紛れもなく彼である。
胸に抱いた新しい感情を整理するように小さく深呼吸をし、間宮は凛と胸を張る。
「すみませんでした。俺に爛華やらせてください」
深く頭を下げながら間宮がそう言うと、少しの間部室に沈黙が流れた。
そのまま地面を見つめたままの間宮の視界に、パタパタという間の抜けた音と共に十條が履いていた来客用のスリッパが入り込んでくる。
部活終了時間ギリギリまで生意気や我が儘を言って部内を混乱させたとして、このままぶん殴られるのかという所まで覚悟し、ぎゅうと強く目を閉じた瞬間、その頭に大きな手がふわりと置かれた。
「期待しているぞ、間宮」
前に寿屋や音々野々にも同じような事を言われたけれど、その時は重荷にしか感じなかった。
自分はそんなことを言われるほどの価値ある人間じゃないと思っていたし、眩しい期待を背負うのも億劫で仕方なかった。
けれど今は不思議と前のような嫌悪感は無く、チカチカと目の前を星が飛んでいるような謎の高揚感すら感じている。
間宮にはまだそれに名前を付けることは出来なかったが、ふわりと溢れさせた笑みが全てを物語っていた。
「後悔させないように、頑張ります」
*
ミーティング後はすっかり下校時間を過ぎてしまった為に、大慌てで出しっ放しだった太鼓の片付けや部室の清掃をして、全員駆け足で昇降口へと向かった。
それぞれが飛びつくように下駄箱の扉を開けて靴に履き替える。
音々野々と間宮は同じクラスであるのですぐ近くの、そして杜若は背面で靴を取り出している時、ふと間宮が小さく呟く。
「……殴られるのかと思った」
「分かる。俺も心の中で合掌してた」
「僕はリアルでちょっと手合わせてたよ」
合宿時に起こった杜若騒動の時のように三人で声を潜めながら会話をする。
特にそこまで声のボリュームを気にせずとも、周りがざわついているから響き渡ったりはしないだろうが、なぜか秘密の会議でもするようにひっそりとそれぞれが話していた。
そうしているうちに音々野々が鮮やかな赤いスニーカーを引っ掛け、トントンと爪先で履き心地を調整する。間宮はローファーであったので既に履き終えていたが、帰らず二人を待っていた。
そんな彼の様子に、音々野々と杜若が無言で目を合わせる。
「……何」
二人が指し示したように自分を見た後に顔を合わせたのを不審に思ったのか、間宮が眼鏡の奥の瞳を怪訝そうに細めながら一言問い掛けると、二人揃ってにっこりと口角を緩ませた。
今まで「自分は自分、周りは周り」として学生生活を送っていた間宮が、切迫した状況下で同級生を待つという行動に出たのが意外であり、嬉しかったのだろう。
「何でもないよ。ね、亜蘭くん」
「別に何にも思ってないよなー、よよ」
「気色わる。置いてくよ」
再びニィと少しだけ意地悪そうに笑いながら二人が目を合わせた瞬間、間宮が踵を返して校門の方へと駆け出した。
その先には既にほぼ全員が揃っており、いつの間にか音々野々らが最後になっていたらしい。
「遅いって怒られたら亜蘭のせいだから」
「連帯責任だろ、お前も!」
勢いよく飛び出した外には満天の星空が広がっている。合宿所から見た空には当然劣るが、それでもつい見上げてしまう程に綺麗だった。
***
「世良さんに怒られちゃった。僕そんなに間違ったことしたかな」
しばらく誰かと電話していたかと思えば、突然そんなことを言いながら手にしていたスマホを近くのソファに投げ捨て、御来屋がそのままストンと他人のベッドに寝転がる。
勉強机に向かって黙々とペンを走らせていた部屋の主である初春那々人がくるりと椅子ごと体を回転させてそんな彼を心底面倒くさそうに見やった。
「話はほぼ聞いていたが、その世良さんというのは誰だ」
「えっ、那々人知らないの? 神々廻が初めて全国優勝した時のエースだよ」
「学年は重なっていないだろう。じゃあ知らん」
那々人の反応に御来屋が白い髪が大きく揺れるほどの大げさなリアクションで驚く。
元来唯我独尊的な性格で、実力主義である那々人にとっては過去に誰が存在していようと全く興味が無いのだろう。
必要なのは今であり、考えるべきは次に立つ舞台の事だけだ。
興味ありませんという表情を浮かべている那々人に過去の写真を交えながら一通り世良に関しての説明をした後、御来屋が再びふかふかとした掛け布団の上からベッドに沈み込む。
「九十九は僕の最高傑作だったんだけどな。なんか百鬼総合に塗り替えられた感」
悔しい~、と御来屋が手足をばたつかせる。
その度に掛布団には皺が出来るのが、持ち主である那々人は少し肩をすくめるばかりで注意をする気はないようだった。
御来屋と那々人は二人とも三年生であり、かつ同じクラスではあったが、部活動中その立場は明確に分かれる。
神々廻高校の部長は代々顧問が実力を査定して選出することになっていた。そうして歴代ナンバーワンの評価を得て就任したのが初春那々人であり、その彼が副部長に選んだのが御来屋棗である。
那々人は数多くの部員を有する神々廻の頂点に立つ演奏者といっても過言ではない。
だからこそ、誰もが彼を畏怖し、彼に従うのだ。
「だが結果的にお前のシナリオ通りになっているんだろう」
視線は机上の太鼓転換表に向けられていたが、ふと那々人がそう声を掛ける。
「間宮九十九は選抜メンバーに選ばれ、大会で俺たちとぶつかる。お前が描いた構図に一寸の狂いはない。過程は違えど収束点は同じだ」
「そうだけどさ。でも俺に縛られたまま太鼓を叩く九十九が可愛かったんだよ。もうあいつは俺の手を離れちゃった。それって寂しくない?」
御来屋の心のこもっていない泣き言に「別に」とだけ答え、那々人がペンを唇に添えた。
本来なら部長自らセットリストの組み込みや、転換表の作成は行わなくても良いのだが、那々人は率先してそれらをこなす。
そうして作り上げられたものは必ずと言っていいほど完璧で、そこに他の部員が口を出す余地は一切無い。
しばらく御来屋がグズグズと間宮に対する未練のような戯言を一人で喋り続け、その間は一切返事をせず那々人が最後の一曲の修正まで終える。
やがて小さく息を吐きながら、那々人が足を組み替えて御来屋と目を合わせた。
那々人は顔立ちも髪色も何もかも兄と同じであったが、その神々しい強さに溢れる瞳だけが違う。御来屋はそれが一等好きだった。
「いつまでも間宮に執着していては澪に合わせる顔が無いだろう。早々に切り替えるんだな」
そう那々人が口にした瞬間、二人がいる部屋の扉がノックされる音がした。
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